『夢から覚めたら』


2000/10/18



 ――まいは祐一のために、  ――まいは佐祐理のために、  ――そしてまいは舞のために、  いつもいるから。  ここに、いるから……。  彼女はそう、俺に告げていた。  声の届く距離にはいなかったけれども、  こっちを見て彼女がそう言っているは判った。  小さな身体を強ばらせるようにして立って、  強い眼差しの中に、優しい光を込めたまま彼女は俺を見ていた。  手を伸ばしても、  声をかけても届かない場所に彼女はいるようで、  それでも俺は手を伸ばし、声を掛け続けていた。  そして彼女はそんな俺をずっと見つめたまま、動かないでいた。  それが幾度も続き、永遠に繰り返されると思われた頃、  俺は、夢から目覚めたことを知った。  いつの頃から夢を見ていたのだろう。  いつの間に、夢から覚めていたのだろう。  俺は夜中に目を醒ます。  涙を流しながら、布団を押しのけるように上体を起き上げている。  飛び起きた、瞬間。  汗で濡れそぼった掌を見つめるように広げたまま、俺は固まっていた。  …俺はどうしてここにいるんだろう。  …俺は、なぜここにいるんだろう。  ひとつひとつが幸せの夢。  失いかけた夢の欠片。  笑顔を見たくて、  泣き顔はもうみたくなくて、  悲しいことは嫌いだから、  ただ毎日を笑って過ごしたかったから、  俺はここにいる。  誰のためでもなく、  俺がそうしたかったから。  ……そして俺は、ここにいた。 『夢から覚めたら』  ――動物園に行こうか  ――うん  ――いっぱいいっぱい遊ぼうか  ――うん  ――手、繋いで行こうか  ――うん  ――一緒だからな  ――うん  ――いつまでも、一緒だからな  ――うん  ――いつまでも……  そう、いつまでも…… 「ぅぅぅ……あぅぅ……」  自分の唸り声で目を覚ます。  唸り声と言うよりも、泣き声で。  今日もまた、俺は起きていた。 「祐一さん、大丈夫ですか?」 「佐祐理……さん」 「随分と今日もうなされていましたけど」 「え、あ……」  思考が固まる。  今日も昨日と同じ夢。  昨日も一昨日と同じ出来事。  俺は夜中に目覚めて、佐祐理さんが傍らにいる。  そしてどうして佐祐理さんがいるのか理解できなくて、言葉に詰まる。  それも一瞬のことだ。  すぐに思い出す。  俺は佐祐理さんと暮らしていることに。  いや、俺と佐祐理さんともう一人…… 「ごめん。また起こしちゃった?」 「いえ、気にしないで下さい」  洗面台で顔を洗った後、佐祐理さんが用意してくれたバスタオルで濡れた顔を拭き ながら、俺は彼女に謝る。  昨日と同じぐらいの時間なら、ここ最近起きてしまうのと同じ時間帯ならまだ深夜 の筈だ。  こんな時間に毎晩起こされてはたまらないだろう。 「毎晩毎晩、本当にごめんな」 「いいんですよ。そんなに気を使わないで下さい」  重ねて詫びる俺に、佐祐理さんは笑顔を見せてくれた。  いつものように、俺に安らぎを与えてくれるような、  全てを許してくれているような笑顔で。  そして、それを見るのが俺にはとても苦しかった。 ・ ・ ・  舞の姿が消えたのは2月を迎えて少し経った頃だった。  忽然と、俺たちの前から、彼女は姿を消した。  いつものように昼休みに階段の踊り場で一緒に昼食を取りながら、俺はさも今思い ついたように舞に声をかけた。 「そうだ、舞」 「………」  舞が顔を上げる。  口をもぐもぐと動かして仕種が、可愛らしい。  そう思ったのは俺だけではないようで、一緒にいる佐祐理さんも口元を綻ばせて舞 を見ていた。 「佐祐理さんとも話したんだけど……卒業したらさ、広めの部屋を借りてさ、舞と佐 祐理さんと俺の三人で暮らしてみないか?」  箸を口にくわえた姿勢のまま、舞が佐祐理さんの方を向く。  佐祐理さんは笑顔で舞に頷いて見せた。 「家族みたいにさ、飽きるまで暮らしてみないか?」 「家族、みたいに……」 「ああ。舞のこともずっと見守ってやれるし、絶対楽しいと思うぜ」 「…本当に…?」 「ああ、佐祐理さんだって……」 「はい。佐祐理は舞さえよかったら大賛成です」 「………」 「………」 「………」  舞の沈黙に対して俺は少し、唐突過ぎただろうかと不安になる。 「祐一さん、お茶をどうぞ」 「へ? あ、どうも…」  少し緊張していた俺の前に佐祐理さんがコップを差し出す。  暖かいお茶の湯気が、鼻腔から身体全体に染み渡るようだった。  一口お茶を啜った。  心が、落ち着くのを感じた。  そして、改めてもう一度、問い返した。 「舞は、そうしたいか?」 「………」  俺と佐祐理さんが見守る中、舞は箸を持った手を膝元に置くと、 「…そうしたい」  と、照れたように呟いた。 「よし。決定だ」 「うん…」  俺と佐祐理さんが喝采する。 