『一番の幸せ』


2000/01/28(金)






「う……ん……んーっ……」


 無意識で伸びをして、腕を伸ばす。



  ガツッ!


 その拳に何か固いものが当たった音がする。
 固く、軽いものだ。
 拳を痛めることはなかったが、そのお陰で俺は目が醒めた。



「ん? ……あ……」



 目が醒めて最初に感じたのは、半身が酷く重苦しく感じた事だった。
 そして、それもすぐに理解する。



 半ば捲りあがった布団。
 首の後ろに回った手。
 胸板に乗っかっている頭。
 片脚に絡み付いている脚。
 密着している身体。



「…………はぁ……」


 一緒に寝ていた舞が、俺に抱き着いて眠っている。
 抱き着くというよりも、しがみついている格好に近い。
 頻度から考えれば、かなり毎日の事だった。


 俺ははっきりしてきた頭を軽く振ってから、舞の反対側を見る。
 佐祐理さんの姿はない。
 どうやらまだカーテンは引かれていないが、もう朝になっているらしい。
 俺は伸びをする際に伸ばしたままになっていて手だけで、自分が先ほど倒したもの
を探し当てる。
 そしてそれを見ないまま、片手で掴んで置き直す。


 目覚し時計だが、目覚しのスイッチは最初から入っていない。
 けたたましいベルで起きるよりも前に、佐祐理さんが起きているからだ。
 佐祐理さんと舞と俺の布団は文字通り川の字に並んでいる。
 舞を挟むようにして、三人で寝ている訳だが、いつも最初に起きるのは佐祐理さん
だった。



「ん……んんっ……」



 こっちがもぞもぞと動くのが気になるのか、眠ったままの舞が微かに呻くような声
をあげた。
 俺は逡巡した挙げ句、なるべく舞を起こさないようにこの場からの脱出を試みた。
 三人、それぞれが布団を敷いて寝ているのに、舞が俺に抱き着くようにして寝てい
る上から布団が掛かっているのは、きっと布団を跳ね上げてこっちに来た舞が風邪を
引かないようにと、先に起きてこれを見た佐祐理さんが掛けてくれたのだろう。



 ドアが開き、外の冷たい風が無防備に玄関近くで立っていた俺を襲ってきた。


「あ、祐一さん。おはようございます」


 既に起きて着替えた後らしく、シャツにトレーナー姿の佐祐理さんが外から入って
きた。鍵の音がしなかった所を見ると、ドアの鍵は開いていたらしい。
「おはよう、佐祐理さん」
 そう言いながら、俺は佐祐理さんが外に出ていた理由を考える。
 そしてすぐに思い当たった。


「あれ、今日のゴミ当番って佐祐理さんだっけ……って、俺じゃないか!」
「あ、気にしないで下さいー」
「気にするよ、だって確か結構、重……」
「いえ、一寸佐祐理が早く起き過ぎちゃったから、朝ご飯の支度する前に何かするこ
とを探して、気がついたからしちゃったんです」
「でも……」
「いいんですよ、本当に。佐祐理が勝手にしたくなっちゃったんですから」
「………」


 かなわない。
 油断をすると、本当に俺や舞はすることがなくなってしまう。
 俺は心の中だけで、いつかこの埋め合わせを考えておくと、
「あれ、今……何時?」
 初めて、時間が気になった。




「祐一さん、いってらっしゃーい」
「祐一、いってらっしゃい……」


 それから佐祐理さんが朝食の支度をし、俺は着替えてから起きてきた舞と共に朝食
を食べ、二人に見送られるようにして、俺はアパートを出た。
 そう、三人で暮らしているアパートを。


