Girls' summer to love.
文章:久々野彰  絵:村人。様 

2001/07/26


 今年も例年と変わることなく大騒ぎをしながら夏はやってくる。
 受けとめる側、祐一達の変わり映えを気にすることなく無造作に。

 みーん、みんみんみん
 みーん、みんみんみん

「………」
 窓の外の校庭の樹木に止まっているらしい蝉の鳴き声は、黒板に淡々と書き記す教
師のチョークの音よりも強く、そして鮮烈に生徒達の鼓膜を刺激する。
 窓を閉めきった状態でさえこうなのだから、実際の声量はどれほどなものだろう。
 この短い夏を急かすように騒ぎ立て続けている。

「………」
 そして窓のカーテンの隙間から漏れる陽射しによる熱は、教室を閉めきってガンガ
ンに効いている筈の冷房よりも強く、そして強烈に名雪の寝顔を熱しつける。
 直射日光こそカーテンの生地によって遮られているが、熱せられる空気の熱さは窓
際の席のほぼ全員が下敷きをノートの間に挟むのではなく、扇ぐためだけに使われて
いる状態を見ればおおよそ推測できる。

「ぅ……うにゅ………」
 それでも寝ていられる一番窓に近い席の名雪には感心するばかりだ。
 カーテンの隙間は狙ったように名雪の寝顔を照らしつけ、顔からは汗が流れている
のにも関わらず、目蓋と眉をしかめる程度で、一向に目覚める様子はない。
 このままではガングロ名雪になってしまうのではないだろうか。
 二年の時のように席が隣合せならば起こしてやることもできるが、三年に進学した
今の教室では幾分席が離れていた。

 祐一はカーテン越しの熱気にあてられ、うんざりした顔で黒板を見つめている北川
に消しゴムのカスを丸めて投げつける。
「………」
 何度目かの祐一のサインに気付いた北川は、頭に消しゴムのカスを乗っけたまま斜
め前の席で熟睡している名雪を起こしにかかる。
「………」
 だが、彼らの努力にも関わらず、名雪は幸せとは程遠い寝顔をしながらも授業が終
わるまで眠り続けていた。
「………」
 そんな祐一達を詰まらなさそうに冷ややかに見る目線を祐一は背中に感じる。
 わざわざ振りかえるまでもない。
 廊下側の席に座っている香里だった。

 去年の時のように怠惰な夏を過ごすことはできない。
 高校三年生ということは同時に、受験生という立場にあたるのだから。
 かといって特別に何か受験勉強の予定を祐一は立てているわけでもない。
 夏を征する者は受験を征すとか何とか言われるが、別に夏だけ頑張れば受験が上手
く行くわけではないのだから、夏休みを延々と遊び呆けて過ごさない限りはそんなに
慌てることもない。
 勿論、普段からそれなりの地道な努力と結果が伴っていなければ苦しいのだが、そ
れは考えないようにする。

 この街の夏休みは幾分短い。
 その分冬休みが長いのだから釣り合いが取れているはずなのだが、そういう理屈は
彼のように違う場所で夏休みを迎えたことのある者には通用しない。
 ただただ短さだけを感じ、損をしているような気分になる。
 特に今年の冬休みなんか無いに等しいのだから、その思いは尚更だ。

「夏休みに入ったら、皆で海に行こうよ」
 だからと言ってそんな名雪の提案に、祐一は易々と頷くことはできなかった。
「……あのな」
「うん」
 ニコニコとしているこの従姉妹の娘さんは、全く無邪気そのままだ。
 祐一はまず名雪の前髪を掻き分けて額に手を当てる。
「な、何?」
「名雪。お前、平熱は低い方か?」
「う〜ん。特にそんなことはないと思うけど」
「チッ、熱は無いか」
「祐一、なんかひどいこと言ってない」
「いや、そんなことはないぞ」
「それでね、話を戻すけど」
「戻さなくて良い」
「じゃあ、どうしよっか? いつ行く? お休みの初めの頃がいいかな? それとも
終わりの頃?」
「あのなあ、名雪。言いたくはないがお前の成績は半年前転校してきた俺よりも…」
「祐一〜 ひどいよ〜」
「泣くな。鬱陶しい」