「何だか今から楽しみです」 「その前に色々と大変だろうけどな」  浮かれる俺に、舞はおずおずと声をかけてきた。 「…祐一、佐祐理」 「ん?」 「なに、舞?」 「…ありがとう」 「ああ」 「そんな、佐祐理たちも嬉しいんですよ」 「本当にありがとう」  舞がにわかに微笑んで繰り返した。  そして…  その日から、舞は姿を消した。  彼女は、学校から家に帰って来ることがなかった。  学校も卒業間近の生徒の失踪には多少の動揺があった。  が、本気で彼女を案じて、探し続けたのは俺たちだけだった。  翌日からこの町の全てを探し回った。  そして一番最初に探した場所に俺が戻ってくるのにはそう時間はかからなかった。  夜の、学校に。 「舞っ…舞っ…!」  学校に魔物がいるといった舞。  一人、夜の学校で戦い続けた舞。  俺はそんな彼女と共に、この夜の学校に通い続けた。  けれども、何故かある日を境に魔物の姿が消えた。  いや、舞はそう言った。  それから数日間は、確かに魔物は現われなかった。 「おまえ、どうしてこんな真似するんだよ…」  ……本当に彼女が言うように、魔物は消えたのか? 「ずっと、一緒にいくんだろっ!? ずっと一緒に暮らしてゆくんだろっ!?」  そんなこと、考えもしなかった。  魔物の存在を感知できるのは舞一人で、  俺はその彼女の言葉を信じるしかなかった。 「そう、約束したじゃないかっ…」  魔物が消えたという言葉に、俺はどうして疑いを持たなかったのか。 「俺たちだっておまえのことが好きだったのに…大好きだったのに…」  あまりに急で、都合が良すぎた。 「いつだって、おまえは…自分中心で…」  なのに、 「なんだって、勝手にいなくなりやがって…」  俺はどうして… 「そんなのって卑怯じゃないかっ…」  信じたかった。  忘れたかった。 「舞…!」  そんなのは、どこにもいないから。  本当は魔物なんて、 「舞っ…!」  魔物なんて、いないから… 「舞っ……!!」  ――…魔物がくるのっ  ――いつもの遊び場所にっ…  ――だから守らなくちゃっ…ふたりで守ろうよっ  ――あたしたちの遊び場所で、もう遊べなくなるよっ  ――ウソじゃないよっ…ほんとだよっ  ――ほんとうにくるんだよっ…あたしひとりじゃ守れないよっ…  ――一緒に守ってよっ…ふたりの遊び場所だよっ…  ――待ってるからっ…  ……彼女は戦っていたのに…  ――ひとりで戦ってるからっ…  ……あの日から、ずっと…  忘れていた記憶。  夢として思い出した過去。  俺は、魔物を信じてなかった。  信じていなかったから、忘れてしまった。  けど、それが本当でも嘘でも、  彼女は戦っていたのだ。  彼女の言った魔物という存在を相手に。  戦いはずっと続いていたのに、  途中で終わることなんて有り得ないのに、  俺はどうして、  どうして、  目を背けていたのだろう。  忘れようとしていたのだろう。  無かったことのように思おうとしたのだろう。  錯覚。  妄想。  誤解。  …嘘。  俺は自分を正当化させるために、自分の都合のいいように解釈をしてしまっていた。  全ては嘘だから。  嘘から始まったことだから。  だから、こんなことは有り得ない。  覚えていても、仕方がない。  過去が嘘なら、  今も嘘だから。  きっとただの嘘だから。  …だったら、  …だったらアレはなんだったんだ。  …初めて出会った日、俺は何に弾き飛ばされたんだ!?  …木刀まで持ち出して、何に備えていたというんだ!?  俺が身に受け、肌で感じ、物音まで感じ取ったものは全て嘘で片づけられるのか。  本当は有り得ないもので終わらせてしまっていたのか。  違う。  本当は、  本当は……  ――祐一さん、おはようございます  ――おはよぅ、おふたりさん  ――……おはよう、祐一  ――昨日は、学食で食べたんですよね? なんだか抜け駆けされたみたいで悔しいです  ――じゃ…舞に牛丼をここまで運ばせてこよう  ――…わかった  ――うわっ! 今からじゃなくていいし、真に受けなくてもいいっ!  ――それで一緒にプレゼントを買いにいきませんか、って話をしてるんじゃないですか  ――あ、そうだったのか  ――別々に渡すより、そのほうがいいものをあげられると思いますし、舞も喜んで   くれると思うんです  ――………  ――しかし…よく立ち直れたよな。立派だよ佐祐理さんは  ――…………祐一  ――あん?  ――佐祐理を…助けてあげて  違う。  違うんだ。  俺は、そんな殊勝な奴じゃない。  ただ、逃げたかっただけだ。  有り触れた日常を損なうものから。  俺たち、三人が楽しく過ごせる事を否定するものから。  俺だけの、俺一人の都合で。  俺の過去に犯した罪を忘れ続ける為に……  ずっと学校の廊下で膝を抱えて座っていた俺に、手を差し出してくれたのは佐祐理 さんだった。  