 あれから二人が高校を卒業すると、舞との約束通りに一緒に暮らす事にした。
 俺の両親はこの事を知らないが、話をした秋子さんからはあっさりと承諾を得てい
た。勿論、「了承」の一言でだ。
 言い出す時、かなり緊張しただけに、俺は拍子抜けしてしまった。
 一番、難儀すると思われていた佐祐理さんも、俺達と共に暮らす事を訊ねて嬉しそ
うに頷いたその日から少しも障害は無く、呆気ないほど簡単にこうして一緒に暮らす
事が出来た。
 佐祐理さんは「ちゃんとお父様に話して、許して戴きました」と笑っていたが、本
当のところはそう簡単にはいかなかっただろうと思う。
 佐祐理さんが語らない以上、敢えて訊くつもりもなかったが、実際のところ色々と
大変だったと思う。
 だが、今はこうして暮らしているアパート一つとっても不動産屋から大家から、議
員であり、地元の有力者である佐祐理さんの父親の息がかかっていないとは言い切れ
ないが、見守ってくれている姿勢には間違い無い。だから心配をかけさせないように
と、思う。
 そして舞。
 舞と舞のお袋さんの関係はとても言葉には言い表せない程、深く強いものみたいだ
った。
 詳しい事は知らない。
 けれども、昔、舞の口から断片的に聞いた話を思い出せば、そう感じる以外なかっ
た。
 その舞のお袋さんから「宜しくお願いします」と笑顔で言ってくれた時には、舞も
佐祐理さんも泣きそうな顔をしていた。
 俺は努めて顔を作ってお袋さんと一緒に「別に今生の別れじゃないんだし」と宥め
ていたけれども、二人の気持ちがそれぞれ分かるだけに辛かった。



 そして一年近く経とうとしていた。
 二人と違ってまだ、高校生の俺はこうしてこの高校に通っている。



「あ、祐一、おはよう」
「おぅ、名雪……って事はやばいーっ!!」
「祐一、それかなり失礼だよ」
「そうやって走っている事が何よりの証拠じゃないか!!」
「ちょっと、急がないといけない程度だよ」
「その「ちょっと」が信用置けないんだっ!!」
 途中、走っている名雪と共に慌ただしく校舎に入って行く。



 慌ただしい勢いそのままに教室に入る俺達に目を向けるものはあまり多くない。
 受験に専念させる為に二年からそのまま同じクラスであがって来た為に、別に住む
事になっても遅刻ギリギリに来る俺達二人のこの状況が「ありふれた光景」と皆から
認識されてしまっていたせいと、
 受験生として希望校の大学の受験に行く者やその準備の為に早くから欠席している
生徒が多いせいと、



「おはよう、名雪に相沢君。今日は一緒だったんだ」
「おはよう、香里」
「おう、香里」



 余裕を持って学校に来ている生徒が少なくなっているせいだった。
 因みに香里は推薦でとっくに決まっていた余裕を持って学校に通える数少ない生徒
の一人だった。
 周囲は勉強をしているか、落着かない表情を隠しながらそわそわしながら座ってい
た。
 それは授業が始まっても例外ではない。
 殆どの生徒が教師を行う授業など聞かずに各々、自分が取り組むべき事を黙々とこ
なしていた。
 そしてそれを咎める教師もいなかった。人によっては、それに任せて自習にしてし
まっている教師もいた。
 本当に真面目に授業が行われるのが、体育ぐらいだということが何だか笑える。


 俺は今、実感が沸かないが受験シーズン真っ只中にいた。
 そして真面目な生徒にとっては長い、あまり真面目でない生徒にとっては短い時間
が過ぎ、今日も全ての授業が終わる。
 掃除当番だった俺は、手伝うと言ってくれた名雪と香里に軽く遠慮すると、彼女達
は別れを告げ、鞄を持って教室を出て行った。
 三年生と言う事でもう彼女達に部活道はないらしい。去り際に聞こえてきた帰りに
何処かに寄ろうとか話している二人の会話は平穏そのものだ。
 香里は兎も角、名雪はまだ受験生の筈だというのに。
 共に今日の掃除当番であり近々受験を控える北川は、今日は欠席していた。



「あ、祐一さーん!」



 漸く掃除を靴を履き、踵を直しながら外に出た俺に声がかかった。


 校門の前で見慣れた人が立っていた。
 佐祐理さんだ。
 佐祐理さんは俺の姿を見つけると、大きな声を出して手を振っていた。


 勿論、俺の周囲には俺と同じ様に下校する生徒が大勢いる。
 しかも今は受験シーズン真っ最中。
 周囲からの視線はかなり厳しいものがある。


「着いたのが下校時間ギリギリだったので、祐一さんに会えてホッとしましたー」


 そう言う彼女の息はかなり白い。
 最低でも掃除当番でかかった時間だけは待たせていた計算になる。
 卒業した今だからこそ、こうして外で待っていてくれたのだろうが、昔は教室まで
やってきて掃除まで手伝ってくれた事を思い出す。
 あの頃は、恥ずかしさが優先したが、今は懐かしい思い出として残っている。
 現に、恥ずかしさは今もこうして十分に目立っている事である訳だし。