「そういうことで、香里。皆で一緒に海に行こうよ」
「………」
「それで日程の方なんだけど」
「名雪」
「何?」
「どう言う話の脈絡からそんな話になっているわけ?」
「え、何かおかしかった?」
「全てがおかしいわ。第一「そういうことで」ってどういうことよ」
「だから、さっき祐一を誘ったら「皆も行くなら」って言うから…」
「私は行かないわよ」
「えー 香里が来てくれないと祐一も来てくれないよ」
「あのね。今、わたしたちはそういう時期じゃないでしょう?」
「ううう、祐一と同じこと香里も言うんだ」
「当たり前でしょうが。いい、名雪? あの相沢君でさえ、それくらいのことは考え
ているのよ。あなたも少しは……」
「ま、いーんじゃないか?」
「え?」
「あ、北川君!」
「一日ぐらいなら遊んだって別にいいんじゃないか?」
「そ、そうだよね!」
 突如現れた北川の助け舟に勇気付けられる名雪。
「だったらあなたたちだけで行きなさいよ。わたしは――」
「香里。水着一緒に買いに行こうね」
「じゃあ俺は相沢にもう一度話つけてくるわ」
「ちょっと、人の話を聞きなさい!」
 香里と名雪の間に割って入っていた北川が祐一の方にやってくる。
 会話は聞こえなかったが、どうやら話はついたらしい。
 雰囲気で察するに香里は二人に押し切られることになりそうだ。
「相沢、OKだって」
 バッチシという顔をして、笑いかける北川に適当な相槌を打ちながら、祐一はぼん
やりとしたまま、名雪と話しつづける香里の姿を見つめていた。
「………」
 この街に来てから、香里と外でばったり会ったことが祐一にはない。
 学校以外の場所で会わないので、制服以外の服装をみたことがない。

 ――香里って、学校に来るの好きだから。

 かつて言っていた名雪の言葉を祐一は思い出す。
 確かに。
 香里は祐一に栞のことを話したあの最初で最後の日以外、一日たりとも欠席してい
ない。

 ――香里は楽しいみたいだよ。学校が。

 本当に学校を楽しみとして来ていたのか、それとも学校に来ることで何かから目を
背けていたのかは判らない。
 ただ、あの日も夜に待ち合わせたのは学校だったのだから、彼女は本当に休日以外
は彼女は学校に来ていたことになる。

 だから今、こうして毎日学校で香里の顔を見ることが出来るのは別におかしなこと
ではない。
「?」
 名雪と会話を打ちきって自分の席に戻りかけた香里が怪訝そうな顔をする。
 祐一が見ていたことに気付いたらしく、こっちにやってくる。
 気がつけば、いい加減にあしらっていた北川はもうとっくにいなくなっていた。
「どうしたの、相沢君?」
「あ、いや……」
 物怖じもせずに正面から祐一を見つめる香里の瞳に、彼の方が目を背けてしまう。
 香里は変わらない。
 そう、何も変わったようには見えない。

 ――だから、彼女には誰も何も聞けない。

 昼休み。
 祐一は名雪達と一緒に学食に向かう。
 年が明け、学年が上がってからはもうあの中庭に通じる鉄の扉を開けた事はない。
 あの場所は暖かいこの季節、たくさんの生徒が思い思いにお弁当を広げて賑わって
いることだろう。
 もうあそこは誰もいない、ただ一面の雪に囲まれただけの淋しい空間ではなくなっ
ている。
 その風景の中に、白い肌の少女の姿を見ることもない。

 学食は相変わらず三学年の生徒が賑わっているが、外で食べる生徒が多いせいで座
れないほど混んでいるということもない。
 いつも通り手軽な定食を注文し、カウンターで食券と引き換えに定食を受け取る。
 生徒で賑わうそのカウンターの横には業務用のクーラーボックスがある。
 中を覗くと、白く曇った業務用のクーラーボックスの中には数種類のアイスクリー
ムが入っている。
 カップのバニラアイスもその僅かな種類の中の一つとして収まっている。
 祐一はそれを眺めただけで、手を伸ばすことはしなかった。
 冬の風に吹かれながら食べたあの時の味を思い出すことはできないだろうから。

 雑談に花を咲かせる名雪や北川と共に、周囲の喧騒に紛れ込むように他愛もない話
題に茶々を入れつつ、学食をかっ込む。
 先に食べ終わった祐一は食器とトレーを片付けて、教室に戻るべく出入り口に向か
う。

