途中下車◆

 歌。
 歌が聞こえてくる。


 シャカカカカ


 マラカスの音と共に。


「おはようおはようボンジュール おはようおはようボンジュール
 国崎さん 国崎さん おはよう国崎さん♪」


 シャカカカカカカカカ


「早く起きてよボンジュール 今日も元気にボンジュール
 くるくるくるくるくるくるまわって
 ボンジュールボンジュールボンジュールボンジュール
 おはよう国崎さん ヘイ!」


「………………」
 俺は佳乃がポーズを取り終わったのを確認すると、毛布を掛け直してもう一眠りす
ることにした。


「コラ」
 するといきなり腹の辺りを聖に蹴られる。
 踏みつけられたと言った方が適切かもしれない。


「佳乃が折角君の為に起こしてあげているのにその態度は何だ」
「あれで起きろと言うのか」
「あれで起きないでどうする」
「………」
「………」
「おはよー、往人くん」
 当の本人は無視されたことをあんまり気にした様子がない。
 だが俺の首筋にメスを押し付けられている、この危機的状況にも気にした様子がな
いのは困るのだが。
「さっきのおはようダンスどうだった? 昨日ね、友達から教えて貰ったんだよー」


 単にズレていただけだった。


「最高だ、佳乃」
「な、なかなか普通では見られないものだったぞ」
「良かった。ずっとポテトと二人で秘密練習した甲斐があったよ、ねーポテト」
 親指を立てる古臭いポーズを取る聖と、そんな聖に強制された俺の言葉に満足げに
頷く佳乃と、ピコピコといつもながらの擬音を発しているポテト。
 一つを除けば平和な光景だ。
 いい加減、メスはどけろ。


「じゃあ行ってきまーす」
 3人でロビーでの朝食を済ませ、元気良く飛び出していった佳乃を聖と共に見送る
と、霧島診療所の一日が始まる。
 俺にとってはただの掃除時間でしかないのだが、聖は診察室に閉じこもり、患者が
来るまでの間は何だか難しそうな外国語で書かれた医療雑誌や書籍を並べて読みふけ
っているのが習慣になっている。
 だが俺や佳乃にはその姿を見せたくないのか、俺達が診察室に入るときは新聞や女
性週刊誌を読んでいるフリをする。だが、こないだ見つけた「健康」は本気で読んで
いたようだったが。
 未だに佳乃に似た症例を探していたりするようだが、見つかっていないようだ。

 そして昼頃、今日もいつもと変わりなく患者の一人も来ないまま時間だけが無為に
過ぎると、昼頃近くなると昼休みと称して診察室で二人、お茶を啜りながらのんびり
するのが日課になってしまっている。
 聖はお茶に煩いせいか、必ずお茶だけは自分で淹れる。
 清潔感を強調するように白で統一された部屋も、鼻を刺激する消毒液の匂いも、花
柄の電気ポットから急須に注がれるお湯の湯気で台無しにしている。
 俺はいつも通り真っ白なシーツがピンと張られたままのパイプベッドに腰掛ける。
 その俺の足元には時たまポテトが控えているのだが今日はいなかった。
 朱塗りの丸盆には鮮やかな色をした高級玉露と、地元のものなのかやけに安っぽい
怪しい雰囲気の茶菓子が乗っている。
 大概は佳乃が帰ってくるまでの時間をこのまま過ごす。

