『いつか、きっと』




 さあさあ、ぼくといきましょう。

 おそらには、ほしいものはなんでもあるんだ。
 きれいなおほしさまだってとりほうだい。
 みーちゃんのどんなねがいだってかなえてあげられるよ。

 てんしさんはいいました。
 けれども、みーちゃんはうごきません。
 あれあれ、いったいどうしたのかな?
 てんしさんはききました。

 みーちゃん、いったいどうしたの?

 みーちゃんはこたえていいました。

 わたしはそらにはいけません。
 わたしにはおともだちがいます。
 わたしにはおとうさんがいます。
 わたしにはおかあさんがいます。
 どうしてわたしだけそらにいけるでしょう。

 みーちゃんのこたえに、てんしさんはこまってしまいました。
 てんしさんはおそらにかえらなくちゃいけません。
 でも、みーちゃんとはなれたくないのです。
 かなしそうなかおをしたてんしさんに、こんどはみーちゃんのほうからいいました。

 てんしさん、てんしさん。
 わたしはおそらにはいけないけれど、おともだちになりましょう。
 これからもいっしょにあそびましょう。
 もっとみんなをよんで、たのしくうたっておどりましょう。
 みんなでなかよしになりましょう。

 そういってみーちゃんは、てんしさんのこゆびをじぶんのこゆびとからませました。
 はじめてできたおともだち。
 だいじなだいじなおともだち。
 なきそうなかおをしていたてんしさんも、にっこりわらっていいました。

 やくそく、だよ。

 こうしてさびしがりやのてんしさんは、はじめてのおともだちができたのです。









「『こうして、天使さんとみーちゃんはそれからもずっと楽しく幸せに暮しましたとさ』……めでたしめでたし」

 遠野の声と共に、操っていた2体の人形の手を観衆に向けて振って見せると、それほど広くはないが、決して狭くない遊戯室を声にならない声が包んだ。子供らの息を呑んだ声とでも表現すれば良いのか、この人形劇をするとこういう反応は珍しくない。
「はい。お話はこれでおしまい。お兄ちゃんとお姉ちゃんに拍手拍手」
 一人の年嵩の保母がそう言って拍手をすると、固まっていた園児たちもそれに釣られるようにして拍手をする。
 一人が強く手を叩き、それにも反応して全体の拍手の音が大きくなる。
「どうも、ご丁寧に」
 遠野は持っていたノートを閉じると、立ち上がって丁寧に園児たちに向かって頭を下げる。
 俺も2体の人形を使って遠野に合わせてペコリと頭を下げさせる。
 更に拍手が続く。

 園児らと保母たちの反応を見る限り、今日は何とか上手くいったというところだろう。毎回のことながらホッとする。場所にもよるが、同じことをやっていても反応が良い時と悪い時がある。そんな時は話にアドリブを入れたりしながら、何とか興味を惹きつけさせるように努力する。
 もっとも見ている子供の反応を窺いながら進めるのは遠野の役目なので、俺はただ合わせて人形を動かすだけなのだが。
 しかしここまで素直に喜ばれ、目を輝かされていると正直気恥ずかしい。一向に慣れそうにない。

 勢いに任せて群がってくる園児らの相手は遠野に任せ、俺は人形を持って園内の隅に逃げ出す。
 こういう時の子供の相手は苦手だ。
 じゃあどういう時が得意かと聞かれれば、年中無休で苦手なのではあるが。従って職員室の方で幾人かの手空きの保母と雑談を交え謝礼を受け取ると、そこでお茶を啜りながら園児たちに囲まれた遠野を待つことにした。
 幼稚園の庭に通じるガラス戸が開け放たれていて、そこから風が入ってくる。力を使ったことによって火照った体の熱を冷ましながら、大きく息を吐いた。


 俺の旅に遠野が加わってもう大分経つ。
 一人が二人になって、随分と変わった。
 基本は今まで通り路上での人形劇がメインだが、時たまこうして今日みたいに近所の幼稚園や施設に売り込んで、そこで劇をやらせてもらったりしていた。
 もちろん、話をつけるのは俺ではなく遠野だ。
 今の彼女はちょっとしたマネージャーのようでもある。