そうしてくれなければ俺はずっとその場から動けることはなかっただろう。  いつまでも膝が震えて、自分で起き上がることさえ出来なかった。 「舞はいつか……帰ってきますから」  俺は卒業間近の佐祐理さんに全てを打ち明けた。  かつてこの学校があった場所で俺は舞と出会っていたこと。  魔物の存在を訴えて引き止める彼女を信じずに、ずっと忘れてしまっていたこと。  夜の校舎にいる「魔物」に対して舞と共に戦い始めたこと。  それが絶えたこと。  消えた舞と共に。  それを全て聞いて、佐祐理さんはそう言って微笑んでくれた。 「佐祐理と……祐一さんの元へ」  馬鹿みたいにその日からもずっと夜の校舎で待ち続けた。  舞の姿も、  魔物の姿も、  何一つ見つけることは出来なくて、きっとどっちもここで見ることは二度とないと 判ってしまっていても待ち続けた。  全ての原因が俺にあるのにも関わらず、佐祐理さんは一緒に待ち続けてくれた。  冷たい廊下に座りながら、誰も来る筈のない人気のない校舎の暗がりの中で、  彼女は微笑みを絶やすことなく……  ――佐祐理を…助けてあげて 「舞、俺にはできないよ。お前なんかじゃ……」  思い出す度に、自嘲することしか俺には出来なかった。  佐祐理さんは卒業した。  一人きりの卒業式。  いつも彼女の側にいた不器用な性格の少女はそこにいなくて、肩が寂しそうにして いた。  見ている俺は辛かったけれども、佐祐理さんの方がずっと寂しいだろう。  ずっと辛いだろう。  それなのに、彼女は微笑みを絶やすことはなかった。  舞の存在を忘れて祝福に終始する式典、卒業生、在校生、教職員、父兄、そして桜 の花。  まるでそんな人は最初からいなかったかのような、笑顔。そして祝福される一日。  それらを見る度に無性に腹が立ち、同時に哀しさだけが募った。  ……この空の下に、舞はいるのだろうか。  ……同じ青空を見ていてくれているだろうか。 「あははーっ、祐一さん。お待たせしましたー」 「おう」  校門前で雲の殆どない青空を見上げていると、佐祐理さんがやってきた。  俺は校門に寄り掛っていた背を浮かせて、軽く手をあげた。 「これから、どうしましょうか?」 「そうだな、何か食べに行こうか」 「うーん。そうですねぇ……」  舞がいない日々。  そんなものがあるなんて、考えにくかった。  これから、というものがピンとこない状態だった。  待ち続けようと、  これからもずっと舞を待ち続けようと佐祐理さんは言ってくれた。  そして俺は舞と三人で暮らす筈だったアパートへ、佐祐理さんと共に暮らし始めた。  考えてみれば、奇妙な同居生活だったと思う。 ・ ・ ・  ――出会ったんですよ、わたしが頑張れる目標と  ――佐祐理はまだ…まだまだこれからなんです  ――がんばってる最中なんです  その目標を無くしてしまったのは、俺のせいだ。  そんな俺が佐祐理さんと一緒にいていいのか。  俺は、本当に舞を待つ資格があるのか。  本当は命を懸けてでも舞を探し続けたかった。  永遠にでも一人で待ち続けたかった。  俺にその資格があるわけでも、意地があったわけでもない。  佐祐理さんの前にいたくなかった。  佐祐理さんの側にいたくなかった。  佐祐理さんの隣にいたくなかった。  佐祐理さんの笑顔が、俺には痛かった。  どんな刃よりも、どんな言葉よりも鋭く、深く、俺の胸を抉り続けた。  顔を突き合わせる度に爪で皮膚を抉られるような、  釘を胸に打ち込まれるような、  そんな痛みが身体を襲った。  途方もない自分勝手。  途轍もない自己中心的思考。  身勝手な感情の暴走は、自覚していても止まることはなかった。  いや、自覚しているからだろう。  普段は押さえることが出来る代りに――  俺は夜を失った。  繰り返される夢。  蘇る記憶。  懐かしい記憶でも、  楽しい思い出でも、  今の俺には全て、責め立てる記憶でしかなかった。  俺は夢の中で喚くことしかできなくて、  泣いて謝ることしかできなくて、  それでいて必死で失ったものを取り戻そうと手を伸ばして、  足掻いて、悶えて、  ……目が、覚める。  それが毎晩続くことに対しての怒りはなかった。  あったとすれば、こんな夢など見るはずがない。  俺は悔やんでいた。  ただ悔やんでいた。  舞が魔物と戦うようになったのも、  舞がいなくなったのも、  今の不安定な生活を招いたのも、  佐祐理さんを、  彼女をただ笑わせ続けているのも、  みんな、俺のせいだから。  俺から始まっているのだから。  夢の中でしか事実と向き合えないでいる自分が情けなかった。  これが罰と言うのなら、甘んじて受けよう。  これが慰めだというのなら、喜んで受けよう。  