『ボケはいつだって唐突だ』
あの日、少年だった俺は、丘で一匹の小狐を助けた。 何にやられたのかわからなかったが、怪我を負って走れない状態だったからだ。 傷の手当てをしてやり、そして走れるようになるまで、家に置いていた。 そいつを話し相手に代わりに色々なことを喋った。 一緒に寝たりもした。 半月ばかりのことだ。 たったそれだけだ。 一体そこからどんな物語が発想できるだろう。 何があのとき、始まっていたというのだろう。 一瞬で過ぎ去った出来事の、そのひとつでしかない。 なにもない。 夢なんて見ていない。 そのはずだった。 ・ ・ ・ 「食いしばる歯が〜 火花を散らし〜♪ 生まれた技は〜 必殺だ〜♪」 その日、俺は商店街で買い物をしていた。 秋子さんに財布を預かり、そのまま鼻歌混じりに夕飯のおかずを買いに来たのだ。 鼻歌のつもりだったが、しっかり歌っているのは何故だろう。 陽気か? 陽気のせいか? 冬なのに。 「唸る〜 唸るキックが唸ぁる〜♪ 当たる〜 当たるパンチが、あ〜 当たるぅ〜 ♪」 そしてスーパーで惣菜を数点見繕って出てくると、目の前にそいつは居た。 そいつ………ずっと家を出てから感じていた気配の主。 幾度も姿を探したが、見つからなかったのだが、待ち伏せていたのだろう。 全身を使い古した毛布のような布で被い、顔も確認できない。 「あれは誰だ〜 誰だ〜 俺だぁ〜♪ 俺が噂の転校生〜♪ ………誰だよ、おまえ ?」 取りあえず、一番まではしっかりと歌い上げてから、訊ねる。 やっぱり途中で止めると気分が悪い。 「ずっとつけていただろ」 滝沢○ックがいつでも放てるように、身構える俺。 勿論、背景も美麗CG調から偽劇画調へと変貌する。 周囲の人たちもそんな感じに変わっている。 「やっと見つけたわぃ…」 だが意外にも声は女のものだった。 それもしわがれたような、疲れたような、そんな声。 人生の峠を越してしまったような声。 「えっ………」 ただならぬ空気が漂う。 女は纏っていた布を投げ捨てた。 いや、投げ捨てると言うよりも必死になって引き剥がしたような手際の悪さだった が。 「…あなただけは許しませんぞぃ」 一体どんな見知った顔が暴かれるか、と思っていれば、まったく見覚えのない顔だ った。 一言で言えば老婆。 二言で言えば老女。 三言で言えばばーさん。 全部、一言で済むじゃん。 「………………………」 早い話、腰の曲がった年老いた女性が俺を睨んでいた。 どーも、彼女の姿勢の都合上、上目遣いだ。 「あ、あんたのような婆さんに恨まれるような覚えはないぞ」 「あんのさ、こっちにはさ」 どちらにしても、穏便に済みそうな状況ではなかった。 なにより老婆の目は真剣で、冗談でそんなことを言っているのではないことがわか る。 「…覚悟!」 老婆が固めた拳を後ろに引き、間合いを一気に詰めた。 グキッ! 綺麗でない音がした。 「………………………」 見ると老婆は腰から崩れ落ちるようにして地面にキスしている。 水泳の飛び込みの瞬間みたいな感じだ。 無論、好き好んでやっている訳ではないだろう。 腰をやってしまった痛みなのか、顔面を打ちつけた痛みなのか、その両方なのかは 知らないが、その身体は、突き出した格好の尻を中心にプルプルと小刻みに震えてい る。 「あの………ばーさん、大丈夫か?」 流石の俺も、そう聞いてしまう。 「そ、そこの若いの………」 「………」 「助け起こしてくれんかの」 どーやら、自力では立てないらしい。 老婆は俺に助けを求めている。 「わ………わかったよ。ほら、ばーさん」 なんだか理不尽なものを感じたが、放っておくのも悪い気がして助け起こす。 すると、 「ふぉっふぉっふぉ………かかったなぁ〜」 「へ?」 見ると、老婆は片手で俺の襟元を掴んで、もう一方の手で、拳を作っていた。 「ちょぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――――っ!!!!!!!!!!!!!」 至近距離だ。 外しっこない。 そんな唸りをあげた拳が顎にするどく入る瞬間、俺は目を閉じた。 叫び声を上げている老婆の顔が恐ろしく恐かったからというのが一番の理由だ。 瞬時でも見ていてはいけない、一刻も忘れたい顔だった。 べきっ。 「はい?」 本当に殴ったのだろうか? いや、頬に何かが当たる感触だけは間違いなくある。 今もある。 薄目を開ける。 手首が変に曲がっている拳が俺の顎に触れている。 触れているだけだ。 変な角度で。 「ぎょえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――――っ!!!!!!!!!!!!」 老婆はもういっちょ奇声をあげ、俺の胸に額を当てるようにして、そのままずるず ると顔面を擦らせながら落ちていった。 「お、おいっ………」 抱えて上げてやると、白目をむいて倒れている。 目を閉じ、顔を背け、思わず手を放す。 ガンッ アスファルトに老婆の頭は強かに叩き付けられたようだった。 「………」 そして冷静になって辺りを見回すと、通行人の視線を一手に集めていた。 その目は非難に満ち、皆が一様に俺を責めているような気がした。 それは当然で、気絶した老婆を地面に叩き落としたこの状況で、誰が俺を被害者だ と思ってくれよう。 しかも島○ワールドになっていたから、たまらない。 非難轟々、世界中の人間がステレオで俺を責め立てていた。 「う、うぐぅ…」 しかし、この悶絶した顔を見せればきっとみんなも分かってくれる筈。 でも、駄目だった。 俺自身が、もうあまり見たくない。 取りあえず、顔にハンカチを乗せる。 「………………」 ここで、この老婆を置いて逃げるなんてことをすれば、それこそ警察沙汰になりそ うである。 「あはは…」 善良なところを笑顔で訴えかけながら、俺は老婆を背中におぶさってそそくさと退 散を決め込んだのだった。 ・ ・ ・ その後、俺はそのまま勝手に家に居座われたその老婆の猛烈な虐めに悩まされるこ とになる。 「祐一さん、このお味噌汁。しょっぱすぎるじゃありませんか?」 「俺が作ったんじゃないやい」 「きー、何でしょ。この鬼嫁は。どーせアタシが高血圧で死ねばいーと思ってるんで しょう!!」 「いや、だから俺は嫁じゃないって………」 終始こんな調子で嫁姑ごっこをやらされるんだからたまらない。 だが、まだ俺はこれが俺の不幸の序曲だと知る術も無かった。 次第に自称沢渡真琴こと、その謎の老婆は何から何まで覚束なくなっていったのだ。 「祐一さん………お昼ご飯はまだでしたかな」 「さっき食べただろ」 「いつもそうやってアタシを馬鹿にして。餓死させようったって魂胆だねっ!!」 「おい………」 「いいんですよ。いいんですよ。そーやってアタシを苛め抜いていれば貴方は満足な んでしょうさ!」 「だから………」 「あううう」 「あ、コイツ、漏らしやがったなっ!!」 「あうあうううう………」 「あー、もぅっ!!」 嵐のように忙しい毎日。 しかも徘徊癖までついて、街中を練り歩く始末。 その後始末はみんな俺。 かなり、限界だった。 ・ ・ ・ 昼休み、いつもの場所で俺はこの事態を唯一、相談できる天野美汐に聞いてみた。 「………」 「………で、天野………どーしてこんなことになったんだと思う?」 「相沢さん、考えて見てください」 普段から感情を表情に表すことのしない天野だったが、俺には今の彼女が笑ってい るように見えた。 いや、笑っていたのだろう。 「彼女が小狐だったのは、7年前ですよ………」 「………………」 「………………」 「………………」 「………………クス」 そんな二人の後ろを真琴が徘徊する。 「……ぅぅ、ごほごほ、鬼嫁が、鬼嫁がぁぁぁぁぁぁぁぁ…………………」 …ボケはいつだって唐突だ。 <おしまい>