『寄り道』


 今日も眩しく、陽光が振り注いでいた。

 代わり映えの無い青空。
 澄み通っていると言うにはあまりにベタ塗りなほど、青い空と白い雲。
 一枚のペンキ塗りの絵柄のようでもあった。

 それを静止画として見ることを否定するのは、燦燦と光を放ち続ける太陽と、微かに動き続ける雲の流れだけだった。

 どっちにしろ、ウンザリすることには変わりが無い。

 試しに片手を伸ばし自分の頭を触ってみる。
 ずっと熱せられ続けたパサパサの髪の毛がかなりの熱を帯びているせいで、触った掌が熱かった。
 このまま帽子も被らずに歩き続ければ、熱射病にかかってしまうのではないかという危惧もある。
 着ているものも薄い半袖のTシャツ一枚とは言え、その黒色は熱を呼び、薄っぺらな生地の温度さえもあげているような熱さが感じられる。
 そしてその胸と背中の部分は汗で更に黒ずんでいるように濡れていた。
 これだけ熱せられているのだから、汗も乾いてくれればいいのに、そこだけはじっとりと肌に貼りついたままで、その感触は苛立たしさを助長させる。

 肩に担いだナップサックの紐が肌に食い込む。
 最初から重さは変わらない筈なのに、徐々に重くなっていっているような、そんな感覚があった。
 肌から肉、肉から筋肉、筋肉から骨へと重みが伝達され、身体が悲鳴を上げる。
 かといって担ぎ直すでもなく、逆の肩に変えるでもなく、歩き続ける。

 そうすることさえ、面倒で鬱陶しい。
 熱せられた髪の毛で焼いた手をそのままずらし、手の甲から手首の付近で自分の額を拭う。
 驚くほどの汗が腕に付着し、タラリと腕全体に流れ落ちる。
 そして額からも汗が垂れ落ちる。

 見晴らしの良い一本道。
 車も殆ど通ることのないアスファルトの道を、歩き続けていた。
 日差しに焼かれ続けながら。

 晴天は好きではない。
 こんな夏の日の晴天は尚更だ。
 汚れのなさそうな青空を見ていると、全てが嘘くさい白々しさのようなものを感じてしまう。
 世の中はこんなに汚れているくせに、青空を演出する大気でさえも汚れきっているのにも関わらず、そんな素振りを感じさせず、少しも見せようともしない晴天は好きではない。
 そのくせ、こちらの全てを見透かすように、曝け出すようにしている。
 一方的で、胡散臭い。

 晴天をそんな不愉快な眼差しで見上げるようになったのはいつ頃からだったか。
 昔はもう少し、違ったものの見方をしていた。
 世の中の全てを信じていたように。
 世界の全てに憧れを抱いていたように。
 全てを欲し、全てを見つめようとしていたのはいつ頃までだっただろう。

 子供だった。
 何も判らなかった。
 何も知らなかった。
 そしてそれは何も問題ではなかった。

 そして今もまだ、子供でしかない。
 歳を取り、
 ちっぽけな知識と、ちっぽけな枠組みと、ちっぽけな自分を知った。
 ほんの僅かなことだけを上澄みしただけで、昔と殆ど何も変わってはいない。
 少しの無駄なことが減って、少しの余計なことを憶えただけで。

「……」
 暑い――そう言いかけて口を閉ざした。
 口の中の唾液は乾いていて、舌を動かすにも苦労するほどになっていた。
 言ったところで、何も変わることはない。
 僅かに上目遣いで太陽の光の隅を見つめる。
 これだけで、十分だった。

 峠の坂道を下りきり、
 車の通りも増えてきた。

 白いガードレールを境にして、
 歩道が現われた。

 照り続ける太陽の光と、
 足元の黒いアスファルトだけは、変わることはなかったが。

 徐々に街が近づいているのが自分でも分った。
 匂いが代わってきている。
 人の住まう場所独特の、無機物の複合された匂いを感じる。
 人を迎えるでもなく、かといって拒むでもない、世界がそこにある。
 そして自分もその世界でしか生きられない人間だった。

 時間帯のせいか、天気のせいか、季節のせいか外を歩く人は殆どいなかった。
 いたとしても、目に入るほどの存在も無いのだが。
 俺は申し訳程度に設置されている街路樹の根本に腰を下ろし、
 水筒に入っていた生温い水を口に含んだ。
 そして残りの水を頭にかける。