「それでどうしたんだ。こんな所で待っていたなんて?」


 今更遅いが、他の生徒の視線を避けるように校門の隅に佐祐理さんを呼んでそう訊
ねる。
 見渡しても舞はいない。
 どうやら一人で来ているようだった。



「いきなりすみません。祐一さんが大変な時期だって事は知っているんですけど…」


 口元に指を当てて言う佐祐理さんの顔は本当に申し分けなさそうな顔をしていた。
 佐祐理さんはこの時期の俺に対して、色々と気を使ってくれたり、勉強を見てもら
ったりと手助けしてくれていた。
 考えてみれば今朝のゴミ捨て一つにとっても、遅くまで起きて勉強している俺を煩
わせない為の行動だったのだろう。


「歩きながら話そう」
「はい」


 そう言いながら、俺達は歩きはじめる。
 思えば、かつて佐祐理さんと舞と三人でこの高校に通った時も、一緒に行く時は通
例化していたが一緒に帰る時はあまりなかった気がする。
 そして、佐祐理さんと二人きりでこうして歩くのは殆どなかった。
 通う時でも舞が退学処分を受けそうになった時期ぐらいで、帰る時になると、一度
ぐらいしか記憶に無い。
 そう、それは……



「あ……」



 そうだ、もう舞の誕生日だった。


 俺がそう言うと、佐祐理さんもニコっと微笑んで頷いてくれた。
 家の中では舞もいて話し出せない。
 だから、舞に気づかれないようにここで待っていたのだろう。



「だから、今年も祐一さんと一緒に同じ物を贈ろうと思ったんですけど」
「うん。俺もそれでいいと思うよ」



 そう言って足を商店街の方に向けていた。
 一年前と、同じ様に。



「どんなものがいいかな?」
「そうですねぇ。舞ならどんなものでも喜んでくれますよ」
「ああ。だからこそ、難しいけれどな」
「そうですか?」
「だって、何か好きな物があればそれに関する物を贈ればいいけど、舞の場合、漠然
とし過ぎているからなぁ」
「そうですねぇ……でも舞も動物さんは好きですよ」
「うん……そうだけど……」



 一昨年、佐祐理さんは豚のオルゴールを贈っていた。
 それはたまに一緒に眺めたりしながらも、大事に家に置かれている。
 そして去年、俺と佐祐理さんが買ったのは大きなオオアリクイの縫いぐるみだった。
 お腹の辺りが黒ずんでいるが、それも部屋の日当たりの良い場所に鎮座されている。



「やっぱり、今年もそれでいくか……」



 今年は少し変わったものでもと思ったが、思い付かなかった。
 そして下手なものを贈るよりも、素直に喜ばれるものの方がいいだろう。
 奇をてらってどうなるものでもない。



 そう思った時、


「あ……」
「祐一さん。どうしました?」



 ショーウインドが目に入った。
 ショーケースの中に綺麗に着飾ったマネキンが、ガラスの向こう側でポーズを取っ
ている。
 普通の洋品店ならこの時期、マネキンに着せられているのはオーバーやコートの筈
だが、ここの店は薄手のドレスを着ていた。
 寒々しい限りだが、ガラスを隔てているせいかあまり感じなかった。
 それよりも、俺は一年前の舞踏会の事を思い出す。
 剣を持って暴れた際に破れたところを佐祐理さんが綺麗に繕ってくれたあの時の舞
のドレスは、俺や佐祐理さんのドレスと一緒にまだ家にある。
 こないだ開かれた舞踏会に紛れ込んだ際にも着て、そのままになっていた。
 そしてそのドレスを着ていた舞は、本当に綺麗だった。



「……佐祐理さん。今年は洋服にしない?」
「はい。佐祐理は構いませんよ」



 舞はあまり服を持っていない。
 そして、華やかな服は一着も持っていない。
 俺が知る限りスカートさえ、数えるほどしかない有り様だ。
 それを思いだして、俺はまた舞に綺麗な格好をさせたくなった。
 それも、舞踏会といった特別な日に着るものじゃなくて、普通の日常で着るような
服装で。



