『夢の終わり 夢の続き』


1999/09/20(月)





 …でも、どうしてお別れって、こんなに悲しいんだろうね。
 …きっと、当たり前のことが当たり前でなくなるからだよ。
 …今までは、すぐ目の前にいて…
 …一緒に話して、一緒に遊んで…
 …そんな、何も特別ではなかったことが、特別なことになってしまうから…
 …他愛ない幸せがすぐ目の前にあった時のことを、ふと思い出してしまうから…




 …だから、悲しいんだよ




 …祐一君。




 …絶対に、また会おうね。







         『夢の終わり 夢の続き』








 その日、俺は無性に悲しかった。



 悲しくて、
 悲しくて、



 俺はその悲しみ中にどっぷりと浸かっていた。



 悲しみに押し潰されそうになるほど、
 心が潰れてしまいそうになるほど、



 辛くって
 辛くって



 こんな悲しみなんかなければいいと思った。
 こんな辛さなんてなくなってしまえばいいと思った。



 そんな気持ちを抱えたまま、俺はずっとその場に座り込んでいた。
 来るはずの無いあいつを待ちながら。




 ――あれは現実ではない。
 ――あれは実際にあったことではない。




 だから、俺はここで座っていなければいけないんだ。
 待っていなければいけないんだ。



 あいつはここに来るんだ。
 俺といつもここで待ち合わせをしていたのだから。
 ここであいつはいつも俺を待っていた。
 そして遅れてきた俺に笑顔を見せてくれる。
 それがここ毎日の日課で、当たり前のことにまでなっていた。
 俺がここにいる間は、ずっとそうでなくちゃいけない。
 まだ一日、今日という日があるのだから。
 今日はまだ、俺はここにいられるのだから。
 だから、今日もここに俺は来た。
 あいつにあう為に。



 雪の積もった木製のベンチに俺は座っている。



 今日、先に俺が来たのはたまたま、いつもより時間が早かったからだ。
 まだあいつが来ないのはたまたま、あいつが遅れているからだ。



 だから、あいつが来ない筈はない。
 何もなかったのだから。
 何もあるはずがないのだから。



 俺は言わないといけないから。
 もうすぐ、帰らなくてはいけない。
 帰ることは既に伝えてあえるのに、まだ言わなくてはいけないことがある。
 その言葉が何なのかは、浮かんでこない。
 でも、言わなくてはいけないと思っていた。
 きっと、会えれば言えると思ったから。
 キチンと伝えることが出来ると思ったから。




 だから………あいつに会って、言わなくてはいけない。





 俺が帰る前に。





 辺りに人影はない。
 誰も、いない。
 俺しか、人はいない。


 何故だろう。
 何故何だろう。


 街灯がベンチを、ベンチに座る俺を照らし出している。
 薄暗いところか真っ暗闇の街並みにいる俺を映し出している。
 俺が目立つように、浮かび上がらせている。


 でもそれは、あいつに俺の場所を知らせる為ではない。



 悲しい。
 とても悲しい。
 涙が次から次へと溢れてくる。
 手で拭っても拭っても目から大量の涙が溢れ、零れ落ちる。
 でも、どうして悲しいかは判らない。
 何で悲しいのか、判らない。
 泣くほど悲しいのに、それがわからない。
 いや、わからない筈なんだ。
 あいつを待っている俺が判ってはいけないんだ。



 混乱した思考が、拙い逃避を導き出し、複雑に絡み合い、自分を把握することが出
来なくなっている。
 出来ることただ、泣くことだった。
 判らずに唯、泣くことだった。
 だから泣いている理由も、悲しい必要も、何も無い。
 何も………無い。



「………………」



 目の前に人の気配がする。
 人が、いる。
 俺の前に立っている。
 背丈は小さくて、幼い。
 俺が待っているあいつと同じシルエット。


 でも、俺は顔を上げることはない。
 上げる必要が無い。
 俺は、あいつを持っているのに。
 待っているはずなのに。


 何故か顔が上がらない。
 そして、その理由はすぐに判った。



「………………」



 何か喋っている。
 言葉を喋っている。
 俺に、話し掛けている。
 何かを持って、見せながら。



 俺はあいつでない正体にぼんやりと気づいていた。
 気付いていたが、誰だか思い出しもしなかった。
 だから、



「………………」



 中途半端に顔を上げて、ぼんやりとした視界に浮かんできた顔を見て、ようやく目
の前にいるのが誰かを確認した。
 気付いてはいたが、認識していなかった。
 いるのが誰でもよかったし、どうでもよかった。