 街に戻れば、水はいくらでも補充が利く。
 無機質の複合体で生産される人間用の水が。
 そう思うと、今まで貴重だった筈の生温い水も、不要物でしかない。

 水筒が空になるまで頭から水を浴びた。
 汗と交じり合いながら顔を雫が流れ落ちる。
 心地良さは感じない。
 ただ、ほんのりと安堵感は感じていた。
 濡れた髪と顔が日差しに照らされ、すぐにも乾いていく実感を味わいながら再び歩く為に立ち上がった。
 足は重いが、気にはならない。
 重くなかったことの方が、ないのだから。

 荷物を背負い直そうとして、そっと肩を指でなぞる。
 一筋の線が肩に出来ていた。
 強く押すと軽い痛みを感じた。
 逆の肩で荷物を背負い、歩き出した。

 歩き続けていくと、自然と足は住宅街に向いていたらしい。
 ガードレールは消失し、道路の両脇は区画された一戸建てが並んでいた。
 視界の先も、今歩いているところと代わりなかった。
 同じ光景が延々と続くだけだった。

 人の多いところに足が向くのは、人の習性なのだろうか。
 それとも、自分だけの習性だろうか。
 今の、自分だけの。

 この清々しいとされる晴天に対して、誰も外に出てはいないようだった。
 気味が悪いほど人の気配を感じない。
 実際はそれぞれの家では人が住み、各々の生活があり、今もベランダに出て洗濯物を干したりしているのだろうが、目に入ることはなかった。
 見えないのではなくて、見ていないから。
 見渡せば一件ぐらい、この天気に布団を干している人影を見ることはできるかも知れない。
 けれど、見る気にはなれなかった。
 横切る人影がないかぎり、ここは誰もいない。
 それで良かった。

 暫く歩いていて、住宅街に囲まれるようにして設えてある公園を見つけると迷わずに向かった。
 特に代わり映えのしない、どこにでもある程度のちっぽけな公園だった。
 ここにも人影はなかった。

 小さな滑り台。
 狭い砂場。
 ボロボロに錆びている二組のシーソー。
 背丈の低い鉄棒。

―――そして、砂場の横に設えられた蛇口。

 躊躇うことなく蛇口を握り締めると、十二分に熱せられた金属の熱さが掴んだ指に広がってくる。
 熱さよりも痛さを感じたが、無視して蛇口を軽く捻った。
 それほど勢いの無い水が、跳ね上がる。
 更に少し捻る。
 水の背丈と勢いが少し伸びる。

 掌を、頭を、髪を、顔全体に水を当てる。
 冷やすというにはあまりにも頼りない水のぬるさも気にはならない。
 熱せられたものが冷めればいい。
 先ほど空にしたばかりの水筒もついでに中をすすぐ。
 街に入った以上、それ程必要なものでもないが、水で丁寧に洗い上げる。

 そして半分だけ木陰になっているベンチを見つけると、腰を下ろした。
 身体は日蔭に、そして洗ったばかりの水筒は日の当たる場所に置いた。
 こうしておけばすぐに乾くだろうと思いながら。
 そして座ると、軽く息を吐いて身体の力を抜いた。

 顔を上げる。
 久しぶりに見上げた空は代わり映えしなかった。
 風が揺れ、雲が流れる。
 が、その風は救いとはならないほど緩やかで、生温かった。

 本当ならばこの街に寄る予定はなかった。
 目指す行き先はまだ遥か先で、ここはその途中ですらない。
 わざわざ寄り道する理由は、無い筈だった。
 そんなことを自覚しながらも、ここに来ていた。
 道に迷ったという訳ではなく、自然と足が向いていた。
 だが、その理由がわからない。
 自分で歩いてきたと言うのに。
 まるで、引き寄せられたかのような錯覚を感じていた。

 本当ならこんなにのんびりしているほど、懐に余裕はない。
 街に出た以上、日銭を稼げる仕事を探すべく、動かなければならないところだ。
 目的も無く回り道をしてしまった以上、尚更だった。
 だが、理由も判らずにこの街に立ち寄ってしまったように、
 理由も無くそんな気分にもなれなかった。

 惰性がついてしまったのか、
 飽きが出てしまったのか、

 わざわざ交通手段に頼ることなく踏破したこの街でしていることは、こうしてだらけているだけということが自分でも信じ難い。
 特に勤勉なわけでも、使命感があるわけでもないけれど、自分で理解できない行動に身を任せていると言うのは初めての経験だった。
 まるで自分以外の意志がそうさせているような、そんな気分だった。