 吹っ切ったことなので、今更何も思うことはない……

「…で、何やってんだ、こんなところで」
「来たら、ダメなんですか?」
「確か昼休みは毎回補習があるとか言っていなかったか?」
「大丈夫です。今日からはもうバッチシです」
「…そうか…」
「はい」
「もうすぐ期末試験だぞ…」
「はい」
「このままだともう1回…1年生確定だな…」
「そんなこと言う人、嫌いですよ」
「とにかく、本当にこんなところにいていいのか?」
「勿論です。わたしが祐一さんの側にいなくてどうするんですか。あ、いい案が浮か
びました。このまま二人で外に逃げ…散歩しましょう。きっとそこは楽しい――」
 と。
 食堂に入ってきて祐一の手を引く少女の首に。音もなくふわっと、細いロープがか
った。
 輪の形に結ばれたロープが、彼女の首のところで、きゅっと締まる。
「んきゅっ」
 まるで締められた擬音のような呻きを発して、少女の科白は途切れた。
 そしてそのロープの端を手にして、無表情な女が姿を見せる。
 だが、蔑むような爛たる半眼が彼女の感情を存分に表わしていた。
 香里だった。
「栞。今日の昼休み分の課題を放り出して何をしているの?」
 春のことを思い出す。
 栞の病は完治はしていないものの、数度の手術と新薬の試験的投薬によって小康状
態にまで落ちついた。
 そして新学期から無事に学校に通学できるようにまでに回復を見せていた。
 勿論、出席日数が足りなかったので彼女は再び一年生だったのだが、そのことにつ
いては栞も、彼女の姉である香里も気にはしなかった。
 最初の中間試験で栞の赤点だらけの答案が戻ってくるまでは。
「お、お姉ちゃ〜ん」
「「お姉ちゃん?」 はっ! わたしに妹なんていないわっ!」
 鼻を鳴らすような仕草をして栞を見下す。
「いい、栞? まさかあなた、この成績で学年トップ美坂香里の妹を名乗る気じゃな
いでしょうね」
「あぅ、目、目が恐いです〜」
「栞」
「は、はい!」
「わたしはね、別にあなたが憎くてやっているわけじゃないのよ」
「ほ、ほん……うぐっ!」
 ロープが引っ張られる。
「そうよ… 病み上がりのアンタにあれこれと望むことは酷だってことは判っている
わ」
「だ、だったら…」
「でもねっ!」
 栞に余計な口を挟ませない迫力がそこにあった。
「ひゃあ!」
「全科目赤点ギリギリのアンタがわたしの妹だなんて知れてごらんなさい? あなた
はどこへ行っても言われるのよ。比較されるのよ。蔑まれるのよ。馬鹿にされるのよ
。この学校にいる限り私の名声から逃げることは出来ないのよ。判ってる?」
「はぅ〜」
 涙目で周囲に助けを求めるが、食堂にいる誰もが栞と目をあわせてはくれなかった。
 勿論、祐一も気付かないフリ。
「で、でもでもわたしは別にお姉ちゃんと比較されて何を言われても…」
「馬鹿言うんじゃないの! これは私の名誉と沽券にも関わ……じゃなくて!」
「あ、本ねぇぇ――んがぁ!?」
 そんな調子で首を締めてたら、いつかそれで死んでしまうのではないだろうか。
 勿論、香里には言わないが。
「違うわよ。判らない娘ね。だから頭が悪いんじゃないの? だからこのままじゃあ
あと三年で卒業なんか出来るかどうかも怪しいから心配してるの。最終学歴が中学生
で終わってもいいの? 今は見た目が中学生だから有耶無耶に誤魔化せても十年二十
年してからきっと後悔することになるわよ。ああ、あの時にお姉ちゃんに従ってもっ
と勉強しておけば良かったって!」
「で、でもその時はきっと祐一さんのお嫁さんに…痛いっ!」
「はあ?」
 見ると栞のつま先をぐりぐりと踏んでいた。
「何か言ったかしら?」
「い、いえ何も……い、痛いです。お姉ちゃん!」
「じゃあすぐに図書室に戻るわよ。それとも生徒指導室の方がいいかしら? あそこ
なら邪魔も入らないし」
「ど、どうしてお姉ちゃんが鍵を持っているんですかーっ」
「秘密」
 そしてそのまま栞の首に繋げたロープを引っ張って、香里達は出ていった。
「………」
「凄かったね」
 いつのまにか祐一の横に名雪が立っていた。
「ああ。名雪、いつの間に?」
「今、食べ終わったところだったから」
「そうか」
「うん」
「………」
 早い話、この一年丸々寝ているか遊んでいるかでしかなかった状態の栞は、極度の
学力低下を招いていた。
 祐一がそれを知ったのは少し前のことだった。
 香里は極力、自分や自分の回りのことは人に話さないからなかなか判らない。
 祐一がそれまで知っていたのは、栞が病院を抜け出して遊びに来ていた中庭に突如
として現れなくなった事実と、香里と栞が姉妹であるらしい互いの言動と、その香里
がいつもと変わりない顔をしながらも時々、自虐的な表情を浮かべていることぐらい
だった。
 今までの栞と香里の経緯を考え、そこから導かれる結果は……どう考えても明るい
ものでなかった。
 先行きの明るくないらしい病態な儚げな妹の姿が見えなくなり、いつしかいつも以
上に何食わぬ顔で日々を過ごす姉だけを見つづけること数ヶ月。
 それは冬が終わり、春が来ても変わることはなかった。
 祐一はわざわざ問いただすほどの勇気や無遠慮なものは持っていなかったし、香里
もどんな些細なことでも聞かれない限り黙っているという性格をしていたので、彼の
中では既に栞は死んでしまったものとばかり思っていた。
 新学期に元気な顔をして栞がやってくるまで。
 だが、そんなかつて中庭で見せついた明るい顔を栞が続けていたのと対照的に、香
里の表情に徐々に陰りを見せ始めたのを見て、祐一の中で一度巣食っていた不安が再
び蘇っていた。
 栞はやっぱり今は一応元気な顔をしているが、死期は近いのではないだろうかとい
う不安が。
 それがまさか、栞の学力の著しい低下が原因とは予想もつかなかった。