 こうして面と向かってお茶を啜り合う時間、俺達の間にこれといった会話はない。
 元々俺は人と喋ることがあまり得意とは言えないのが主な原因だ。
 聖の方から話し掛け、俺がそれに多少答えるところで会話はいつも途切れる。
 俺の商売上、喋りが苦手と言うのはかなり致命的だと判ってはいるのだが、生来の
性格はそう直らない。それに別にこの商売で大儲けしたいわけではない。生活に困ら
ない程度に、その日その日を食べていける程度の稼ぎさえあれば十分だと思っていた
ので無理に自分を変えようとはしなかった。
 その結果が今こうして無一文という形で生活に困窮し、居候させて貰っているとい
う有様なわけだが。
「…国崎君」
「なんだ」
「君は今後どうするつもりなんだ」
「………」
「もし、何も決めていないなら―――」
「質問を質問で返すようで悪いが」
 聖の言葉を遮って、
「あんたは将来どうするつもりだ?」
 手にしたお茶を零さない程度に傾けて中身を回しながら尋ねる。
 この姉妹の親切心は本物だろう。
 だからこそ、深入りし過ぎることは危険だった。
 俺自身にとって。
 俺の今後ほど不明瞭なものはない。
 目的自体が、酷く曖昧なものだから。
 そして一番始末に負えないことは俺自身、自分がどうしてこんな生き方をしている
のかはっきりと自覚して生きているわけではないところだった。
 親から言われてきたこと、先祖代々伝えられてきた使命。
 それに従っている自分に疑問を持つことが怖かった。
 気付かされる事が嫌だった。
「私か? 私は恐らく一生このままだ」
「………」
 あっさりとそう言う聖の表情に迷いはなかった。
「このままこの町の医者として過ごすだろう。この診療所が閉鎖されない限りな」
「そして佳乃の姉を一生続けるのか」
「そうだ」
「………」
 当然といった顔をして言いきった聖を見て、小さくため息をついた。
 あまりに彼女は俺とは違う。
 全く迷いのない、自分で考えて決めた生き方をしている彼女。
 そんな聖に羨ましいような、腹立たしいような僻んだ感情が沸き、つい毒づいてし
まう。
「自分を見ないで、他人を見て生きたほうが悩まなくて良い分、楽だもんな」
「何が言いたい?」
 僅かに眉を顰めて聞いてくる。
「別に。少しは自分のことも考えて生きたほうがいいんじゃないかってことだ」
「君に言われるまでもないことだ」
「そうか?」
「ああ」
「他人に世話をかけられ続ける、もしくは面倒をみられ続けるってのも、それはそれ
で気苦労が耐えないものだぞ」
 佳乃にとって聖のその想いが時には負担になり、果てには重圧にもなりかねない危
険性を考えると、一度機会があれば言おうと思っていたことだった。
 それでも今、この場で言っている俺は佳乃の為でも何でもなく、どこか僻んだ感情
が燻っていての発言のような気がした。
「そんなことは……知っている」
 幾分、間があった。
 でも俺にとってはそれだけで十分だった。
 やり込めたと言う爽快感は少しもない。
 一層惨めな気分だけが俺の中に残った。
「なら、もう何も言うことはない」
 そして彼女ら姉妹に深入りする気もない。
 それだけの立場でもないし、資格もない。
 今の、この、俺には。
「………」
「………」
 俺と聖でそれぞれ理由が異なりながらも、気まずい空気だけが残った。
「では、そろそろ午後の仕事に戻るとするか」
「そうだな……で、聖」
「なんだ?」
「お前には言っておこうと思ったんだが……俺はもうじき、この町を出るつもりだ」
 この言葉は咄嗟の思いつきだった。
 初めてこの町に来たときは、すぐに出ていこうと思っていた。
 けれども、思うように路銀も稼げずに苦しんだ結果、思わぬ長居をするようになっ
ていた。
 その中でも聖達二人には本当に世話になった。
 だが、このままいつまでも甘え続けるわけにはいかない。
 そしてここはあくまで目的の旅の途中に立ち寄っただけの場所でしかない。
 ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。

 それと同時に、ずっと聖を見ていて気づいたことがある。
 それが徐々に自分の中で膨らんでくるのに怖くなった。
 自分を犠牲にすることを躊躇わない人生。
 俺は彼女のように自分を犠牲にして生きているとは思っていない。
 けれども、俺の今の生き方は本当に俺が望んだ生き方なのか、俺が考えて決めた人
生なのかと自分に問うと答えに詰まる。
 母親から、一族代々から伝えられてきた使命。
 その伝わる力で人形を遣って芸をし、空の向こうにいるという少女を求め全国を探
し続ける。
 土地から土地。
 人から人。
 渡り歩き、一つの場所に長く留まることのない生活。
 様々な人間を見、色々な人間に会って来た。
 俺は口下手ではあったけれども、多少は今までにも親しくなった人間もいた。
 そんな人とも最後には必ず別れた。
 俺がそこから旅立つという形で。
 俺は求め続けていたから。
 まだ見ぬ、翼の少女をただひたすらに。