 …どちらにしろ、暑さが凌げる程度になる夕方まではどうしようもないな。

 そう思いながら、木陰のベンチで目を閉じた。
 微かな空腹感は無視を決め込んだ。

 ――課せられた約束。
 ――遠い、昔からの約束。

 人がそれぞれ自分だけの想いがあるように、
 その約束は自分だけのもの。
 例えどうだろうと、課せられているのは自分である以上、何ら代わりはない。

 目的を持って旅に出た。
 目指すものがあって旅に出た。

 こうして目的もなく、
 意味もなく横たわる自分と、
 旅に出た頃の自分はどう違うのだろう。

 大事な約束を胸に抱いた自分と、どう。

 まどろみながら、そんなことを漠然と考えていた。

 ように、思う。

 …しょっと……

「っうわっ!?」
「きゃっ!!」
 突然、頭に何か圧し掛かってきたような感覚。
 いや、一瞬だけ何かが乗っていた。
 柔らかくて、固くて、軽くて、重い何かが。

「な、何だ?」
 当然、さっきまでまどろみは霧散し、閉じていた目を開いて身体を起こした。
 太陽の日差しが目の隅に入って少し痛かった。

「うわぁ、びっくりしたよ」
 目の前に人が立っていた。
 白いワンピースを着て、鍔の大きい帽子を被った女だった。
 視界がようやくなれてきて、相手の顔がはっきりと見え出す。
 二十歳かそこらの女性のようだったが、心なしかそのあどけなさが残る表情はもう少し若く見える。
「こんなところに寝てたの? 御免ね、大丈夫だった?」
「もしかして座ろうとしたのか?」
「うん」
 その女はこちらの皮肉な問い方にもまるで気づいた様子もなく、迷いなく首を縦に振った。
 どうやら俺の顔面を押し潰そうとしたのは彼女のお尻らしい。
「今日は暑いから、日蔭のベンチはここだけなんだよ」
 思い切り歪んだ俺の表情に気づくことなく、彼女はあっけからんとそう続けた。
 温厚な人間でも、苛立ちぐらいはおこる気がする。
「あのな、人が寝ているかどうかぐらい見えなかったのか」
「うーん」
 俺の更なる問いかけに、その女は少しわざとらしく指を顎にあてるようにしてから、
「わたしね、目が見えないから」
 そう言った。
 俺は改めて彼女を見た。
 ちょっと雰囲気的に浮世離れした感があったが、普通の女のように見えた。
 それもその筈、彼女が主張するような障害者の雰囲気がない。
 少し、彼女の言葉に違和感を感じた。
「本当に?」
「うん。そうなんだよ」
「俺にはそんな風には見えないが」
 全身を上から下までゆっくりと見渡す。
 その白い清潔感ある服装が、ちょっと清々しさを感じる。
「それがね、話すと長い話なんだよ」
「座るか?」
「うん」
 彼女は躊躇うことなく俺の横に座りかけるが、弾けるように立ち上がる。
 多分、さっきと同じ様に。
「きゃっ!?」
「へ? あ、悪い」
 彼女の座ろうとした場所には、放置したままの水筒があった。
 すっかり忘れていた。
「置いたままだったのすっかり忘れてた」
 すぐに水筒を取り上げて謝るが、彼女は俺を軽く睨んでいるようだった。
「ううー、騙したんだね」
 彼女なりに。
「いや、そんなつもりはなかったんだ」
「ひどいよ」
「だから悪かったって」
 俺は水筒が完全に乾ききったのを確認してから、その蓋を締めて自分の荷物の横に置いた。
「今度こそ大丈夫だから」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、座るね」
 そう言ってから、改めて彼女は腰を下ろした。
 やっぱりその動作に躊躇いがない。
 俺は座る直前にちょっかいをかけたい子供じみた誘惑にかられたが、止めておいた。
「これでおあいこだね」
「は?」
「さっき、わたしが君の上に乗っかっちゃったから」
「まあな」
 考えてみたらこうして仲良く座る理由はない。
 そして俺はここに固執する理由もないのだ。
 荷物をまとめて立ち去ろうと、手にしていた荷物を膝の上に載せる。
「何だか、重そうだね」
「見えるのか?」
「ううん。でもずっしりと詰まったようなものの感じがしたから」
 この頼りないベンチの上の揺れで、ある程度は予測できる。
 更に彼女は普段から目が見えない分、他の感覚が鋭いのだろう。
「……」
「もしかして旅行でもしているの?」
「少し、な……」
「ふぅん」
 こちらよりも年上な以上、少しは敬語を話した方が良さそうだったが、そんな気にはなれない雰囲気を持っている。
「てっきり鍋や釜でも売っている人かと思ったんだけど」
「違う」
 どうしてそんな考えが浮かぶ。
「訪問販売でそういう人が前、ウチに来たから」
「……」
「そう言えばまだ自己紹介してなかったね。わたしは川名みさき、だよ。君は?」
「国崎往人」
 自己紹介に何の意味があるのか。
 ふと、疑問に思う。
 ここで俺が立ち上がり「じゃあな」と言えばそれだけで終わる関係だと言うのに。
「もう少し、そっちに寄ってもいい?」
「へ? あ、ああ」
 確かに彼女の座る位置だと日差しが身体半分当たってしまう。
 これではわざわざ日蔭のベンチを選んだ意味がない。
「じゃあ、入れ代わろう」
「いいよ。往人君が先にいたんだし」
「いや、俺は長い事座ってたしな。少し位なら日に当たってもいい」
「焼けちゃうよ?」
「もう十分に焼けてる。じゃ、立ってくれる」
「うん」
 そして荷物を抱えた俺と、彼女の座る位置が入れ替わった。
「あ、もう少しこっちに寄っていいよ」
「大丈夫だ。ここでいい」
 それ以上近づくと密着しそうな距離だった。
 彼女はそれを意識してそう言っているのだろうか。