 ――つまりだ、思わせぶりなんだなよな……香里は。

 それが今では祐一の中での結論になっている。
 栞のことを聞くわけにもいかず、かと言って皆といる時は相変わらずのいつもと変
わりない顔絵をしながら、ため息の回数が増えている香里が気になって声をかけた時
は我ながら赤面ものだった。

「…香里」
「…何よ。相沢君」
 屋上で黄昏ている香里を見つけて、祐一は遂に声をかける決意をした。
「………」
「……なに?」
 憂いを隠したような、取り繕った微笑み。
 彼女の中の淋しさの感情が見え隠れするような、そんな雰囲気を感じてしまう表情
を見せられると、祐一でなくても溜まらなくなる。
「そんな顔するなよ」
「はあ? あのね……」
「そうじゃない! そうじゃなくてっ!」
 香里のとぼけた声が、彼女のいつもの誤魔化し方と考えていた祐一は激しく首を横
に振った。
 自分でもどうしてここまで激しているのか判らない。
 ただ、彼女が一人で苦しんでいるのを見ていたくなかった。
「……相沢君?」
「辛いんだよ! お前がそんな顔をしているのを見ると」
 どうしてそこまで彼女に思い入れているのか判らないまま、言葉だけは口から次々
と続いていく。
「ええと、話が見えないんだけど…」
「だからお前がそんな無理しているのを見ているのが……」
「無理? 私は無理なんか……」
「………」
「な、なによ」
「………」
「……何? だったら今の相沢君みたいに暗い顔して見せれば良いわけ?」
「馬鹿。そんななんじゃない」
「アンタよく私に馬鹿なんて言えるわね」
「まーな。馬鹿だから人にも馬鹿って言えるんだ」
「……ふふ、何よそれ。全然判らないわ」
「なあ、香里」
「なに?」
「これは俺の我侭かも知れねーが…」
「我侭よ」
「まだ言ってない」
「どーせ、そんな前置きする位だもの。ろくでもない身勝手で図々しい独り善がり要
求でもする気でしょう?」
「容赦ないな」
「する必要があるの?」
「……いや、ないか」
「でしょう」
 そこで初めて二人同時に笑った。
 暫く、二人の笑い声だけが響いていた。
「それで?」
 先に笑い終えた香里が祐一に聞く。
「いや、もういい」
「何なのよ、それは…」
「俺の目的は達したから」
「はあ?」
「これからもさ」
「?」
「これからもそんな風に笑っていてくれよ」
「はあ? 何言ってるのよ」
「お前がそんな風に笑ってくれると嬉しいってことだよ」
「誰が?」
「それは勿論………あ、いや………俺がだ」
「………」
 呆れたとばかりに心底馬鹿にしきった冷たい目で香里は祐一を見ていた。
 だが、すぐに笑って、
「はいはい。判ったわよ。相沢君みたいに能天気になればいーんでしょ。努力してあ
げるわよ」
「随分と引っかかる言い方だな」
「……「嘘」は言ってないわ」
 嘘に強いアクセントがあった。
「俺は言ってないぞ」
 だから思わず言い返してしまった。
「そんなこと何も言ってないけど」
「うっ……」
「ふふ……」
「あー、で、でもな」
「何?」
「嘘ではないぞ」
「ええ。判ってるわ」
 そう言って改めて笑う香里の笑顔は眩しく見えた。
「有難う。相沢君」
「あ、いや……」
「で、悪いんだけど……」
「ん?」
「私の悩みはきっと相沢君が考えているようなものじゃないと思うんだけど」
「へ?」
 そこで初めて祐一は真相を聞いた。
 原因がただの栞の成績不振だということを。
 その場にいたのが香里一人で、大笑いされなかったの救いだったがえらいハジをか
いた。
「でも、よくもまあ相沢君はそこまで気が回るわね」
「わ、悪かったな」
 我ながら一方的に振りまわされてしまったと思う。
 香里にしてみれば祐一の一人相撲なのだろうが、彼から言わせれば香里のそんな秘
密主義のような性格がこんな誤解を生んだ原因だと言いたい。