「……そうか」
 聖は俺の言葉に、静かに反応した。
「ああ。世話になりっぱなしで何一つ恩返しもできなかったが」
「気にするな。元からそんなことは期待していない」
 あっさりと言いきられた。
「………」
「それで、いつ頃出るつもりだ」
「そう遠くない時期。早ければ今晩にでも」
「いきなりだな」
「ああ」
 きっかけはほんの思いつきだが、それは直感でもあった。
 その直感が正しいのかどうかはわからない。
 それでも、いつも俺はその直感と共にその街をその土地を後にしていた。
 どんなに俺に馴染んだ土地であっても、居心地の良い場所であっても。
 俺は流離う為に、存在する人間だから。
 そう生きてきたから。
「それで佳乃にはいつ告げるつもりだ」
「そのことなんだが……」
「まさか無断で消えるつもりじゃあるまいな」
「実はそのつもりだ」
「ほう……」
 トンという音と共に俺の顔のすぐ横をメスが通過し、壁に突き刺さっていた。
 妹のことになるとこの姉は仕事が早い。
「佳乃を悲しませることは私が許さんぞ」
「ここで俺が死ぬ方があいつは悲しみむんじゃないか?」
「心配ない。急所は外すつもりだ」
 いきなり顔めがけて投げつけてきては説得力がなかった。
「君は不慮の事故に遭い、重態に陥る。寝たきりの看護生活だ。一生何もせずに寝て
暮らせるなんて実に理想的だと思わないか?」
「思わん」
 即座に否定する。
 間を空ければその間にメスが飛ぶような気がした。
 暫く牽制するように見合ってから、聖が構えを解いてメスをしまって腕を組んだ。
「まあ、君も考えがあって言っているのだろうが、むやみに佳乃を悲しませないで欲
しいな」
「すまんな」
「………」
 聖の目が一瞬つりあがるが、今度は行動は起こしてこなかった。
「黙って出ていくことに何か意味でもあるのか?」
「あると言えばある」
 ほぼ嘘だ。
「随分と引っかかった言い方だな」
「俺も迷ったんだ」
 これは嘘ではない。
 旅立つことは思いつきでも、その日の来ることに対してはずっと考えていた。
 俺は一度も住処を持ったことの無い、生まれついての旅人だから。
「ふん……だがな、君の都合で考えているのなら許さんぞ」
「そうだな」
 肯定も否定もしなかった。
 言うと烏滸がましいように感じたから。
「………」
「どこか行くあてでもあるのか?」
「あると思うか?」
「あるわけがないな」
 きっぱりと言いきられた。
 そしてそれは間違いはない。
 俺を迎えてくれる土地も場所もない。
 第一、俺を知る人はこの世に殆どいない。
 今まで通った場所でも、俺を覚えている人は殆どいないだろう。
 それが寂しいこととか、悲しいこととか思う暇もゆとりも俺にはない。
 俺の生活は日銭を稼ぐことと、人を探すことで占められていたから。
「まあいい。取り敢えずお茶のお代わりはいるか?」
「いや、いい」
「そうか?」
 聖は自分の分のお茶だけを淹れて座りなおす。
 俺は軽く息を吸ってから大きく吐いた。
 まるでここに匂いを肺腑に染み込ませるような、忘れないようにするような行動だ
と我ながら思った。
 その様子を聖はどう見たか判らない。
 お茶を一杯啜ってから聞いてきた。
「前も聞いたが、君の旅の目的とはなんだ?」
「………」
「絶対に誰にも言えないことなのか?」
「いや、そういうわけでもない」
「また随分と引っかかる言い方をするな」
「俺自身、判っていない部分もあるからな」
「……良ければ、聞かせては貰えないか」
 顎に手をあて、神妙な顔つきになっていた。
 聞いたところでどうにもならないことだが、こうして俺の旅の目的を聞いてくる人
間は少なくない。
 時にはただ興味本意で、時には会話の接ぎ穂として。
 それでもたまにこうして真剣な目をして聞いてくる人間もいる。
 そういう人間にはいい加減な答えで誤魔化したことはあまりなかった。
 俺はこういう時に、こういう相手に咄嗟の嘘をついたり冗談で交わすのはあまり上
手くない。
「この空の上に哀しい目をした少女がいる」
 前置きも無くそう言い出して空を見上げるが、室内なので天井しか見えない。
 それでも俺の目は天井を通し、その向こうで一面に広がる青空を映し出していた。


 …この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
 …それは、ずっと昔から。
 …そして、今、この時も。
 …同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。


 俺が幼い頃、母に聞かされた言葉を繰り返す。
 それは俺の一族でずっと語り継がれてきた。
 そんな不確かなものを探し続けるために、俺の一族は人形使いを続けてきた。
 何の疑問も挟むことも無く、何一つアテも無く。
 代々探し続けてきた。