「じゃあ、一軒一軒当たってみよう。まずはこの店から」
「はいっ」


 そう言って意気込んで二人してその店に入っていった。
 この商店街に洋品店がいくつあるかわからないし、考えるつもりもなかった。



 ただ、俺達は楽しんでいた。



 舞の誕生日プレゼントを買う事を。
 舞の似合いそうな服を選ぶ事を。



 そして、舞の喜ぶ顔を見る事を。




 ――…祐一

 ――…ありがとう

 ――…本当にありがとう

 ――…祐一のことは好きだから…

 ――いつまでもずっと好きだから…

 ――春の日も…

 ――夏の日も…

 ――秋の日も…

 ――冬の日も…

 ――ずっと私の思い出が…

 ――佐祐理や…祐一と共にありますように





 舞の十年ばかりの遠回り。
 けれども、それが無駄ではなかったのを俺は知っている。



「あははー、衝動買いしちゃいましたねー」
「でも、お揃いのパジャマってのも……」
「祐一さん、嫌でしたか?」
「いいや、ただ、俺は名雪のあのパジャマがこの店で買われた事を確信しただけだ」
「はぇー」



 今、俺の横に佐祐理さんがいる。
 誰よりも舞を知っていて、俺達を愛してくれている。



 こうなることは必然だったんだ。
 そう思うようになった。



 俺と舞と佐祐理さんが一緒に暮らす事。
 こうして共に生活を送る事。




 そしてそれが俺達にとって一番の……




「祐一、佐祐理」
「おぅ、舞」
「あ、舞。近くまで来てたんだー」
「佐祐理の帰りが遅かったから……」
「あははーっ、御免ねー」
「いや、丁度商店街で会ってさ……」
 適当に誤魔化しながら、洋服の入った紙袋を他の買い物袋で隠す。




 陽が落ちる空の下、アパートのある方向に三人並んで歩く。
 いつも早足の舞が少し前に出て、その後ろを俺と佐祐理さんが並んで歩いている。
 いつの頃からか、それが当たり前の光景になった。



 そして、そんな三人の間を通り抜けるようにして一月終わりの風が吹く。



「今日は寒いですねーっ」
「そうだな。気づかなかったよ……」



 マフラーを直しながら言う佐祐理さんに、俺は白い息を吐きながら答えた。
 本当に、忘れていた。
 この季節が、寒い事を。
 身震いするぐらいに寒い季節だという事をさっきまで忘れていた。
 マフラーに手袋をした佐祐理さんに比べ、冬服とは言え制服姿のままの俺の何とも
無防備な事か。



「祐一…」
「あ、サンキュ」



 舞が自分の被っていた毛糸の帽子を俺の頭に乗せてくれた。



「でもお前、寒くないか」
「あんまり……」
「そうか、でも無理するなよ」
「祐一は、大事な時期だから…」



 そう、俺は今年受験する。
 舞と、佐祐理さんがいる大学へ。
 一緒にまた、通えるように。
 それが当然とする為に。



「佐祐理のマフラーも貸しましょうか?」
「いや、いいよ。そこまで寒くないし……それに……」



 そう言いかけた俺の手を、舞はギュッと掴んだ。
 舞は手袋をしたままの手だったので、俺の手には舞の体温は伝わってこなかったが
それでも十分に暖かかった。



「風邪を引くといけない…」
「あ、おいっ……」



 舞に手を引かれて歩く。
 自然、舞のペースに合わせる事になるから俺の足の動きが早まる。



「佐祐理も早く帰らないと、風邪を引くといけない」
「あ、待って下さーい」



 ちょっと俺と手を繋いで歩く舞に驚いたようだったが、すぐに佐祐理さんも追いつ
いてくる。
 舞はそんな佐祐理さんの手も握った。
 俺達は舞に、それぞれ荷物を持っていない方の手を両手で引っ張られるような格好
になった。



 笑い声が漏れる。
 佐祐理さんだ。



 そして、俺も自然と笑っていた。
 一人、顔を赤くしていた舞だけが笑っていなかった。
 ただ俺達を、引っ張って歩いていた。




 舞と俺と佐祐理さんの生活はまだこれからだ。
 いつまで続くかなんてわからないし、考えた事も無い。
 そして、今日も一日一日、思い出を積み重ねて行く。
 俺と、
 舞と、
 佐祐理さんと一緒に。




 そして、それが俺達にとって一番の幸せだった。







 ――Happy birthday、舞。







                           <完>




 冒頭部分を初め、所々、しば原まさをさんの同人誌の影響が色濃く出ています。
 多分もう遣り尽くされた風なお話だとは覚悟していますが、初投稿の時からこのような話を一度書きたかったもので…。
 29日の舞の誕生日ってことと絡めて出しました。自己満足の一本です。

何かありましたら… 『Thoughtless web』