 …立ち去るんじゃなかったのか?

 何かそのきっかけを失ってしまったような気がする。
 取り敢えず持ったままの水筒を入れようと荷物を開けると、何かがポトリと地面に落ちた。
「何か、落ちたみたいだね」
「ああ。人形だ」
 拾い上げながらそう答える。
「人形?」
「いざと言う時の商売道具…のようなものだ」
「お人形さんが?」
「ああ」
 説明するのが面倒くさい。
 さらに詳しく説明できるものでもない。
「ねぇ、触ってもいい?」
「いいけど、別に何もないただの人形だぞ。面白くも何ともない」
 そう言うが、彼女は構うこともなく、俺が手にしていた人形を掴む。
 細くて白い手が、俺の手の上に重なる。
「本当だ。お人形さんだ」
 彼女はぺたぺたと全身を触って確かめている。
 俺は苦笑したまま、今度こそ水筒をしまい込む。
「これをどうするの? 売るの?」
「いや」
 こんな人形を買う奴はいないだろう。
「動かすんだ」
「へぇー、動くんだー 見せて見せて」
「見せてって……」
「駄目?」
「駄目じゃないが……」
 どうせ見えないんだろう――と言うのは避けた。
「ちょっとだけだぞ」
「うん」
 雰囲気だろうか。
 気がついたら俺は彼女の前で大道芸のように、自分の力を使って人形を操っていた。

「うわぁ……本当に動いているんだね」
 彼女にも伝わるように、彼女の腕や膝の上で人形を動かすと、嬉しそうな反応を見せた。
「ああ」
「どういう仕組みなんだろう……?」
「企業秘密だ」
「ふーん。中に何か入っているようにも見えなかったけど……ふしぎだね」
 わざわざ彼女の掌の上に人形を乗せたりしたので、彼女は喜んでいた。
 特に芸をさせるでもなくちょっと動かしただけだったが、それでも彼女は驚いてくれたようだった

「さて……」
 彼女から人形を受け取り荷物の中にしまうと、切り出すには丁度いいタイミングになっていた。
「そろそろ、俺は行くが……」
「あ、そうなんだ」
 立ち上がった気配から感じたらしく、彼女は俺の位置に正確に顔を向けていた。
「ああ。悪いな、何か邪魔しちゃって」
「ううん。わたしも楽しかったよ」
 彼女は俺を見上げたままそう言うと、
「じゃあわたしもそろそろ行こうかな」
 迷いなく立ち上がった。
「もういいのか?」
「ここには特に用があったわけじゃないし、途中まで送っていくよ」
 じゃあ何でわざわざここにと聞きたくなったが、彼女にとってはそんなものなのかも知れないとなぜか納得してしまう。
「途中までって……」
「この公園を出るくらいまでなら、いいよね」
「……あ、ああ」
 断り難い状況になっていた。
「ん……?」
 最初に彼女が目が見えない時に感じた違和感に、ようやく俺は気づいた。
 彼女は何も手にしていないことに。

