『嘘の代償』


1999/09/06(月)





 俺、相沢祐一は名雪のノートを取りに深夜の学校に行った。



 自分の教室まで辿り着くと、そのドアに手をかける。
 どこまでずさんな管理なのだろう。
 入り口が開き、早朝一番で乗り込んだときのような、誰もいない教室が目の前に現
れた。


 静まり返った教室。そして冷え切った空気が俺を迎えてくれる。
 その教室を横切り、自分の机まで辿り着く。

 なぜだかほっとする。ようやく、現実との接点を見つけたような感覚だ。あまりに
、夜の校舎は異質だった。
 目的のノートは容易く見つかった。
 それを抱えると、早足にきた道を辿って、教室の出口へと向かう。


 たん、と俺の足が廊下のリノリウムを叩いた。


「………」


 違う世界へと踏み込んでしまったのではないか。
 俺はそう思った。

 ここを通ってきたはずなのに、そこはもう俺の知る場所ではないような錯覚に捕ら
われた。
 顔をあげたその先に、幻想的な光景があったからだ。
 非現実的、というほうが近かっただろうか。

 でも俺には、その少女の不自然な存在が、その場に違和感のないものとして映った。


 でも日常的ではない。それを幻想的だと形容したのだ。


 少女は夜の校舎に立っていた。
 一振のハリセンを携えて。



「………」



 全てがぶち壊され、現実の寂しさと馬鹿馬鹿しさに打ちひしがれる俺。



「あの………」


 正面に立っているのだから視界には入っているだろう。
 でも返事はない。まっすぐ、俺の背中のその先を凝視している。

 振り返ってみるが何もない。



「…馬鹿が見る」



 小声で、本当に物凄く小声で、もしかしたら俺の錯覚か空耳だったりするんじゃな
いかなと思えるぐらいの小声で、女の子が囁いた。
 もしくは、そんな気がした。



 気のせいか、少しさっきよりも俯いているような気がした。
 頬も多少、赤くなっているような気もした。



「な、なにやってるんだ、こんな時間に」


「………」


「演芸部の稽古か?」


「………」


 一向に返事はない。
 俺は彼女の手に収まるハリセンに目を落とす。



 何だろう…一体。



 気にならない方がおかしい。



「さて…」


 べつに彼女に用があったわけではなかったが、どうしてだか俺は彼女と話がしてみ
たかった。
 少なくともこんな夜の校舎で人、それも女の子と出会うなんて奇跡的だ。
 それだけでも話すに充分の価値がある。


 しかもこの女の子、絶対に変だし。



「ひとりなのか? ひとりだったら、途中まで送るけど」

「………」

「俺もこの学校の生徒だ。忘れ物をとりにきただけで、怪しいもんじゃないぜ」

 俺は両腕を開いてみせる。

「………」

 ちらりと俺の方を向いた。敵視とも、友好的ともとれない目だ。
 さっきの照れたようにもとれる表情は既に引っ込んでいた。



「ほら、こんなところにひとりで居たら、何がでるかわかんないだろ?」



 ガキッ…と音がした。



「ん…?」



 音のほうを振り向きみるが、何もない。


 温度の下がった校舎が軋みをあげただけだろう。
 俺は女の子のほうへと向き直る。


 が、その姿がなかった。角度を下げた身体が脇をすり抜けていた。



「おい、どうしたんだよ、いきなりっ」


 その背中を追おうとすると、入れ替わり、何かが俺の体にぶつかっていた。


「なッ…」

 浮遊感は一瞬だ。


 次の瞬間には俺は左半身を強く壁に叩きつけられていた。立っていた場所とはほど
遠い位置で。


「ぐっ…」


 気を失っていたかと思ったが、そうでもなかった。
 失っていたとしても一瞬だ。


 目を開くと、こちらへハリセンを引いた格好で猛然と向かってくる彼女の姿があっ
た。

 眼前へと迫ったとき、その紙刃が水平に薙がれた。



 ペシィィィィィィィィィン!!



 異質な音。

 目の前の空間が裂けた。

 矢継ぎ早に大振りのハリセンがその空間の肩口へと振り下ろされていた。



 パシンッ!!



 ハリセンの先はリノリウムの床に当たり、折れ曲がっていた。



「………」



 …メガネ、メガネ………



 何か、喧嘩や競艇が好きそうな男の声が聞こえた気がした。
 多分、錯覚だと思うが。



「………」



 すべての物音が止んでいた。



「………」
「は、はぁっ…」

 ようやく忘れていた呼吸をする。
 耳鳴りが、やまない。
 ハリセンを持つ彼女は、壁にもたれ倒れたままの俺に一瞥をくれた後、何も言わず
に背中を向ける。


「おい、待てよっ」

「………」

「一体なんだったんだ、今のは…」

「………」

「おい、待てって! こんなワケがわからないことってないだろ!?」

 俺はその背中に向けて、そう捲くし立てた。


「………」

 彼女の足が静止した。

「………」

 そして言う。





「…私は吉本を討つ者だから」







 その一言だけが、清閑となった空間に残された。


・
・
・


 それからと言うもの、俺と舞は深夜の校舎に居た。


 …かいーの。


 パシーン


 …君たちがいて、僕が………


 パシーン


 …大阪名物、パチパチパ………最後まで言わせぃっ!