 そしてその結果として、
「祐一、最近香里の方ばっかり見てるよね」
 そんな認識をされるようになってしまった。
「いや、そんなことはないぞ」
「でも前に香里が具合悪そうにしているの、一番最初に気付いたし」
「それはたまたまだ」
「………」
「本当だぞ」
 名雪の顔は聞分けのない子供をあやしているような優しい微笑みになっていた。
 こんな顔になると秋子さんそっくりだ。
「祐一。大丈夫だよ」
「何がだ?」
「香里もきっと、祐一のこと嫌いじゃないよ」
「だからなあ……」
「わたし、応援してるから」
「おい、名雪」
「それとね、祐一」
「ん?」
「ううん。なんでもないっ」
「?」
 そんな思わせぶりな態度を名雪が見せてから一ヶ月。
 祐一達の試験期間はあっさりと何事もなく過ぎていった。
 ノート供出担当の名雪と徹夜勉強担当の祐一の一夜漬けコンビが夏休み補習の赤点
ラインをかろうじて潜り抜けたり、香里が相変わらずかつての佐祐理さんに並ぶ勢い
で連続学年一位記録を続けていたり、北川らその他大勢が適当な数字で一喜一憂して
いたりと、何も特別なこともなく夏休みに突入した。

「祐一さん。頑張りましたー 赤点がたったの3つですー これで私も一緒に海に遊
びに……」
「行けるわけないでしょうが」
「あう」
 特に何も変わることなく、祐一達の高校最後の夏休みが始まった。


 見渡す限りのアクアブルーの空に白い入道雲。
 目も眩むギラギラと光り輝くダズリングサン。
 空の遠くではカモメの鳴き声が響くように聞こえてくる。

「ゆーいちー」
「………」
 砂浜には敷かれた大家族用の大きいレジャーシートとビーチパラソルの元、祐一は
短い夏を満喫していた。
 別に思いの外、テスト結果が良くて浮かれていたからではない。
「祐一〜」
 こちらも試験結果が良好で機嫌の良いらしい名雪が、先に着替えて待っていた祐一
の元にやってくる。
 後ろを見るが、香里はまだ来ていないようだった。
 普通、女子同士なら片方が先に着替え終わっても、もう片方の着替えが終わるまで
待ってから一緒に来るものだろうが、この二人にはそのようなものはないようだ。
「祐一。水着似合ってるかな?」
 名雪は顔を赤くしながらも、シンプルながらフリルのついた淡いピンクのワンピー
スの水着姿で祐一の前に立つ。
「なあ名雪」
「何?」
 名雪があれだけ早い時期から騒いで中心になって綿密に計画した筈の海水浴の参加
者は、何故か祐一と名雪と香里だけだった。
 少なくても北川だけは来ていると思ったのだが、名雪は急用ができたらしいとだけ
しか説明していない。
 その説明には祐一も香里も信じることはできなかった。
 名雪は嘘をつくのは下手だが、誤魔化すのは母親譲りなのか意外に上手い。
 ここまでそのことを何度となく聞こうとしたのだが、はぐらかされてしまった。
「……いや、やっぱりいい」
 名雪の企みは薄々判らなくもないが、ここは敢えて触れないことにする。
 祐一達が特に相手にしなければ済むことだ。
「で、どう? 祐一」
 その言葉を受けて祐一はわざわざ名雪のつま先から順に見上げるように眺める。
「名雪」
「何?」

「成長、逆行していないか?」

「お待たせ」
「おう」
「名雪、どうかしたの?」
「さあな」
 がーんがーんがーんと一人エコーを続けている名雪を無視して、遅れてやって来た
香里に軽く手を上げる。
 最初に目に飛び込んできたのは赤のストリングビキニだった。
「おう」
「え?」
「あ、いや…」
「わ、香里」
「え?」
 ショックから復活した名雪が驚いたような声を上げる。
「やっぱりいつ見ても香里は凄いよ〜 羨ましいよ〜」
「……あんまりジロジロみないでよ」
 心なしか口調がいつもよりも大人しい。
 どうやら恥ずかしがっているようである。

 …恥ずかしがっている?

 あの美坂香里が?

 結構レアかも。
 いや、激レア。
 ここはもう一押ししてみるか。

「香里、香里」
「何よ?」
 表情からして幾分警戒しているように感じる。
 こういう時はさらっと流すように言った方が効果的だ。
「似合ってるぞ」
「………」

 よっしゃあ!