 そう、俺はとっくに知っていたから。
 あいつが来ることがない事を知っていたから。
 ずっと待っていても、いつまで待っていても、どんなに待っていても来ることがな
い事を知っていたから。
 だから、俺はここにきたのがあいつでないことを知っていた。
 そして、この俺に話し掛けてくる人間も、誰くらいしかいないかを知っていた。




 とっくに知っていた。
 はじめから知っていた。




 一生懸命、喋っている。



 ――喧しい。



 けど、気だるくてそれをいう気すら起きない。




 俺はただ待っていたはずなのに、何時の間に………




 いつの間に絶望していたのだろう。
 いつの間に諦めていたのだろう。



 最初から。
 そう、最初から。
 俺は絶望して、悲観して、諦めきっていた。
 あいつは来ないから。
 来ることは出来ないから。
 二度と、会うことがないから。
 会えないから。


 いくら待ち続けようとも、
 いくら時間が経とうとも、
 どんなに願おうとも、





 あいつに会うことは出来ないから。





 失われてしまったもの。
 あいつ。
 あいつ自身。




 あいつと俺の今………そして、あいつと俺のこれから。




 何故、気付いてしまったのだろう。
 何故、そんな事を考えられるようになってしまったのだろう。



 俺はずっと待っていたかったのに。
 待ち続けていたかったのに。
 俺はずっと悲しんでいたかったのに。
 悲しみ続けたかったのに。
 俺はずっと泣いていたかったのに。
 泣き続けていたかったのに。



 何故。
 何故何だろう。



「………………」



 目の前に誰か存在する。
 さっき気付いていたこと。
 さっきから話し掛けられはじめていたから。


 それがあいつでないと最初から自分が知っていたことに、気付いてしまったから。
 あいつでない証拠を、持っていたから。
 見るまでもなく、わかっていたから。


 それでも確認をする為だけに顔を上げた。
 いや、ダメを押す為だけに顔を上げた。



 あいつはこんな髪型をしていない。
 あいつはこんな声をしていない。
 あいつはこんな格好をしていない。
 あいつは………




 あいつはここに来ることなど出来ない。





「………………」




 まだ何か言っている。
 手に持っているものを、差し出している。
 何を言っているのだろう。
 声はわかるのに、聞き取れない。
 聞き取っていないから。
 だから、今まで聞き取る事が出来ない。
 聞く必要が無かったから。



「明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど…」


 しばらくしようとも、もう………



「でも、春になって、夏が来て…」


 春が来ても、夏が来ても………



「秋が訪れて…またこの街に雪が降り始めたとき…」


 秋が来て、一年経とうとも………



「また、会いに来てくれるよね?」


 もう………二度と………



「こんな物しか用意できなかったけど…」


「わたしから、祐一へのプレゼントだよ…」


「…受け取ってもらえるかな…」


「……」



 差し出されたもの。
 雪の固まり。
 雪。
 二枚刺さった笹。
 緑。
 赤い木の実。
 赤。



 赤く染まった夕焼け。
 カチューシャの、赤。



 白い雪の中に赤い木の実が付いている。
 白い雪に、赤。



 チカチカと見ていなかった筈のものが、浮かんでくる。
 白い雪にじわじわと広がってくる赤い色。
 赤が、白を侵食していく。
 何故。
 何故。
 何故。




「わたし…ずっと言えなかったけど…」




 遠くで声が聞こえる。
 ずっと耳に入ってなかったくせに、何故か聞こえる。
 遠いくせに、聞こえてくる。
 靄が晴れたように明瞭に。



 だってそれは………



「祐一のこと…」




 俺があいつに言いたかった言葉だったから。



「ずっと…」



 言うな。言わないでくれ。
 このまま俺を泣かせたままにしてくれ。
 悲しみに浸らせてくれ。
 これ以上………。





 これ以上、俺を絶望させないでくれ。





「好きだったよ」





 その瞬間、俺は崩れていた。
 全て、崩れていた。
 何もかも、崩れ落ちていた。
 崩れ落ちてしまっていた。



 何もかも。



 足元に白いものが崩れ落ちていた。
 赤い木の実と笹の葉が、それが元々、何かであったことを物語っていた。
 何かはわからない。
 そして、わかることもない。
 ただ、崩れていた。
 それで十分だった。