 パシーン


 …引っかかったな。かにばさ………


 パシーン


 夜な夜な彼女は次々と「吉本」を討っていく。


「…なんでやねん」

 時にはそう呟き、

「…ええかげんにせい」

 更には、

「…もうあんたとはやっとれんわ」

 と、宣う。
 無論、俺は見てるだけ。



 もう、無茶苦茶であった。




 だが、真実が遂に明らかになった。
 この校舎が昔が麦畑だったことが分かった時、俺は思い出したのだ。
 十年前のことを。




 そう。十年前のあの麦畑に少女はいたのだ。



「あたしにはお笑いの力があるの」



 少女は、もっと幼い時は違う町に住んでいたらしい。
 大きな「カニさん」や、おおきな「エビさん」や、白い髭のお爺ちゃんや、眼鏡の
おじさんなどがいる町だったらしい。
 そのときに一度だけ出演したテレビ番組が放映された直後、その町を去ることにな
ったのだという。
 その内容がどんなものだったかまでは訊けなかった。

 でも、その少女の口調からも、その番組が彼女をどんな扱いにしていたか想像がつ
いた。


『お前、おもろいヤツやなぁ』
『吉本へ行けっつーことやな』


 当時のお笑いは全て吉本新喜劇へと繋がらなくてはいけないという風潮に影を落さ
せる、若手芸人を虐げるような内容のものだったのだ。


 猿回しの猿としてかり出されたのが、彼女だった。


 しかし、この土地にやってきても何も変わらなかった。


『コイツ、関西弁しゃべるみたいだぜ』
『吉本だぜ、吉本』
『じゃあ、何か漫才やってみろよ』
『おーい、大阪ー』
『『『『ぎゃはははははは………』』』』


 周囲からの無遠慮な目と大袈裟な期待の念を背負い続けなければならなかった。
 だから少女は、町の大人たちが集まるような公会堂や文化会館を避け、人知れずこ
んな場所でひとりきりでお笑いを披露していたのだ。


 ただ僕だけは町の人と同じような目では見なかった。
 実際、そのギャグを目の当たりにしてもだ。
 ただ、面白い、と思っただけだった。
 可笑しいのとは違う。ただ、面白い、とそれだけだった。


「それは祐一くんだからだよ」


 それを口にして言うと、彼女は嬉しそうに答えた。


「ぼくの目が肥えてるってこと?」
「あたしにとってはね」


 彼女が膝を曲げ、くるりと回転して立ち上がると駆けてゆく。
 その追いかけっこの合図に、僕も飛び上がって後を追った。
 そして気が付くと、彼女は僕の後ろに居る。
 マジックだ。


『マジックなんて前座の前座がちょっとやるだけのお遊びだ』


 僕はそうは思わなかった。
 これも立派な芸で、これだけでも一人前の芸人だ。
 引田天功とカッパーフィールドがそれを証明したのは、ずっと後だった。



 結局その少女と遊べたのは夏休みの間の、二週間ばかりのことだった。



 ただ、ひとつ憶えているのは会わなくなった翌日の夕方、電話があったことだ。
 宿泊先の電話番号を教えた覚えもなかったのに、それは確かに彼女だった。
 背の低い彼女が背伸びをしながら電話に貼りついている格好が目に浮かんだ。


「ねぇ、助けてほしいのっ」
「どうしたのさ」
「…やすきよがくるのっ」
「やすきよ?」
「いつもの遊び場にっ…」


 …何故?


「だから守らなくっちゃ…ふたりで守ろうよっ」


 …ま、守るって………。


「東のお笑いが、西に飲み込まれちゃうよっ」


 …そんなこと、言われても………


「昨日は言えなかったけど、今から実家に帰るんだ」


 取りあえず、僕は無難な選択を選んだ。


「だから、またいつか遊ぼうよ」
「ウソじゃないよっ…ほんとだよっ」
「やすきよなんて来ないよ」


 こっちに来たとしてもあそこで漫才はしてくれないだろう。
 どう考えても。


「ほんとうにくるんだよっ…あたしひとりじゃ守れないよっ…」


 そんな『プロレスス○ーウォーズ』みたいな展開な話をされても僕は困る。
 大いに困る。
 第一、そんなにお笑いに興味があるわけではない。


「一緒に守ってよっ…東の日本の文化だよっ…」


 …そんな文化のことは文化庁に任せるべきだと思う。守ってくれるかどうかは知ら
ないが。


「待ってるからっ…ひとりで戦ってるからっ…」


 それが本当の最後だった。
 その後、少女がどうしたかは知らない。





 ただ、もし、その嘘が現実になることを願う少女がいて、



 そのときより始まったひとりきりの戦いがあるというのなら、



 そこには最初からやすきよなんてものは存在せずって………いや、してるけど、



 ただひとつの嘘のために十年分の笑顔を代償に失い、



 そして自分の才能を、忌まわしきお笑いの力を拒絶することを求めた少女が立ちつ
くすだけなのかもしれない。



 一瞬のほんの少しの出会いから。








「………………………だ、黙ってよっと」







 そんな訳で今日も明日も明後日も、夜な夜な彼女のハリセンツッコミが冴え渡る。






                            <おしまい>




 お笑いは全然詳しくないもので、ちょっと間違いとかあるかもしれません。
 原案では佐祐理と三人で漫才デビューするって話だったんですが……長くなったので止めました。
 後、舞は関西出身ではないと思います(爆)。

何かありましたら… 『Thoughtless web』