 すぐにこうなったわけではない。
 初めの頃、遠野は路上で人形を操る俺の横にただ座っていた。
 俺の人形劇が大好評なんてことは一度たりともなかったので、殆どの時間を隣で手持ち無沙汰で過ごしていた遠野が、それから暫くしてあれこれと動き始めたことを止める気はなかった。
 どうやら最初の頃は別に働こうとも考えたようだが、今の遠野の立場では色々と難しい話だったらしく、上手くいかなかったようだ。旅を続けている俺たちからすれば、日銭を稼げる仕事しか選べないのだから無理もない。
 だが今はまだ何とかなっても、このままではすぐに立ち行かなくなる。
 俺一人なら何とかなる生活も、二人となると別だ。それがわかっているからこその遠野の奔走であったと思うし、俺もそれなりに焦燥感は感じていた。
 そこで遠野がおずおずと提案したのが、俺の人形劇を芸として面白くすることで成り立つこの売上向上計画だった。ただ闇雲に人形を念を込めて動かすことで注意を引く即興劇ではなく、ストーリーのある人形劇にする。本、もしくはシナリオを用意してそれを遠野が朗読し、俺が話に合わせて人形を動かす。
 遠野の持つ数冊の本やノートは全て俺たちの劇のものだ。物語という都合上、2体の人形を動かす事が多くなったが、その疲れよりも収入で得た糧の力の方が上だ。事態打開を原点にかえったところで求めたわけだが、まさかそれがここまで当たるとも思ってもいなかった。
 これは俺一人ではどうしようもなかったことだ。
 全てがそんな調子で、俺と遠野の旅は少しずつどんなことに対しても落ちついてきている。

 ぎこちなかったことが、いつしか馴染んでいる。
 物事は全てそうだ。
 俺が遠野を連れ出したのも、連れ出してしまったのもただの成り行きだった。今思えば、なんでそこまでしたんだろうと思う。
 あいつとの約束は勿論ある。
 けれど、もっと違った方法だってあった筈だ。
 商売上、誰とでも付き合うことに躊躇いはなかったが、その一方で誰とも深く関わりあうことは避けていた。
 俺は母親と離れて以来、いつだって一人だったのだから。

 ――この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
 ――それはずっと前から。
 ――そして、今、この時も。
 ――同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。

 そう言われ続け、教え続けられて、俺は旅を続けてきた。
 それはずっと続くと思っていた。何も変わることはないと思ってきた。

 そう、俺は見つかることはないだろうとどこか諦めていた。
 それでも続けていたのは、他に手段を知らなかったこともある。
 そして何より目的がなかった。
 放棄したところで、代わりに得るものも満たされるものもない。
 あるのはただの目的を失うという喪失感だけ。
 それがわかっているからこそ、続けてきた。

 自分には母親のように人形を操って人を喜ばせることはできなかった。
 人形を操れる力がどんなに優れていても、たかが知れている。
 劇として人に喜ばれるものを見せることもできなければ、その為の努力も怠っていた。
 当たり前だ。俺の芸は、人を笑わせるものでも、少女を探すためのものでも、自分の生活を支えるためのものですらなかったのだから。
 それしかなかったのだ。
 それしか、俺は教わらなかっただけなのだから。
 憶えていなかったのだから。

 だから、それからの俺は流されるまま言われるまま、惰性のように生きてきた。一人になってからの俺の旅は、母親と続けた旅の残りカスみたいなものだった。少女を探していたのも、彼女のためでも俺のためでも一族のためでもない。
 それをしないと、俺という存在がなくなってしまうからだった。
 だからどんなに見つかるはずがないと思っていても、止めることも諦めることもできなかった。
 辛いようで、辛くはなかった。
 何もすることが見つからないことの方が、よっぽど辛いと思っていたから。どんなに生活が厳しくても、自分には不向きだと思っても、続けられたのはそのおかげだ。
 寂しくも、空しくもない。他のことを、知らなかったのだから。

 あのまま一人で旅を続けていたら、きっと知らないままでいただろう。
 このことに気づかないでいただろう。
 初めは今までの生活が崩れることを恐れていたくせに、今では今の状況をどこかで喜んでいる自分がいる。
 気楽なのだ。やけに。

 今思えば、こんな気楽を感じて過ごせていたのは初めて遠野達と出会って過ごしていた頃からだった気がする。そう考えると、俺が遠野を旅に連れて行くことを考えた理由はあいつに頼まれたからではなくて、この気楽でどこか肩の力が抜けた生き方を欲していたからなのかも知れない。学校にも行かず定職にも就かず、少女を探す目的のために一所に留まらず全国を歩き回り、人形劇で日銭を稼ぐ日々。
 一見すればあんまり変わりないはずの暮らし。
 それなのに、俺の中では大きく変わっていた。
 不思議なものだ。全てはこの人形劇のようなものだ。
 空にいる少女を探す目的のためであったはずなのに、今では二人で暮らすための手段になっている。

 ポケットに無造作に突っ込んでいた人形を取り出す。さっきまでの劇で使っていた遠野製の着飾ったペアのものではなく、長年の戦友。
 俺の唯一の証。そして母親とのたった一つの繋がり。形見。
 修繕はしているが、ボロボロで見栄えも相当に悪い。
 下手にそこらで放置したらゴミ思われて捨てられてしまうことだろう。
 指先で修繕された個所を撫で、床に置いた。
 念を込められた人形は倒れない。手を離れた人形はそのまま一歩、二歩とおぼつかない足取りで歩き出す。そうしてから力を抜く。
 同時に人形はパタリと倒れ込んだ。