 人生最大の勝利の瞬間――祐一はこの時を待ち望んでいた。

「相沢君………馬鹿?」
「…う、うぐぅ」
 というほど世の中は甘くなかったようで、次の瞬間には目の前で冷ややかな顔をし
た香里の顔があったりする。

    

「ま、今回は素直に誉め言葉として受け取っておくわ」
 それでもやっぱり彼女にも照れがあったのか、祐一の視線から逃れるように顔を横
に向けた。
「俺はいつだって素直で正直なナイスガイだぞ」
「そうそう、祐一は香里には優しいんだよね。わたしの時とは大違いだよ〜」
「な、名雪!」
「何、名雪。相沢君に何か言われたの?」
「実はね……」
 祐一は名雪が訴えかける様に香里にさっきの祐一の言動について説明をはじめるの
をぼんやりと見ていた。

 ――やっぱり香里はどんな時でも香里だったわけで。

 そんな彼の思いに同調するような声が背中の方から聞こえてくる。
「お姉ちゃんは不感症ですから」
「なるほど、だからなかなか動じないわけか」
 不感症については敢えてツッコミはいれなかった。
「そうです。ここは一発、若くて明るくて可愛い私に乗り換えませんか?」
「何でアンタがここにいるのよ?」
「まあ香里、そんなに睨むなよ」
「相沢君も少しは動じないさいよ」
「いや、こんなことぐらいは十二分に有り得る話かと」
 何となく、な。と言う祐一に香里は呆れた顔を見せる。
「あのね…」
「えへへー」
「栞も嬉しそうに笑ってるんじゃないのっ! 補習はどうしたのよ!?」
「病院に行くと言って許しを得ましたー」
「アンタって娘は……自分の今、置かれた立場が判ってるの!?」
「判ってます! だからこそ、わざわざここまで追いかけてきたんです」
「何でよっ」
「だって、お姉ちゃんと相沢さんを二人きりにしたらどんな間違いが起こるか判らな
いじゃないですか!」
「……想像以上の色ボケね。ここまで来ると誉めてあげたくなるぐらいだわ」
「あのー 栞ちゃん。一応、わたしもいるんだけど…」
「あ、祐一さん! この水着、どうですか? 昨日買ったばっかりなんです〜」
 栞は名雪を無視するように祐一の前へ出ると、羽織っていただけのパーカーを肩か
らずらして、スカート式ボトムの白いセパレーツの水着姿を披露してくれた。
「…が、がお。無視されちゃったよ」
「えーとだ、栞。本当に身体の方は大丈夫なのか?」
「はいっ! もうバッチシです!!」
「元気になって良かったな」
「はいっ」
 祐一の言葉に元気良く返事を返す栞。
「でもやっぱり、いきなり海水浴はどうかと思うぞ」
「う〜」
「でもまあ、軽く運動するぐらいなら大丈夫だろ」
「はいっ」
「ちょっと相沢君。あんんまり甘やかさないでくれる」
「お姉ちゃんはシャラップ!!」
「何でそんなに元気なのかしら」
「きっと元気の出る薬を飲んだからだよー」
「愛です! きっと!!」
「ま、まあ…俺はどうでもいいが」
「祐一さん。一緒にアイスクリーム買いに行きましょう! ほら、こっちです!」
「お、おい……引っ張るなって」