 何度思い返しても、疑問しか沸いてこない。
 何故、俺はこんなことを続けているのだろう、と。

 母に子供の頃から聞かされ続けていたから。
 代々の使命だから。

 そんな理由で全てが片付けられるようには思えなかった。
 もし俺と同じ理由で俺のように生きているヤツを見たら俺はやっぱり聞くだろう。
 何故、続けているのだと。
「それで君は君の母上と別れてから、ずっと一人で旅を続けてきたのか」
「ああ」
「そうか……」
 生業とするにはあまりに拙い人形劇。
 母は人形を操るのも上手かったし、観客を集めたり盛り上げたりするのも上手かっ
たと思う。少なくても俺という子供を抱えて生活できるだけ稼いでいたのは間違いな
いのだから。
 だが、俺にはそんな才能はない。
 人形を操る「技術」は評価されても、俺の「人形劇」が評価されたことはない。
 ただ操ればいいものではないのだから当たり前だ。
 法術という力でどんなに上手く人形を操ろうとも、種も仕掛けもある手品の方が面
白ければ人はそちらに集まる。
 初めは感心して見てもらえても、芸として面白いものでなければ興味は薄れる。
 同じ土地に長くいられない理由のひとつでもある。
 最初の物珍しさだけで続けられるほど甘い仕事ではない。
 そのことはこの町に来てイヤと言うほど思い知らされた。

「それでは一つだけお願いがあるのだが、聞いてはくれないか」
 俺の話が途切れてから暫く黙っていた聖だったが、ふと前もって用意していたよう
な切り出し方をしてきた。
「何だ」
「鍵は渡しておくから、早朝にでもこっそり消えてはくれないか」
「ああ。わかった」
 聖の言いたいことが判ったので頷いた。
 最初から、そのつもりだった。
 人に見送られてのお別れはガラではない。
 俺という存在を求めているのは、翼を持った少女ただ一人だけだから。
 俺は、俺という存在はその少女の為にいる。
 少なくてもその少女は俺を待ち続けてくれている。
 だからだろう。
 俺はいつも落ちついていられる。


「………」
 これが最後だと思うと、モップでの病院の床掃除もいつもより丁寧にやっていた。
 こんなものが感謝の意にはならないことは承知しているし、自分でそう気づいてい
るだけに自己満足にもなっていない。
 それでも俺にはそんなことしかできない。
 俺は人形を操る力しかもっていないから。
 そしてその力があればきっと空の向こうの少女に会うことができる。
 そう信じて、生き続けている。
「まだ夏になったばかりなのにな……」
 背後で呟くような聖の声。
 俺がモップ掛けから雑巾で窓を拭く仕事に移っていると、いつの間にか聖が診察室
のドアを開けてこっちを見ながら壁に寄りかかっていることに気づいた。
 もしかしたらもっと早い時期からいたのかも知れないが、掃除に熱中していて気づ
かなかった。
 特に呼びかけられたわけでもないので、雑巾がけの手は休めない。
 今日はどうやら病人は来そうになかった。そんな日なのかも知れない。
 佳乃も学校の友達との約束があるらしく、帰りはいつもより遅いらしい。


 一人の少女の為に同じ場所に留まり続ける聖。
 一人の少女の為に旅を続ける俺。


 そんな二人が今、この診療所という同じ場所にいる。
 構図を考えると滑稽に思えなくもない。
 でも俺は聖ほど決め込んで、思い詰めてはいない。
 だがその分、俺の方が一途ではない。
 どこか諦めてかかっていることに気づきたくなくて、信じこんでいる。
 きっといると。
 どこかにいると。
 そうでなければ、俺という存在はどうなる。
 そして一番の問題は、俺はこの生き方しかできない。

 俺は選択する立場ですらない。
 自分で決めることもできなかった。
 気づけばもう、この生き方しかできない自分でしかなかった。

 聖を見ていると、そんな自分の無残なものが見えてくるように感じる。
 どうしてだろう。
 俺と聖は、似ていないのに。
 全く似ていないのに。


「手が止まっているぞ、国崎君」
「ん?……ああ」
 聖からの指摘で、自分が思い悩んでいることに気づいた。
 再びしゃがんだ姿勢で手を動かしながら、フト思いつく。


 俺はここを離れたくないのだろうか。


 ここに馴染んでしまう自分が、目的を忘れてしまう自分が怖いのか。
 実は全てを捨ててしまえる自分に気づくことが恐ろしいのか。
 だから慌てて今までの自分に戻ろうとしているのか。
 いつも逃げてきた。
 見知らぬ土地へ見知らぬ土地へと旅を続けた。
 誰とも親しくなろうとせず、何処にも馴染もうともせずに探し続ける。
 それはどうしてだろう。
 俺は――