でも、 「はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…」 「………」  そんなことでまた一つ、佐祐理さんを心配させている自分が悔しかった。  一度も我慢できずに、毎晩毎晩、ただ泣き喚くばかりで彼女を助けるどころか、迷 惑しかかけていない。  彼女が俺といて、一度でも良かったことがあるだろうか。  実際、彼女にとって俺の存在は、悪いものしかないのではないだろうか。 「悪い、佐祐理さん。今日から俺、余所で寝るよ」  決意の果てに、俺は寝袋を買った。  余所と言ってもアテもないので外で寝るしかない。  また名雪の家でお世話になるという選択肢もある。  俺の使っていた部屋なら、少し位喚いても家のものが起き出す可能性はないだろう。  隣は何よりあの名雪だ。  けれども、また再び他人を迷惑に巻き込むのは避けたかった。  第一、一度は出た家だ。  今更何をのこのこと、という思いもある。 「そんな! 佐祐理のことでしたら気にしないで下さい」 「いや、でもさ……」  もう二週間もこんな夜が続こうとしている。  俺が耐え切れなかった。  これ以上俺のせいで彼女に迷惑をかけることも、  それでも絶やすことのない彼女の笑顔を見続けることも。 「そ、その……祐一、さん」 「………」 「……いや、寝るときだけだから」  どこか言い訳がましく、言葉を連ねる俺。  まるで中学生が、自分を心配する母親を傷つけないように言っているみたいで滑稽 な図式だったと思う。  事実、そのようなものだった。  これ以上、彼女を傷つけたくなかった。  けれどもそれ以上に、彼女を見ているのが苦しくて、一緒にいるのが辛かった。 「………」  一人になりたいんだという言葉を飲み込む俺。  それが彼女にはどう伝わったのだろう。 「普通に眠れるようになるまでの間だから。だから…」  取り繕いの言葉の、思いつくだけのその場限りの言い訳を並べ立て、最後には逃げ 出すようにして外に出た。  予め下見をした結果、近くの公園で雨風が凌げる場所を見つけていたので、そこに 寝袋を敷いて潜り込んだ。  下にダンボールを重ねた結果、地面からは思ったほどの冷えは伝わってこなかった けれども、辛さと痛さが身に堪えた。  それでも、夢を見ることは変わらなかった。  それは毎回同じ夢ではないけれど、いつも悲しい夢。  そしていつも苦しい夢。 「あ、祐一さん。おはようございます」 「おはよう」 「昨日は大丈夫でしたか」 「ああ。何だかちょっと身が引き締まったような気がして、安眠とまではいかなかっ たけど」  適当に半分くらいの嘘をつく。  最初から言うことを決めていただけに、澱まなく言えた。 「そうですか……今日の朝ご飯の支度、すぐにできますから」 「ああ」  いつもと変わりない朝の光景。  最後に寝る時間になった時に外に出るだけで、普段の接し方や生活はなるべく変わ らないように努めた。  それでも、前と違うことには変わりがない。  自然、互いの口数も以前よりも減っていた。  舞がいなくなった直後に比べれば、かなり減ったといえる。  元々、俺からあまり喋りかける回数は少ない。  軽口を叩くことに躊躇いを覚えている。  すでに何かが変わりつつあった。  舞がいなくなったことでおきたのとは違う、俺と佐祐理さんの間での何かが。  身体だけがそこにあって、それだけの日々が続く。  一度狂い始めた歯車はとことんズレていくように、  ぎこちない日々が増幅し、悪化することを止めようがなかった。  しかも最初から、この歯車は歪んでいたのだから当然の帰路といえた。  そして歪ませたのは他の誰でもない、俺自身のせいだった。  昼間、学校でも落着かなかった。  寝不足で頭が動かないでいるのにも関わらず、少しも眠気を感じなかった。  だからと言って、授業に集中できるような心境でもなく、今年は受験生だというの に、ロクに授業に集中できないでいた。元々、熱心に授業を聞いていたわけではない のだが。  口には出さないが、名雪たちにも心配されてしまっているようだった。  正面から口には出せないほど、誰からも気を使われている対象になっている自分が 更に一段と腹立たしくて、酷く情けなかった。  放課後、三年生だから部活動は実質無いという名雪の強い誘いで、久々に百花屋に 寄った。  幸せそうにイチゴサンデーを食べる名雪と向かい合って、久しぶりに色々と話をし た。その殆どが名雪から話し掛けていた話題だったが。  別に込み入った話じゃない。  どこでも出来る、誰とでも話せる日常での些細な出来事。  こんなことさえも久しぶりだということに気づいたのは、買い物があるという名雪 とそのまま別れてすぐだった。  店を出てすぐの、商店街のほぼ中央に位置する通りで俺は立ち尽くしていた。  そのまま、空を見上げていた。  赤い雲。  赤い空。  