「………………」


 何か、言っている。
 いや、言葉は聞こえている。
 意味も通じている。
 俺に届いている。




 悲しくなった。
 全てが悲しくなった。
 さっきよりもずっと、前よりもずっと悲しくなった。


 泣いていた時よりも、
 思い出してしまった時よりも、



 今の方がずっと悲しかった。



 泣いている。
 泣かせている。




 全ては俺のせいで、何もかも俺のせいで………




 悲しいのは、嫌いだ。
 悲しいことを強いる、今が嫌いだ。
 今がある、ここが嫌いだ。


 あいつと会えなくなったことも、
 そして今、目の前にいるこいつを泣かせてしまっていることも、
 そんな俺が立っていることも、


 赤に犯されていく雪を積もらせたことも、
 崩れ去ったものを模らせていた雪を降らせたことも、



 全てがあった、この街が嫌いだ。



 絶望。
 ただ、絶望。



「…祐一…」


 まだ、何かを言っている。
 俺に呼びかけている。


 言うな。
 俺に、何も言うな。
 触れるな。
 俺の心に触れないでくれ。


 絶望を、絶望に覆われた俺に触れないでくれ。
 構わないでくれ。
 これ以上、踏み入れないでくれ。


「…さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから…」


「…明日、会ってくれる?」


 目の前に涙を堪えている少女が居る。
 笑おうとしている。
 健気に、そして必死に。




「…ここで、ずっと待ってるから…」




 待っている。
 あいつと同じ、ここで俺を待って………。



「…帰る前に…」
「…少しでいいから…」
「…お願い、祐一…」


 堪えていた涙が、彼女の頬を伝っていた。


「…ちゃんと、お別れを言いたいから…」


 もう、何も聞こえない。
 何も、見えない。
 何も、憶える必要はない。
 何も、記憶する必要はない。
 何も、なかったから。
 何も、ないから。



 忘れることは、無いことだから。



 何も、ないから。
 ここに俺が来たことも、来ることも無いから。


 だから、何も無いから。
 俺は、誰とも会っていないから。
 雪なんて、見ていないから。


 だから、何もないから。



 約束なんて、していないから。
 誰とも。




 ここに、俺はいないから。
 ここに誰も来ることは………ないのだから。






 だから、俺がここに来ることなんか………。





 …でも、どうしてお別れって、こんなに悲しいんだろうね。





 お別れも悲しい。
 悲しいよ。
 でも………





 今の俺は、もっと悲しい。




・
・
・



「………………」
「祐一?」



 夢。
 夢を見ていた。
 長い夢。
 昔の夢。
 忘れていた夢。



 夢は忘れてしまうものだ。
 いつしか、忘れてしまうものだ。
 だから、夢は思い出すものではない。


 思い出が、いつまでも記憶に残るフィルムなら、
 夢はひとときのしゃぼんでしかない。



 だから



 だから、憶えている必要はなかった筈なのだ。



「………祐一?」
「あ、名雪」



 目を擦る。
 雫が指に付き、払われる。
 残りは、飛沫になって飛び散る。



「もぅ、テストの時困っても知らないよ」
「心配するな。イチゴサンデーの代金ぐらい、いつだって用意できる」
「もぅ、祐一」
「コピー代だって、そんなにはしない」



 改めて視界を確認する。
 学校。
 教室。
 俺の席。
 時間は………後一時限で終了だ。
 そう、今日は土曜日だ。
 そして………



 名雪。



「こんなに眠いと、眠りたい気分だな」
「………祐一、今までずっと寝てたよ」
 名雪の言うとおり、今日一日、ノートは全て真っ白だ。勿論、起きていたからと言
って、文字で埋まっていたかどうかは定かではないが。
「いやもっと、眠りたい。全然寝足りない気分だ」
「昨日、寝るの遅かったの?」
「いや、10時に寝た」
「え、本当?」
「俺はいつだって早く寝るんだ」
「………………」