「………」
「全く、窓拭きも満足にできないのか、君は」
 指摘されて再び手が止まっていることに気づいた。
「………すまん」
 言い訳を考える気力もなく、素直に謝った。
「ほら、貸してみろ」
「………え」
「窓拭きの手本を見せてやろう」
 聖が俺の手から雑巾を奪うように掴むと、俺の拭いていた窓を拭き始める。
 キュッ、キュッと小気味良い音を窓に鳴らせ、窓の外の景色を鮮明にさせていく。
 多少力を込め過ぎな気がしたが、その動きを見ていたからだろう。どこかの家でゴ
ミでも燃やしているのか、煙が一本昇っているのが目が入った。
 焚き火。
 この夏の日にやるものではないが、冬でも夏でも夜の寒さは厳しい。
 必要になればいつも夜、自分で火を起こしては暖を取っていた。
 いつだって俺は一人きりで――いや俺は、俺の母親とは……

「―――っ!」
 頭の奥で霞んでいたものが不意に鮮明になっていく。
「……違う」
 何かが、違う。
 決定的なものが、違う。
 今まで思っていたことが、違う。
「ん? どうかしたのか?」
「え?」
 気がつくと、俺は立ち上がっていた。
「…あ、え?」
 どうして立ち上がったのだろう。
 自分でも判らなかった。
 突然、自分を否定しはじめようとしていた。
 何か、あと少しで気付いてしまう気がした。
 そう。
 気付いて、しまう。
「………」
「………」
 聖が俺を不思議そうに見ていた。
 俺もまた、聖の顔をじっと見つめていた。
 聖の顔が俺の頭の奥で何か違うイメージと重なる。
「………」
「………」
「顔色が優れないが、気分でも悪いのか?」
「え、あ……いや……」
 言葉にならない。
 混乱した思考を振り払うように頭を振る。
 それでも脳裏にまとわりついたものは離れなかった。
 自分でも全く判っていないでいる俺をじっと見てから聖が聞く。
「迷っているのか?」
「え……」
「君は自分の決めたことに迷っているのか?」
「………」
 一瞬、どう誤魔化そうかと考えたのだが無駄だった。
 俺は嘘を付くのは下手糞だった。
 だからいつだって開き直すことぐらいしかできない。
「いつも迷っているからな。これでいいのか、これで良かったのか。後悔や反省もす
る暇なんかないぐらいにな」
 だから別に迷うことは珍しくなんかないとアピールしたつもりだった。
 強がりかもしれない。
 いや、今の俺はただ強がっているだけだった。
 今さっきまでの俺は。
「ふむ……」
「そこで感心したような顔をするのは何故だ」
 軽い笑い話程度で終わらせようという目論みは失敗した。
 俺の目論みは成功した試しがない。
「君もそんなことを悩んだりするのかと意外に思ったのでな」
「意外とは何だ」
「いや、すまん」
 そう言いながらも可笑しそうな表情に変わる。
「謝っている顔には見えんが……」
「正直、君は自分の行動全てが投げやりなのではないかとずっと感じていたのだ」
 そう言うと、手にしていた雑巾をバケツの中に放り込む。
「お茶にしよう」
「さっきしたばかりだぞ」
「まあそう言うな。今日はどうせ患者は来ない」
「まだこんな時間だぞ。判るものか」
「……いや、患者はいたな」
「何処に?」
 ピッといつの間にか手に握られていたメスで俺を指し示す。
「国崎君。今日は君が患者になれ」
「は?」
 楽しそうにいそいそと診察室に戻って手招く聖に薄気味悪さを感じた。
「その歳でお医者さんごっこはどうかと思うぞ」
「ごっこではない。少なくても私は医者だからな」
 そう言って白衣を着た胸をはった。
 白衣よりも中の通天閣のシャツの文字が目立つので全く医者らしくない。
 それでも聖は機嫌が良さそうだった。
「まずは手を洗って来い。いや、私もだな」
「………?」
 聖の上機嫌の理由が判らずに、つい従ってしまっていた。