夕焼けが赤く空一面を染め上げて覆っていた。  いつか見た景色。  見覚えのある光景。  ……そう言えば、あいつはここんところ全然見ないな。  ――あのね…探していた物が見つかったから…ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ…  ――だから…祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね…  ――ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから…  ――…ばいばい、祐一君  まだ舞がいなくなる前の話だ。  あの日、そう言って別れたあゆの背中が見えなくなるまで、俺はこの場所から動く ことさえできなかった。  今、立ち尽くしたままのこの場所で。  舞がいなくなって、  あゆも見なくなって、  そして俺は他の誰とも距離をおこうとしている。  自分から好んで、一人になろうとしている。  馬鹿だ。  本当に馬鹿だ。  けれども、どうすることもできなくて…… 「ぅぅぅ……ぅぅ……ぅっ!」  毎晩毎晩、  夜中の公園で、  寝袋の中で、  こんな声を上げて泣きながら撥ね起きる俺は一体なんなのだろう。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  公園の水飲み場の蛇口で、凍るように冷たい水を涙で濡れた顔にかけながら息を荒 げる俺は端から見れば変質者そのものだ。 「誰かに見られたら通報されるのが普通だな……」  身体の節々が痛む。  相当の無理をしているのは自分でも分る。 「最っ低だ……」  思わず吐き捨てる。  言わないと、本当に自分は判っていないかも知れないと思う。  全てが悪い方へ、悪い方へ動いてしまっている。  そしてそれが自分の選択で行っている。  自分の意志であってまるでそうでないような、何か得体の知れない存在に支配され て動かされているような感覚がある。  痛む肩の裏側の筋肉を手で揉みながら、寝床に戻る。  破かれたサナギのようになった寝袋を見下ろしてから、その傍らに腰を下ろした。  今日は風もないので、寒くはない。  今の状況は都会ジプシーと言うよりも浮浪者に近い。  それも夜の間だけで、夜が明ければいつもの以前と何一つ変わりのない生活が始ま るというのに、今、この場にいる自分が今までの自分を否定する。  佐祐理さんはどうしているだろうか。  一人で苦しんでいないだろうか。  悲しんでいないだろうか。  ちゃんと寝ているだろうか。  愚問だ。  彼女が今、気持ちよく日々を過ごせている筈がない。  舞がいなくなったのだから。  俺がこんなにも頼りなく、助けにならない存在なのだから。  そして今もまた、こうして苦しめているのだから。  ……ごめんな、佐祐理さん。  謝り過ぎだと言われたけれども、俺には謝るくらいしかできない。  情けない限りだが。 「………」  もしかしたら、予感があったのだろうか。  ふと顔を横に向けたら、佐祐理さんがこっちに向かって歩いてきているのが見えた。  一度着替えてきたのか、俺が寝るために家を出た時とは違う服装だった。 「………」  彼女がゆっくりと近づいてきて、そして俺の目の前に立つまで俺は動かなかった。 「……祐一さん」  暫く、言葉がないようだった。  俺も何を言っていいのか判らなかった。 「こんなにまでして……」  佐祐理さんは俺の秘密基地のような寝床を見て、声を落とした。  俺は弁明することも、開き直すことも出来ずにその場に腰を下ろしたままだった。  こんな日々が続けば、いつかはこうなるものだと覚悟しておかなければいけなかっ たのだが、正直今までそこまで気を回す余裕がなかった。 「………」 「………」  互いに無言。  彼女は今の俺をどう見ているんだろうか。  どう考えているのだろうか。  それは知りたくも、聞きたくもなかった。  けれども、そういう事に限って、すぐに判ってしまうものだ。  悪い形で。 「佐祐理が…悪いんですね」 「え?」  こんな、思いがけない風に。 「佐祐理と一緒だから祐一さんは毎晩……」 「ちょ、ちょっと待って。それは……」  言葉が続かない。  見つからないと言ってもいい。 「祐一さんはちゃんと寝て下さい。佐祐理が、余所で寝ますから」 「そ、そんな……」 「で、ですから……」  佐祐理さんが一瞬、辛そうな顔をした。  その顔は見覚えがある。  以前、俺が舞の退学処分取り消しの為の署名運動を佐祐理さんと共にして、生徒会 長の久瀬に会った時……  ――舞がいなくなって…それで祐一さんまで問題を起こしたら…  ――…佐祐理の身にもなってください  あの時、佐祐理さんは本当に辛そうな表情で言った。  彼女が俺に見せた初めて見た顔だった。  