 白い杖やら、盲導犬を繋ぐロープやら、何にも。
 視覚障害者にしてはあまりに無防備で、堂々としている。
 何にも頼らないで、彼女は立っていた。

「危なくないのか?」
 思わず、口にだしていた。
「え?」
「いや、何も持っていないけど……それで平気なのか?」
「うーん。それじゃあ往人君。手、引いてくれる?」
 そう言うと彼女は手を伸ばして、指先に触れた俺の腕から、探るように掌を探り当てると捕まえるように軽く握り締めた。
「じゃあ、行こうか」
 そう言うと、彼女は俺の手を引いた。
 これではどっちが目が見えないのか判らない。
「あ、おい……本当に大丈夫なのか?」
「うん。このあたりの地形ならバッチリだよ」
「逞しいな」
 何にも頼らず、堂々としている素振りの彼女を見て、俺はそんな感想を漏らす。
 彼女のその迷いのない姿に、ちょっと感心していた。
「そんなことないよ」
 数歩歩いただけで、彼女は立ち止まっていた。
「わたしね。ずっと怖かったんだよ。ずっとね」
 くるりと振り返ってこちらを見る。
 見えていないのだろうが。

「自分の居場所がずっと限られていたように思って、外に出るのが怖くて……学校と家の往復ぐらいしか歩く事が出来なかったんだよ」
 笑顔で話す彼女に、言葉で言うほどの悲壮感は伝わってこなかった。
 けれども、彼女の言葉を信じられる気がした。
「ずっとそんなんじゃいけないと思ったり、学校の中だけじゃなくてもっともっと好きな人と色々な場所に行ってみたいと思ったりしたけど、ずっと怖くて……私には出来ないって思い込んでいたんだ」
 そう言って彼女は空を見上げる仕種をした。
 まだ、陽は高く、日差しは強いままだった。
「でもね。出来ないことは出来ないって諦めきっていたのを、変えてくれた人がいたから。手を引いてくれる人が私にはいっぱいいたから」
 再び、こちらを見て笑う。
「だから今は殆ど毎日、外を歩いているんだよ」
 言葉ではあっさりとしていた。
 ひどく簡単に聞こえる。
 今まで引きこもっていた分を取り戻したいしね、と付け加えて彼女は言うが、その言葉の中にはどれほど苦しんだとか、どれほど悩んだとか、どれだけのことが彼女にあったのかが判らなかった。
 気負いも無く、普通に笑いながら喋れるだけの重さだけが、俺の判断材料だった。

 さっきまでの自分が、みすぼらしく感じた。
 ひどく、格好悪かった。

「……ぶつかったりするんじゃないか?」
 沈黙が恥ずかしくて、適当に言葉を繋いだ。
「そんなのしょっちゅうだよ。良くつまずいて転んだりもしたし。雪ちゃんに見つかると怒られたりもしたしね」
「そりゃ、そうだろう」
 どう見ても目が見えない人には見えない。
 目印が有るわけでもないし、これでは道行く人に気づかせるのも至難の業だ。
「わたし、身体は丈夫だから大丈夫なんだよ」
「でも、本当に危ないと思うぞ」
 トラブルに巻き込まれたりしていないのか心配になる。
 それとも既に近所では皆、彼女のことを知っているのかも知れない。
「うん。だから初めての場所や、遠くに行く時は杖を使ったりもするよ。よく途中で忘れてきたりして怒られるけど」

 やっぱり逞しいと思うのだが、ニッコリと微笑む彼女にそう言う気はなかった。

「あ、えへへ……何か引き止めちゃったね」
「いいや、そんな事はない」
 彼女の目が見えないことに不謹慎ながら感謝した。
 赤面している顔を見せたくない。
 恥ずかしさと、照れくささが同居した顔を。
「私、喋るのが大好きなんだ。食べるのはもっと好きだけどね。それで雪ちゃんにもよく呆れられちゃうけど」
「……えーと、何て言ったっけ?」
 俺は一度聞き流してしまったことを聞き返していた。
 一度は意味が無いことだと思っていたことだ。
「雪ちゃん? ええとね、私の友達で……」
「いや、オマエの、名前……」
 ちょっと悪い気がしたが、覚えないままでいる方が後悔する気がしていた。
「みさき、だよ」
「……すまんな。人の名前を覚えるのが苦手なんだ。今度はもう、憶えたから」
 嘘じゃない。
 忘れるつもりはない。

 そして俺は彼女と公園の入り口で別れた。
 服装の通り、これからデートがあるらしい。
 一時間も前に家を出てしまったのだそうだ。

「また、いつか会おうね。今度は浩平君も紹介するから」

 最後の方はともかく……

 …それはこっちの科白だ。

「ありがとな」

 彼女に聞こえたか判らない距離でそう呟き、荷物を背負い直して歩き出した。
 俺の旅はまだまだ、これからだったから。

「頑張れー」


 手を大きく振っている彼女の励ましを背に受けながら、俺は改めて歩み始めた。

 前を向いたまま。



                                  <完>