「君は言ったな。自分を見て生きるよりも、他人の面倒を見て生きたほうが楽だと」
 交代で手を洗い終わると、聖はさっきしまったばかりのお茶とお茶菓子を取り出し
て盆の上に並べる。
 俺はお茶にだけ手を伸ばして、一口だけ啜った。
「いや、そんなことは……」
「確か君は「自分を見ないで、他人を見て生きたほうが悩まなくて良い分、楽だもん
な」と言った筈だ」
 一行一句余さず記憶していやがった。
「………」
 仕方なく押し黙る。
 こうして聖の声を聞いていることが、どこか苦痛に感じていた。
 同時に、その言葉にはどこか安らぎを感じてもいた。
 だから俺は座ったまま動けないでいた。
「君は他人を見てこなかったかも知れないが……自分すら見てこなかったのではない
のかな」
 椅子に座って手でメスを弄ぶように俺の視界でチラチラ動かし出す。
 その動きが特に目障りで仕方がなかった。
「………」
「君はどうして旅を始めたんだ」
 聞くな。
 そんな声が聞こえた気がした。
「………」
「君は何故、旅を続けているのだ」
 聞かないでくれ。
 哀願する声がまた聞こえた。
「………」
「君は――」
「……っ!」
「む?」
 俺は立ちあがって、聖の手首を掴んでいた。
 目障りなメスの動きが止まった。
「え? あ……す、すまん」
 声なんか勿論、聞こえない。
 それよりも、どうしてそこまで自分がムキになるのかも判らない。
 呆然としてしまう。
「謝ることはない。国崎君」
「なっ」
 だが、俺がこうして動揺すればするほど聖は落ちついているように見えた。
「君はどう思っているのか知らないが、私は弱い人間なんだよ」
「は?」
 聖が何を言い出すのか判らなかった。
「君だってそうだろう?」
「………」
 俺はその問いに答えずに再びベッドの上に座り直した。
「理由も原因も知らないが、君は今揺れている」
「………」
 そうだと認めてしまう自分が怖い。
「そして君はどっちかの方向を決めて片方を切り捨てようとしている」
 そうかも……知れない。
「だが、その切り捨てようとしている方が、本当は大事なものじゃないかと迷ってい
るのではないのか」
 わかったようなことを言う。
 けれども、反論できないでいた。
「自分の決めたことが、本当に自分が望み、選んで決めたことか判らずにいるのでは
ないのか」
「………」
 何も言えなかった。
「推測でものを言ってすまんな。だが、実はずっと思っていたのだよ」
「はぁ?」
「佳乃と話して、君をここで雇うように誘った時からな」
「そうか……」
「ああ。だが、それを指摘するつもりはなかった。例え無理矢理思いこんでいたにし
ても、君が自分で決めたことだと思ったからな。私が口を挟む筋合いではない」
 その気持ちは判る気がした。
 俺が聖に佳乃の溺愛について必要以上に言わなかったのと同じ理由だろう。
「さっきまでずっとそう思ってきたのだが……もし迷っているようのなら、口を挟ん
でみるのもいいかも知れないなと思ったわけだ」
「で、そんなに嬉しそうなのか」
 そう。聖は嬉しそうな顔をしていた。
 それも愉快そうというのではなく、本当に嬉しそうに。
「ああ。思っていたことを口に出せずに終わるのかと思っていたからな。言わずに我
慢するよりすっぱり言った方が気持ちが良い」
「随分とご立派な発言だ」
「だが、そう言う君もさっきより表情は晴れているように見えるぞ」
「……気のせいだ」
「では、そういうことにしておこう」
 あっさりと引っ込める聖が憎たらしい筈なのに怒りは沸いてこなかった。
 心地良いと感じてしまっていたから。
 こんなに人と喋ったのはいつ以来だろう。
 意味を持たない会話なら、腐るほどしてきた。
 いや、人とこうして喋ったのは初めてな気がする。
 俺は人と向き合って喋ることをしなかったから。
 そう、母親以外とは。


「…っ!」
 思い出した。
 いや、思い出してしまった。
 押し寄せてくる記憶。
 光景。
 言葉。
 忘れざるを得なかったことが全てが押し寄せるようにして頭の中に戻ってきた。
 叫ぶことも泣くことも喚くこともできなかった。
 ただ、全てを受け入れてしまっていた。
 欲していたから。
 求めていたから。
 だから全ての記憶を取り返していた。
 俺の覚えている限りの全ての記憶を。

 これを避ける為に、俺は逃げたがっていたのだと気づいた。
 思い出してはいけなかったのだ。
 今、この場所では。
 こんな形では。
 それでも、もうどうしようもなかった。

「国崎君?」
「……俺が」
 自分の中だけで片付けることができない。
 もう耐えきれなかった。
「何だ?」
「俺が旅を続けた……いや、始めたきっかけは母を捜すためだった」
 俺は、聖に聞かせる為ではなく自分に聞かせるために喋っていた。
 そしてポケットから人形を取り出してみせた。
 古ぼけた人形。
 この人形は俺の相棒だった。
 どんなに辛い時も、苦しい時も一緒だった。
 唯一の商売道具だからじゃない。