だから俺は誓うしかなかった。  そんな顔を、二度としてほしくなかったから。  それなのに、俺は…… 「大丈夫です。佐祐理はどこででも寝られますから」 「ちょっ…  そんな表情を隠すようにまたにっこりと、佐祐理さんは俺に微笑んで見せた。 「佐祐理。考えたんです」  彼女は言う。 「佐祐理は頭の悪い女の子ですから、気づくのに時間がかかっちゃいました」  …チガウ。 「全て、佐祐理のせいなんですね」  …チガウ。 「舞がいなくなったのも……」  …チガウ。 「祐一さんが毎晩苦しんでいるのも……」  …チガウ。 「佐祐理がいたから……」  ――…佐祐理や祐一ともう少し一緒に居たいから  舞の言葉が蘇る。  あの時の舞はちゃんと考えて行動をしていたのに、  なのに今の俺は、  今のこの俺は……  ――佐祐理は家に帰ります。  ――ですから、祐一さんは部屋で休んで下さい。  ――お願いです。  ――佐祐理はもう、誰も悲しませたくないから。 「…っ!!」  目覚めた。  誰もいない部屋で。  誰一人いない部屋で。  俺は泣いていた。  いつものように泣いて、目覚めた。 「………」  4月からずっと毎日生活をしていた部屋。  生活の大半はここで過ごしていたが、夜の部屋を見るのは久しぶりだ。  昼間の空気が信じられないほど、人の温もりが感じられない寒々しい部屋。  家具や電化製品は多くあるのに、特に余所の家と変わりのない部屋の筈なのに、今 はどうしてこんなにも変わってしまっているのだろう。  佐祐理さんはここ数日、一人きりでここにいたのだ。  誰もいない、この部屋で。 「…っ!?」  そこでようやく今の自分を思い出す。  佐祐理さんがああ言った後、俺はどうしたのかを。  詳しくは覚えていないが、心配をかけて悪かったとか何とか言って一先ずここに戻 ってきた筈だ。  佐祐理さんと一緒に。 「………」  見回す。  枕元には俺の上着が畳まれていた。  その横に並べるようにして腕時計が外されて置かれていた。  それだけだ。 「………」  起き上がろうとすると、眩暈がして足元がフラつく。  当たり前だ。  もしかしたら微熱ぐらいはあるかも知れない。  が、構わなかった。 「………」  テーブルの元に這うようにして辿り着く。  その上には何も無かった。  何一つ、存在しなかった。 「………」  俺はそのままよろけるようにして布団の上に座り込んだ。  手がごみ箱に当たって、倒れて中のものが散乱する。  紙屑ばかりだったので気にしなかった。 「………」  そう、一度丁寧に小さく折りたたまれた紙屑ばかり。  几帳面な捨て方をされている。  そを見て漠然としたものを感じ、すぐに明確な答えがはじき出される。  そしてゆっくりと、大事なものが浮かんできた。  俺の中で膨らんできた。 「………」  俺は散らばった紙屑を全て拾って、元の位置に戻したごみ箱の中に入れる。  中を読む必要はない。  代りに腕時計を拾い上げて時間を見た。  気が付くとカーテンの向こう側から光が見え、外が明るくなり始めている。  腕時計をそのままはめると、上着を拾い上げた。  ――なんだか…佐祐理とも似てると思ったんですよ  ――なにが?  ――なんていうんですかね…  ――よくわからないですけど、背負っていたものが…でしょうか  ――祐一さんも、似てる感じしますよ  ――似たもの同士だってか? 俺は平々凡々と生きてきたからな。なんにもないよ  ――ですよね。雰囲気ですから、気にしないでくださいね  それぞれがそれぞれに苦しくて悲しい過去を背負っていて、  だからこそ人にそんな悲しい思いをさせないように気遣ってきた。  それが大事な人で、大好きな人だったら尚更だ。  明るくなったとは言え、まだ時間的にはかなり早い時間だった。  時折、ジョギングか散歩をする人ぐらいしかすれ違うことはなかった。  決して早くはなかったけれども、俺は走りながら迷わずある場所に向かっていた。  さっきまでの眩暈は吹き飛んでいた。  顔色は良くないだろうが、自分では見ることがないので気にはならない。  本当だったらもっと遅い時間、朝ご飯を食べてから行く場所。  今年一年、通い続ける場所。  目を瞑っても距離感を損なうことのない場所。  校門をくぐる。  直ぐ先には校舎があり、横にそれると校庭が広がっている。  もうすぐ時間が経てば、制服を着た沢山の生徒達がこの道を通って昇降口へと消え ていく。  時には人だかりが出来るこの場所に――  彼女はいた。 「佐祐理さん……」 「………」  佐祐理さんはじっとその場にしゃがみ込んだまま動かなかった。  かつて彼女はこの学校で三年間を過ごした。  舞と彼女との思い出がここには詰まっている。 「………」 「さっきまで、ここに山犬がいたんです」  そして数ヶ月の思い出。  