「……相沢君って口は悪いけど、それでも無難にいい人よね」
 口調だけは呆れたような感じだったが、栞に引っ張られていく祐一を見る香里の目
は幾分優しいものを感じさせる。
「でもちょっと、自分のことや周りのこととかが全然見えていない気もしないでもな
いけど」
「そうだねー」
「名雪にもそういうところあるわよ」
「え、そ、そうかなあ……」
「ええ。ずっと見てきた私が言うのだから間違いないわ」
「う〜」
「ふふっ… でも本当に良かったわ」
「いいって?」
「何だかんだ言って栞が元気になったのは、相沢君のおかげだから」
「そうなのかな」
「そうよ。本当は私がやらなくちゃいけないことを、彼が代わりにやってくれたんだ
から……素直に感謝しているわ」
「………」
「彼がいなかったら今頃、あの娘はこんな夏は迎えられなかったでしょうから」
「香里も、ね」
「え?」
 香里は驚いて名雪を見ると、ニコと笑いかけてきた。
 邪心のまるで感じられない子供の様な微笑。
 名雪の心から微笑み。
「………」
「ええ。そうね……」
 その顔に香里は嘘をつく気にはなれなかった。
「でもどうして相沢君って、いい加減だったり真剣だったりと激しいのかしら?」
「わ。ゆ、祐一激しいんだ…」
「……何か勘違いしてない」
「う、ううん!」
 顔を赤くして首をブンブンと横に振る名雪。
「別に昼行灯風のやる時はやるってタイプでもないし……」
「わ。昼も夜もや…」
「何もやってないわよ」
「ひ、ひてゃい……かひょり〜」
 香里は柔らかい名雪の頬を摘んで引っ張る。
「だから、どうして相沢君は急にお節介になったりするのかしらって? 普段はあん
な調子で真剣なところなんか見せないのに」
「気になる?」
「そりゃあ……そうよ」
「ふふー」
「な、何よ。その笑いは」
「昔の香里だったら絶対、そんなこと言わなかったと思うよ」
「う……そんなことないわ」
「………」
 隣にいた名雪は香里の言葉には返事をせず、レジャーシートの上に腰を降ろした。
「香里、知ってる? 祐一はね、7年前の冬のこの街での記憶、ほとんど覚えていな
いんだよ」
「それって今流行りの記憶喪失?」
 香里は水着から露出した肌へ日焼け止めクリームを塗りながら、名雪に聞き返す。
「それはちょっと判らないけど……。ただ、判るんだ。あの日に祐一は心が思い出を
閉ざしてしまうくらいに、すごく辛くて悲しいことがあったんだって」
「名雪から相沢君のことは昔からよく話してくれたけど、それは初めて聞くわよね」
「うん」
「………」
「悲しいことを思い出したくないから、そのことを忘れ続けてる……それってちょっ
と悲しいことだよね」
 名雪は一瞬複雑な表情を覗かせてから、視線を中空に向ける。
「名雪は、どんなことだか知ってるの?」
「ううん。わたしは、何も知らない」
「……そう」
「………」
「………」
「………」
「で、なんで私にそんなことを話したの?」
「香里ならきっと……」
「買い被りよ」
「わ、まだ何も言ってないよ」
 香里のすばやい反応に、名雪は驚いた顔をする。
「名雪は単純だからすぐに判るわよ」
「う〜、なんだか香里ひどいこと言ってない」
「気のせいよ」
「……香里、何だか祐一に似てきた」
「えっ…」
 絶句する香里を名雪は笑顔で見る。
「祐一は香里に前の自分の姿を見たんだと思うんだ。無意識なのか意識してなのかま
では判らないけど」
 名雪は三角座りをしながら香里を見る。
「何もできなかった悔しさとか、忘れることしかできなかった哀しさとかを心のどこ
かで覚えているから、香里のこと放って置けなかったんだと思う」
「そう……でも、どうしてそれを名雪が知ってるのよ?」
「見てたんだよ。香里が祐一と話しているの」
「名雪……」
「今の香里、祐一と同じこと考えていると思うんだ」
 名雪の視線が香里からその後ろに移る。
 それにつられるように香里が振りかえると、栞にせがまれるまま祐一が彼女と波打
ち際で遊んでいる姿が遠目に彼女からも見えた。
 恋人同士の戯れと言うよりも、子供同士が海ではしゃいでいる風に見える。
「前の自分と同じような思いは、もう誰にもさせたくないって思ってるよね」
「………」
「だから香里が、栞ちゃんに必死に向き合っているのが祐一にも判るんだ」
「………」
「そして祐一もそんな香里の力になりたいから、栞ちゃんにも――
 名雪の言葉を遮って香里が名雪を呼ぶ。
「名雪」
 固い声で。
「なに?」
「随分、知ったっぷりしているわよね」
「え?」
「随分、一人で判っているじゃない」
「………」
「それで何? 名雪は何がお望みなの?」
「………」
「北川君を騙したか何かして遠ざけてまで私と相沢君をくっつけたかったわけ? ア
ンタはそれが満足なの?」
「わたしは……」
「何? 親友と従兄弟をくっつけて仲良しトリオの維持? 善意の仲介人気取り?」
「違うもん」
「じゃあ何よ」
「わたしはね…」
「名雪。さっきから聞いてると……あんまり私を舐めないでくれる?」
 名雪を見る目が細められていく。
「違うよ、違うんだから」