 これは、俺の大事な……母親だった。


 …あなたが思い出さなければ、わたしたちの願いはそこで終わる
 …これは本当なら許されないこと
 …あたりまえの母親に憧れ続けた、わたしのわがまま
 …あなたには自分の意志で、道を決めて欲しいから…

 夏の夜、燃え盛る焚き火の前で母は、俺の手のひらに人形を乗せて穏やかな声で確
かにそう言った。
 俺の記憶に残っている母の最後の姿。
 この日、俺は母親というものを喪った。

 …今からこれは、あなたのもの
 …これをどう使うかは、あなたの自由
 …ただお金を稼ぐためだけに、人形を動かしてもいい
 …旅をやめてしまってもいい。人形を捨ててしまってもいい
 …空にいる女の子のことは、忘れて生きていってもいい
 …でもね、往人…
 …きっと思い出す時がくる
 …あなたの血が、その子と引き合うから
 …どこかの町で、あなたはきっと女の子に出会う
 …やさしくて、とても強い子
 …その子のことを、どうしても助けてあげたい思ったら…
 …人形に心を籠めなさい
 …わたしはあなたと共にあるから
 …その時まで…

 違うんだ。
 俺は女の子を探していたわけじゃない。
 俺はその少女を求めていたわけじゃない。


 俺は母親を――家族を求めていた。


 俺の人形芸が面白くなる筈がない。人を笑わせることができる筈がなかった。
 当たり前だ。
 俺が欲していたものは代々伝え続けられた大層な使命じゃない。
 たったそれだけの、たったそれだけが望みだったのだから。
 母と旅を続けた毎日。
 人から見ればひどく素っ気無い、詰まらない毎日だったのかも知れない。
 それでも、それでも俺は……


「国崎君。もういい。もうやめたまえ」
 気がつくと、俺はずっと人形を動かし続けていた。
 その人形にどんな動きをさせていたのかは判らなかったが、聖の顔を見る限り少な
くても人形芸とは言えなかったのだろう。
 人を笑わせるようなものではなかったのだろう。
 俺が笑えないのに、そんな俺がどうして他人を笑わせることができる。
 母を捜し、母の面影を探し、そして母の使命を受け継ぐことで自分を保ってきただ
けのこの俺に何ができると言うのだ。
 俺は弱い。
 俺は本当に弱い。

 失ってしまった悲しみに引き摺られて、ずっとそれを抱えたままきてしまった。
 本当に忘れることができなかった。
 ただ逃げ続けることしかできなかった。
 それが、ここまで旅を続けてきた国崎往人の姿だった。


「聖。答えてくれ」
 どんな顔をして聞いていたのかは判らない。
 きっと今までで一番みっともない顔をしていたに違いない。
 無愛想の仮面はとっくに剥がれていた。
「俺は……」
 どうしたらいい――。
 そう聞くつもりだった。
 そのつもりだった。
 けれども、


「俺はここにいてもいいのか?」


 そんなことを聞いていた。
 こんな顔で。
 こんな醜態で。
 こんな弱さを見せたまま。
 他人に。
 旅先で出会っただけの。
 お世話になっているだけの。
 行きずりの相手に。
 身勝手にも、聞いていた。


「国崎君」
 聖はそんな俺の腕を取った。
 どうするのだろう。
 どうされるのだろう。
 判断の全てを他人に委ねる。
 震えたくなるほど怖い。
 逃げ出したくなるほど怖かった。
 俺はこんな自分を知らない。
 こんな状態を知らない。
「私は医者だ」
 そう言って座りこんでいた俺の顔を細い指先で撫でた。
 不安に怯える俺を、労わるような目で見つめていた。
「………」
 彼女の艶やかな髪の香りが、鼻先をくすぐっていた。
 気がつくと、俺は彼女の胸に頭を埋めていた。
「君のような患者は放ってはおけない」
 柔らかかった。
 暖かかった。
 ずっとずっと欲しかったもの。
 求めていたもの。
 そして得てはいけないもの。
 俺がこれを今、得てしまっては……。