俺と、彼女と、舞の思い出もここには詰まっている。 「佐祐理の手はおいしそうじゃなかったみたいです」 「冬じゃないから、腹が減ってなかったんだろ」  もしかしたら、その山犬がいつも彼女達がお弁当を与えていた犬で、そのことを覚 えていたのかも知れない。 「明け方は冷え込むな」 「…はい」  俺が彼女の側によると、彼女もゆっくりと立ち上がった。 「罰があたったんです。佐祐理が我侭だったから……」 「………」 「佐祐理が舞や祐一さんの邪魔をしていたから……だから舞もいなくなっちゃんたん です」  彼女はこの学校でかつて決意した。  この学園での三年間の生活を、舞と共に過ごし、ふたりで幸せになろうと。  相手に幸せを与えて、みんなで一緒に幸せになろうと。  一生懸命に、幸せになろうと。 「わたしの側にはいつも舞が、そして祐一さんがいてくれて… みんなでわたしの作 ったお料理を食べながら、笑ってお話をしている。それがわたしの求めた…… ずっ と、昔に求めてやまなかったこと」  彼女の言うわたしが、ここにいた。  佐祐理ではない、わたしが。 「………」 「いつしか人のことを考えないで、自分のことだけ……自分だけの幸せを考えていた んです」 「だから…」  彼女は初めて俺の顔を見た。  俺がずっと一人悔やんで、悩み続けていた顔。  一人で全てを背負い込んで責任を感じていた顔。  そんな時の顔を彼女はしていた。  俺が初めて見る彼女の顔。  そして、こんな時でさえ、彼女は笑顔を崩さない。  頬から涙が流れ落ちている、今でさえ。 「さえ……わたしさえいなければ舞はきっと……きっと祐一さんのところへ…」 「違うっ!」  思わず大声を出していた。  ビクッと佐祐理さんの身体が震えた。  が、構っているゆとりは今の俺にはなかった。  彼女の言葉は、今までの俺の言葉。  彼女の悩みは、かつての俺の悩み。  だからこそ、気づいた。  追い詰められていたのは、俺一人ではなかったことを。  そして舞が姿を消した理由。  いや、理由ではない。  それは彼女が意図したものでも、行動の原因でもないからだ。  だけれども、彼女が気付いていたのは間違い無いだろう。  このことを。 「俺は舞のことが好きだ」  俺がそう言うと、佐祐理さんの表情が強張った。  自嘲するように笑っていた顔が消えた。  糸のように流れ落ちる涙もまた、見えなくなる。 「そして俺は佐祐理さんのことが好きだ」  言い終わると同時に、微かに佐祐理さんの身体が震えているのが判った。  今日は初めての日だ。  佐祐理さんに大声を出したのも、  目の前で泣かせたのも、  ここまで震えさせたのも、  全て。  俺は何を知っていたのだというのだろう。  俺は何を思っていたのだろう。  俺は何故、あそこにいたんだ。  あそこにいることを望んだんだ。  舞と佐祐理さんと共に暮らす筈のあの場所へ。  舞がいての生活を考えていたのではない。  舞もいての生活を考えていたんだ、俺は。 「俺は佐祐理さんが好きだ」  だからもう一度繰り返した。  佐祐理さんに届くように。  佐祐理さんに聞こえるように。  俺の気持ちを。  俺の言葉を。  だから俺は彼女達と共に暮らしたかったのだ。  舞と、佐祐理さんと、俺の三人で。  みんながみんなを、全く変わらないほど、同じように必要としていたのだ。  舞は佐祐理さんが好きで、  俺は舞が好きで、  佐祐理さんは舞が好きで、  舞は俺が好きで、  俺は佐祐理さんが好きで、  佐祐理さんは俺が好きだということ。  その全ての「好き」には代りはない。  同等の思いがそこにある。  そんな事に俺は気づかなかった。  佐祐理さんが俺を好きなのは、舞が俺を好きだからという事に準じるものだと思っ てしまっていた。  だから俺は佐祐理さんを苦しめた。  その苦しみは、佐祐理さんを苦しめた。  佐祐理さんもまた、俺が舞を好きだという事の下に、俺が彼女を好きだという事を 置いてしまうようになっていた。  舞がいなくなって、俺たちが初めてわかったこと。  俺は佐祐理さんが好きなこと。  そして、 「いつの時も、祐一さんの事を考えていました。舞の事を考えるように。強く。いつ でも……」  佐祐理さんが俺を好きなこと。  思えば、これに気づくまでにひどく回り道をしたものだ。  放っておいたら互いに気付かなかったも知れないが、ここまで手の込んだことをす ることもないだろうに。  俺は校舎を見上げるようにしながら、ここにいない俺のもう一人の好きなヤツに愚 痴を零す。  そして視線を戻すと、佐祐理さんは未だに俺を見つめていた。  困惑しているような、迷っているような名残をその彼女の表情から感じた。  その顔が可愛くて、吹き出しそうになるのを堪えながら俺は言った。 「待ってたんだよ、佐祐理さんを」 「……え?」 「どうすればいいと思う」 「はい?」 