「だったら…」
「だったらなんでもっと素直になれないの?」
「あなたにそんなこと心配される謂れは無いわよ」
「香里こそ馬鹿にしてるよ! 祐一にも! 栞ちゃんにも! 香里のその態度って皆
に対して失礼だよ!」
「なっ…」
 名雪のこんな強い口調を初めて受けた香里は戸惑う。
「何言ってるのよ、名雪!」
「香里はね、ずるいよ。いつもいつも自分は汚れない位置に立って! 高みに一人で
立って! 自分を傷つけられるのは自分一人だって身勝手な立場に立ってて!!」
「ちょっと名雪……」
「舐めないでってこっちの言い分だよ。香里は祐一よりもずっと卑怯だよ! 全て知
ってるのに知らないふりして、気付いているのに気付かないふりして!! もしわた
しが何もしなかったら、済ました顔して祐一に「名雪と栞、どっちを選ぶにしても幸
せにしなさいよ」とか言って済ます気なんだ!!」
 流石にその物言いにはカチンときて、香里は名雪を睨みつける。
「そんな決めつけないで!! 第一、私はっ!」
「何とも思ってない!? 名雪の勝手な思い込みだ!? ずるいよ! 卑怯だよ、香
里!! 気付かないと思ってるの? 知られないままでいると思っていたの?」
「………」
「わたしは頭は香里よりずっと悪いし、要領も悪いし、行動力もないし、寝起きは悪
いし、女の子らしい魅力なんてないし、全然子供っぽいし、でもね、それでもね、わ
たしは……」
 名雪は俯いて自分の胸に手を当てながら喋るが、途中で声が詰まる。
「じゃあ名雪。あなたはどうなのよ!? あなたこそ……」
 その香里の言葉は続かなかった。
 名雪が微笑みながら泣いていたから。
 恥ずかしそうに微笑んでいたから。
「香里。わたしはね、ずっと前に祐一にふられちゃったんだ」
「え……」
「あの七年前の雪の日に……わたしの全ての思いを祐一に向けたけど、届かなかった
んだ」
「………」
「その記憶も、今の祐一にはないんだけどね」
 淋しげな、笑い。
 その笑いは、初めて香里が親友となった彼女から相沢祐一という幼なじみの存在を
聞いた頃に見せた笑顔だった。
 それからすぐに楽しかった思い出を一杯喋り出した時には、消えていた笑み。
「香里、絶対にこのままじゃ駄目だよ」
「………」
「確かに、余計なお世話だよ。それに香里には良い迷惑だよ。わたし、自分の思いを
香里に押し付けてるよ。わたしじゃやっぱり駄目だからね。でも、でもね……それで
もわたしは香里が、祐一が好きだから……二人が大好きだから……だから……」
「はいはいはい。わかったわよ、名雪」
「え、あ……あの。香里」
「アンタ、私に向かって怒鳴ったのってもしかして初めてじゃなかったっけ?」
「う、うん……その、ごめんね。香里。わたし……」
「今更アンタが弱気になってどうするのよ」
「う、うん……」
「その、さあ……」
 髪を頻りに手で掻きあげる。
 どう言葉を発していいのか迷っているような仕草。
「私はまだ……」
「そんな素直じゃないところも祐一にそっくりだよ」
「……いいの?」
 名雪の茶々にも今度は反応せず、香里は少し俯き顔をやや赤くしながら聞いた。
「うん」
「私……」
「香里ならきっと大丈夫だから」
「どこにそんな根拠があるのよ」
 香里は半眼で名雪を見るが、今度の目つきは香里が相手に呆れた時に見せるいつも
の目つきだった。
「わたしのお墨付きだよ」
 だから名雪も満面の笑みでその香里に応えてみせた。
「全然価値はなさそうね」
 そう笑いながらも、香里は立ちあがった。
 迷いを感じさせないほどの、いつもの香里のような動きだった。
 遠くではまだ祐一は栞に振りまわされていて、こちらに向かいながらも辿りつかな
いでいるのが見える。
「ふぁいとっ、だよ」
 名雪は立ちあがって水着の裾のところを直している香里に向かってそう言った。
「何言ってるのよ」
 だが、香里は笑いながら名雪を見下ろしていた。
 妖艶で悪戯っぽい微笑み。
「な、なに、香里?」
「あなたも、来るのよ」
 そう言ってグイと座っていた名雪の腕を引っ張って起こす。
「え? え? え――っ!?」
「忘れられているのなら、またやり直せばいいじゃない」
「で、でもでもっ」
「一人だけ、傍観者でいられると思ったら大間違いよ」
「う〜 か、香里ぃ……」
「いいからいいから。相沢く〜ん」
「わっ、わっ」
 香里は名雪の背中を押すようにして、祐一達の方へ駆け出していく。
 祐一もそれに気付き、二人に向かって軽く手を上げる。
 その反対側の腕は栞が両手で抱き取るようにしがみつく。

 ざあざあと打ち寄せる波の音。
 砂浜にぶつかって飛び散る波飛沫。

 かつての雪の少女達が、それぞれの記憶の中と同じ表情で…。
 降り注ぐような白い太陽の光の中で…。
 一人の少年を囲むようにして…。


 みんな穏やかに、微笑んでいた…。



                            <完>


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