「だがな、私も佳乃もまた患者なんだ……」
「なっ……」
 顔を上げそうになるが、力を込めて抑えつけられていて動かせなかった。
「君が私達の医者になってくれるかは判らない。なってくれとも言えない」
「……聖」
「だが、君が来てから変わりつつある。そんな気がするのだ」
 佳乃のことを言っている。
 この姉はいつだって佳乃が一番だ。
「間違いなく状況が動いてきている」
「………」
「君が必要なんだ」
「……っ!」
「こんな時に言うことは卑怯だと思っている」
 俺を抑えつける聖の腕に力が篭る。
 こんなにも息苦しいのに耳は明瞭に聖の声を、声に含まれるものを明確に感じ取っ
てしまっていた。
「顔はまだ上げないでくれ」
「……ああ」
「すまん。君につられた」
「ああ」
「今はまだいい。君は私の患者でいてくれ」
「ああ」
 今の俺達は弱いのだろう。
 それでも、良かった。
「すまん、国崎君」
「謝るな……聞いたのは俺だ」
「いや、謝るべきだろう。そんな気がする」
「気にするな。決めたのは俺だ」
 決めたのだ。
 それが俺の弱さからであっても。
 俺は、全てを見、全てを判じ、全てを考えて決めたのだ。
 俺は欲することを選んでいた。
 旅人で、余所者でしかない筈の俺をここまで受け入れてくれたこの姉妹を選んだ。

 俺の中の俺じゃない部分が悲鳴をあげている気がした。
 今までの俺が叫んでいるように感じた。
 泣いていた。
 涙を流していなくても、今の俺は間違いなく泣いていた。

「俺が、ここにいたいんだ……」
 口に出してみると呆気ない。
 実に呆気なかった。
 たったそれだけで俺の旅はここで一度、終わりを告げる。
 母親と別れて、母の影を追い求めた旅はここで終わる。
 今、見つけてしまったから。
 ここで知ってしまったから。
 この聖に抱かれる胸の中で。
 この胸の奥の涙と共に。


 だから暫く、こうしていたかった。


「そうだ国崎君。ひとつ言っておくが……」
 人心地がついた頃、お茶もすっかり冷め切った頃に茶化すように聖は言った。
「何だ?」
 そこで俺も漸く顔を上げた。
 大事なことだと念を押す彼女の言葉に俺は真面目な顔をして頷いた。
 だが、聖はそこでしれっとした口調で、
「私は君の母上にはなれないから、そのつもりでな」
 そんなことを言ってきた。
 冗談のつもりだろう、白衣の上の静かな瞳は笑っているように見えた。
 だから俺も即座にそんな彼女に答えた。
「……心配するな。肉奴隷ぐらいには扱ってやる」
「ほお」
 天井の光源に反射してメスが光る。
 俺は反射的に、身体を起こして逃げる体勢になっていた。
 気恥ずかしさを忘れるには、丁度良かった。


「ただいまーっ! …って、わっ、うわわっ、ちょっと、往人く〜ん…」
 ちょうど帰ってきたばかりの佳乃の腕を強引に引っ張るようにして、そのまま共に
出かけることにする。
「それじゃあ妹一号。今日も早速元気に散歩三昧だ」
「え? え?」
 俺の言葉に目を白黒させる佳乃。
 何も考えていなさそうにピコピコと擬音を発しているポテト。
 いつもと同じパターンだった。
 だが、どこか俺も聖も口元が綻んでいた。
「わ、わわっ…」
 一人事態を把握していない佳乃の腕を取ったまま、外に出た。
 直ぐにジリジリとした相変わらずの焦がすような日射しを肌全体で感じる。
 見上げるまでもなく太陽は高々と上っている。
「……」
 俺に時間はまだたっぷりある。
 気づけば、簡単だった。
 焦ることはない。
 諦めることもない。
 かといって、無理に頑張ることもない。
 今の俺ができること、今の俺がやりたいことをやればいい。
 夏という季節ですら、まだたっぷりと残っているのだから。
 俺の突然の行動にも律儀に付き合ってくれそうな佳乃の手を引きながら、俺は後ろ
を振り返った
 そして、振り返ったその先には…



『霧島診療所』と書かれた看板と、その脇で聖がいつも通りに微笑んでいた。




                            <完>



【後書きというか解説というか…】

 ゲーム本編内で折角往人の母親が途中で投げ出してもいいって言っているので、投
げ出させてみました。
 ではなく、往人が最初は人形に力を込めることで消えてしまった母親を探す為に旅
を始めたという動機を軸にSSをやってみたいなーと思いまして、なんとなく聖EN
Dならこんなノリが好きかもというのと絡めて適当にでっち上げてみました。
 聖と往人がラブラブーっというのはピンと来ないのですが、コンビとしてはなかな
かだと思うので、きっかけさえあれば…とか思ったり思わなかったり。

「かのんなぺーじ」の14万HIT記念SSでAIRはどうかと思いますが「Mas
ter Key」ともあるし、まぁ赦して下さいということで。


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