 遠野は唯一の身寄りである母親を自ら捨ててしまった少女だ。
 あのままでいい筈はない。だが、今の俺にはどうすることもできない。
 彼女の手を引いて、連れ出してしまった俺には。
 今、遠野は笑うことができている。けれど、それだけだ。
 俺は何もできない。遠野を責めながらも、どうすることもできなかった時から少しも変えられないでいる。
 俺だけが、安らげてしまっている。今では全てに対して遠野に甘えているだけだ。自分を責め、苦しんで、苛み続けている彼女に身を委ねきってしまっている。
 この状態が遠野にとっても少しは助かっているのだろうが、それでも気が咎める気持ちがある。もっとあの時にやりようがあったのではないか、言いようがあったのではないか。
 そんなどんよりとした重く暗い気持ちが俺の奥底に溜まっている。
 あいつ――みちるとの別れももう少し違ったものになれたかも知れないし、何より遠野は家に帰れた筈なのだ。
 何とかしなければいけない、しなくてはいけない。ぎこちない今の俺たちの旅が、いつしか馴染んでしまいきる前に。胸の奥に溜まったものが霞んでしまう前に、後悔することを忘れてしまう前に。
「………」
 こんなことを考えられるようになったこと自体が、不思議だ。
 今までの自分ではきっとできなかったこと。自分のことで精一杯で、その自分のことですらろくに何もできず考えられもせずにいたのだから。
 自分は変わったのだろう。
 そして俺を変えたのはあいつらのお陰なのだろう。
 だとすればやはり、今度は俺の番なのだ。
 俺が美凪を、本当に飛ばせなくてはいけない。
 そしてそれは俺にしかできない。
 だからこそ、やらなくてはいけない。

 その上での旅ならもっといい。
 また一人の旅に戻っても、二人で旅を続けることになったとしても。
 俺は見失うことも、恐れることもずっと少なくなる。今の不安定な上での安らぎよりはずっと良い。そして俺がみちるに羽を分け与えてくれた少女を見つけ出すことができるとするなら、きっとそれからだろう。

 息を吐く。今日は少し疲れたかも知れない。
「ま、本当にその少女とやらが見つかるかどうかも怪しいんだけどな」
 みちるの存在さえなければ、きっと実在を本気で信じきれないまま終わっていただろう。
 遠のいたようで、近づくことになったとは皮肉な話だ。
「できますよ、往人さんなら」
「美凪?」
 気が付くと、人形を拾い上げている遠野がいた。
「………」
「………」
 暫し、目が合う。
「手慰み?」
「違うっ!」
 あんまり間違っていないが、間違っている。
 いや、何となく間違っている。絶対に違う。
「三角関係…」
 拾い上げた人形と、俺を交互に見て呟く。
 人形と、俺と、遠野を指しているらしい。
「……痴情の縺れ?」
「どうしてそうなる」
「最近構われていない古女房の反乱。我が物顔で居座る愛人との確執の行きつく先は……」
「…美凪。もうそろそろいいか?」
 このままでは日が暮れてしまう。
「はい、お待たせしました」
 そしてペコリと頭を下げる。
 今頃確認するのもなんだが、園児たちの相手は終わったらしい。
 特に疲れた様子もない。タフな奴だ。
「じゃあ、行くか」
「はい」
 俺は遠野から人形を受け取って尻ポケットに入れると、荷物を持って立ち上がる。遠野が自然に俺の隣に並ぶ。
 そこが、今の遠野の指定席。遠野美凪として存在できる唯一の場所。
「………」
 見送りに来た保母を相手に一言二言挨拶を交わしだけで、二人で幼稚園を後にする。さっきの遊戯室では何事も無かったかのように、園児らが遊んでいるのが見える。
 きっといつも通りの光景なのだろう。保母達も幼児らの合間を忙しなく働いている。見送りに来た保母もそこに混ざったのを確認すると、前を向いて足を速めた。
 遠野も特に声も掛けることなく俺の横を歩いていた。
 今の俺たちを見て、あいつはどう思っているだろうか。

 荷物の中には俺と遠野の二人分の星の砂の入っている。
 遠野も肌身離さず、あいつの分の星の砂を持っている。
 ひょんなことでできた絆。ふとしたことで離れた絆。
 それらが再び、交わる時を見つけてやろうと思う。
 俺が混じったことで解れていった糸ならば、俺の手でまた結べるはずだから。まだ醒めないままの現の夢の中を歩いているだろう彼女を背中に感じながら、俺は心にそう決めていた。
 そう、何となくわかるのだ。
 いつか、きっと、




 俺たちはまたあの街に戻ってくることが。






                                           <完>