「佐祐理さんはどうすれば、舞が戻ってこられると思う」 「………」  こういう顔を鳩が豆鉄砲を食らった顔と言うのだろう。  実際に初めて見る俺でも判るほどの顔だった。 「いくらだってあるはずだ、方法なんて」 「あ…」  驚いたように俺の顔を見る。  思い出してくれたようだ。 「はい、考えましょう。たくさんたくさん!」 「いいぜ。全部試してやるからな」 「そうですね! えっと、えっと…」  彼女はそのいつものような快活に、声を弾ませた。  そう、俺たちはあの頃に戻るのだ。  互いが互いを好きだということを信じて疑わなかったあの頃へ。  そして俺たちはゆっくりと歩き出した。  校門をくぐり、外へ出る。  路地を曲がり、通りを横切る。  俺たちの行き先は、最早誰もいない暗い存在感の部屋でもなければ、人気の無い公 園のでもない。  俺と、彼女の三人の住むアパート。  俺と佐祐理さんと舞の住む場所だ。  どちらともなく、手を繋いでいた。  幸い、まだそれほどの人気はなかった。  いや、通学中の生徒が数多くいたとしても、やっぱり手は繋いだに違いない。  そして二人で思いつく限りの案を出し合う。  舞を探す方法。  舞を見つけ出す方法。  その殆どがかつて試したことや、今更無駄なことばかりだ。  そんな事は俺たちにはどうでも良かった。  そして舞を待つ。  舞が俺たちの前に帰ってくる日を信じて。  ――佐祐理を…助けてあげて  舞。  俺は彼女を助けられたのだろうか。  いや、それはきっと俺の役目でも、お前の役目でも、彼女自身の役目でもない。  俺たちの役目だ。  それぞれがそれぞれに傷を持ち、そんなそれぞれが大好きな俺たち全員の役目だ。  佐祐理さんだけでない。  俺も、お前も。  みんながみんなを助けなくてはいけないし、助けたいと思っているのだ。  それをお前は知ってたんだな。  ずっと初めから。  お前は全く迷うことなく、俺も、佐祐理さんも共に好きでいたから。  手を繋いだまま、暫く歩くと見えてきた。  今まで見る度に胸が痛んだ場所。  後ろめたい感情無しには向き合えなかった場所。  そんな光景が目の前にある。  初めて、俺は言う。  心から。 「ただいま」  と。  交代でシャワーを浴びると、時間は昼に近かった。  佐祐理さんが「学校、休んでしまいましたね」と言うと、二人で笑った。  全然食事も取っていないが、それよりもまず眠くて仕方が無かった。  俺がそう言うと、佐祐理さんは一度は開いたカーテンを閉め直して、部屋の電気を 消した。  布団は俺が出ていった時のままだったので、部屋の中央に敷かれたままだった。  佐祐理さんは丁寧に布団を直すと俺の方を振り向いて言った。 「あの、佐祐理と一緒に寝ませんか」 「え?」 「祐一さんさえ良ければ……」 「あ、あの……」  気が付いてみれば彼女も寝間着に着替えていた。 「やっぱり、佐祐理じゃ駄目ですか」 「そ、そんなんじゃない。そんなんじゃないけど……」 「………」 「そ、その俺だって一応はえっと……何だ」  言いよどむ。  そんな俺に佐祐理さんは満面の、そして無防備な笑顔を見せた。 「佐祐理は、構いませんよ」 「え」 「だって、祐一さんのこと、大好きですから」 「………」  心から言える一言。  自分の気持ちを信じている一言。  それでもう、十分だった。 「だから、佐祐理は……あっ」  俺は知らずのうちに佐祐理さんの身体を抱き締めていた。  すぐにでも力を入れそうになって、それを必死で堪えるようにしてじっと抱き締め ていた。 「祐一、さ……」 「佐祐理さ……」  夢を見たように思う。  夢の中で、俺は舞が笑っているのを見た。  いや、静かに微笑んでいた。  何かを満足したように。  俺も嬉しくなって口元が緩んだのが判った。  ……必ず、戻って来いよ。  俺の言葉に、舞は頷いたのだろうか。  わからなかったけれども、きっとそうだと思う。  きっとまた会える。  そして三人で暮らす日が来ると信じているから。  俺も、そしてきっと佐祐理さんも。  だから、きっと…… ・ ・ ・ 「ふわぁぁぁ……」  夜かと思えば、外が明るい。  雀の鳴き声らしくものが聞こえてくる。  どうやら朝が来ていた。  何か本当に眠りから覚めたような気がする。  まるで今の今までが全て夢だったかのように。   「くすす、大きな欠伸ですね」 「わっ、さ、佐祐理さん!?」  見られてしまっていた。  笑われてしまっていた。  それもあはは、ではなくて、くすす、だ。  いや、深い意味はないのだが。 「お、おはよう佐祐理さん」  照れくささを隠すように俺はそそくさと挨拶をする。  そしてそんな俺に彼女は言った。 「おはよう、祐一くん」  心地良い、目覚めだった。                             <完>