 名雪は疑わしそうに俺をじっと見て、



「もう………仕方ないなぁ」



 そう、笑った。
 何が仕方ないのかは聞かなかった。





 俺が七年前の出来事を思い出す間。
 ひとつひとつ、思い出していく間。


 名雪はずっと変わらないでくれた。
 七年経っても変わらないで、接してくれたように。
 変わらないでいた。




 俺は、忘れたかった。
 何もかも、忘れたかった。
 夢であって欲しかったから。
 消えてしまって欲しかったから。
 無いことにしてしまいたかったから。



 その中に、名雪の想いがあったのに。
 大切な、大事な想いがあったのに。


 俺は、俺の深い悲しみの中に内包してしまったその想いを忘れてしまった。
 俺は、名雪の事を考えたことがなかったから。
 ずっと、考えていなかったから。


 空気のような存在。
 いとこ同士。


 俺は名雪を見ていなかった。
 俺は名雪の見ているものに気付かなかった。
 その頃、俺は別のものを見ていたから。



 それでも、
 いつでも、



 名雪は俺を見ていてくれた。



 名雪との約束を思い出した時、同時に込められていた名雪の気持ちを思い出してい
た。
 その気持ちは、あの頃の俺にはどう映っていたのだろう。



 それを、考えていた。
 悲しみに覆われ、絶望していた。
 何故。



 考えてはいけなかった。
 忘れてしまったのだから。
 忘れようとして、忘れたのだから。
 名雪の気持ちを捨ててまで、忘れたのだから。



 羽のついたリュックをした少女がいた。
 彼女は探し物をしていた。
 そして、それが見つかったと言った。
 同時に、「もう会えない」と彼女は言った。
 俺はその時、彼女の言っている意味が分からなかった。
 正確な意味が分からなかった。



 また、会えると思った。
 いつかきっと会えると思った。



 俺が忘れていたのに。
 忘れ、捨て去ったのに。



 俺はどうしたら良かったのだろう。
 忘れることを選んだ、俺が悪かったのか。
 思い出すことを選んだ、俺が悪かったのか。



 あゆは、去った。
 もう、二度と会えない。
 去ってしまった。


 名雪はずっと待っていた。
 待ち続けていた。
 今も、そして多分、これからも。



 俺は、
 今の俺は、



 これ以上、悲しみたくなかった。
 悲しませたくなかった。




 …だから………




 脳裏に白いものが浮かぶ。
 羽。
 天使の翼の羽。





 …ごめんな。





「………………」
「………………」
「…………名雪」
「…………へ?」


 気が付くと、名雪が窓の外の景色を見ていた。
 まだ、休み時間は終わっていない。


「何してるんだ」
「外の景色を見てたの」
「そっか」
「うん」
「………………」
「………………」



 名雪は何も言わない。
 何も聞かない。
 ただ、俺を見ている。
 窓ガラスに映った俺を。



「名雪、ありがとうな」
「へ?」
「どうした、名雪?」
「祐一、今、何か言った?」
「ああ。「名雪、腹減ったなって」」
「え? え? え?」
「だって朝、抜いてきただろ」



 抜いたというか抜かざるをえない時間に起きたからだが。



「あ………あはは………そうだね」



 何が可笑しいのか、名雪は笑って同意する。
 その笑いは、名雪が時折見せた笑いだ。



「じゃあ、わたしは部活に行くから………」
「え?」



 もう一度、時計を見る。
 休み時間は休み時間でも、次の授業を挟んだ休み時間。
 つまり、土曜日の今日はHRも終わって、下校の時間だ。
 よく見ると、教室に残っている生徒もそれほど多くない。
 俺は慌てて、鞄の中に筆記用具を入れる。



「それじゃあ、わたしは部活があるから」
「ああ、またな」



 既に遅れているのだろう、廊下に出ると駆け足で名雪は走って行ってしまった。



 その名雪の後ろ姿を最後まで見送りながら思う。



 結局、俺は思い出さなければ気付かないままだった。
 全然、気付かないままだった。



 絶望に浸っていただけの自分。
 それを引きずることすら恐れて、逃げた自分。
 悲しみを忘れたいが為に、名雪の想いまでも捨てようとした自分。




 そんな俺だから、本当の名雪の気持ちも、想いも、気付かなかった。
 今、思い出すまでは。




 夢。
 ひとつ、夢が終わろうとしていた。
 長い夢。
 昔の夢。
 長い間、ずっと忘れていた夢。



 永い間、きっと暖めていた夢。



 霞んで消えてしまわないように、
 忘れてしまわないように、
 いつだって思い出せるように、
 無くしてしまわないように、



 俺は、願う。

 

 思い出が、いつまでも記憶に残るフィルムなら、
 夢は永遠の世界。



 だから




 だから、誰かが憶えている限り、決して忘れてしまうことはない。



 どんな大きいものでも、
 どんな多いものでも、
 どんなものでも詰め込める。


 いくらでも欲張れる。
 何だって、願うことが出来る。




 それが、夢。




 だからこそ………




・
・
・




「祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?」






                           <完>




 我ながら何が書きたいのかわからないSSになってしまいました。
 何故、七年前に祐一は名雪の想いを踏みにじってしまう程悲しかったのか、名雪EDの祐一は最後まで判らないようです。
 ですんで、気付かせてみたらどうなるか……そう考えて書き始めたらいつの間にか、お約束的万々歳みたいなオチになってしまいました。

何かありましたら… 『Thoughtless web』