『或る晴れた冬の日』


1998/12/06


「お兄ちゃん、ただいま」
「あ、乃絵美……デリバリー、ご苦労様」


 ドアに付いた鈴が鳴り、いつもの服装が入ってくる。
 白いエプロンをつけた洋館のメイドっぽい服装。
 この店の昔からの制服だ。


 正樹の言葉に客がいないことを察し、更にそれを確認するように軽く店内を見回し
てから、乃絵美もようやく口を開く。
「御免ね、遅くなっちゃって……そのまま、お買い物して来ちゃった」
 カウンターから身を乗り出すようにして正樹が見ると、乃絵美の両手に商店街のビ
ニール袋が下がっていた。


 あの初夏の日の騒動、ずっと別れていた幼なじみが帰ってきて、また旅立ってしま
うまでの短い期間、その間に起こった細かい出来事の積み重ねで「騒動」と呼んでも
差し支えなさそうだった間に、正樹はずっと彼を見守り続け、支え続けてきたもう一
人の幼なじみの菜織と付き合い出していた。
 そして乃絵美はずっと彼女の中で燻っていた思いの内の一つを静かに、彼女らしく
断ち切っていた。
 そんなあの頃の日々から夏が来て、秋を感じさせる暇もなく、冬が到来してきてい
た。


「随分買い込んだな……重かっただろう」
 正樹はすぐにカウンターの脇から出てきて、乃絵美の両手から食料品の詰まった袋
を受け取り、そのまま店の奥の大型冷蔵庫へと買い込んできたものを手慣れた手つき
で入れていく。
「佐高さんに大分、おまけして貰っちゃった」
 佐高さんは近所の八百屋さんだ。
「最近、野菜が高くなってきたから……悪いなぁ……」
「うん。私も悪いと思って言ったんだけど……」
「やっぱり……いつも頑張ってる乃絵美だからかな」
「そんな……」
 正樹の物言いに、困ったように乃絵美が手を口元に当てる。
「ホント、乃絵美は俺には勿体ないぐらいの妹だよ」
 そう言って、ポンと困った顔を続ける乃絵美の頭に手を乗せる。
「乃絵美はただ……お兄ちゃんに相応しい妹になりたいって思って来ただけだから…
…だから頑張ってきたとか、勿体ないだなんて……そんなこと、ないよ」
 困った顔から照れた顔へと自然に移行して、乃絵美はすぐ目の前にいる正樹を上目
使いに見つめる。
 そんな乃絵美を正樹は優しい目で見つめかえす。
「……ありがとう、嬉しいよ」
「ううん、お兄ちゃん……私こそ、嬉しい」
 頭に乗せた手で、正樹にそのまま撫でられ、乃絵美は頬をほんのりと染める。


 しばらくそうして正樹に撫でられたまま、頬を赤くして見つめていた乃絵美だった
が、不意に何かを思いついたように顔を上げたかと思うと、その乃絵美の動きに釣ら
れて腰を浮かせるような体勢になった正樹の身体にギュっと抱きついた。
「あ、えっ……」
 その突然の行動に、正樹は不意を付かれたような声を漏らす。
 乃絵美はふかふかの縫いぐるみを抱きしめるみたいに、正樹の身体に腕を回して、
その胸に頭を埋める。


「こうしてお兄ちゃんの胸に抱かれてるのも……あと何回ぐらい、出来るかな?」
 目を瞑ったまま、そう乃絵美が漏らすように言う。
「馬鹿だな……コレくらい……」
「だめだよ。菜織ちゃんに怒られちゃう」
 その言葉を遮るように正樹が言うが、頭を埋めてまま動かない。
「あいつはそんなヤツじゃないって、乃絵美だって、知ってるだろ?」
「でも、駄目だよ……いつまでも、甘えてちゃ……駄目なんだ」
 そうまるで自分に言い聞かせるように乃絵美は呟くと、そっと正樹から身体を離し
た。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
 そしてから改めて呼び掛けてくる乃絵美に、正樹はちょっと照れくさそうな顔を向
ける。
「私ね……やっぱり、お兄ちゃんが好き。今までで、一番……」
「…………」
「だから今日……卒業、するね」


 その乃絵美の微笑みは、今までで一番美しいように正樹には感じた。


・
・
・


 放課後の陸上部の練習も終え、正樹は制服に着替えてから教室に鞄を取りに戻った
時、冴子に出くわす。


「あ、冴子……」
「ん……何だ、正樹か」
「え、誰だと思ったんだ?」
 驚いたような顔をして正樹を見た冴子に、正樹も不思議そうな顔をする。
「いや、悪い……あいつに呼ばれてたから……じゃな」
「?」
 不思議そうに、早足で教室を出ていく冴子を見送っていた正樹の背後に美亜子が出
現する。
「あれれ〜、知らなかったの?」
「え、あ、ミャーコちゃん、何が?」
「冴子に彼氏出来たこと」
「え、マジ!? 冴子に!?」
 その正樹の反応に、不思議そうに美亜子が首を傾げる。
「何だ、乃絵美ちゃんから聞いてないの?」
「いや……初耳だけど」
 そして正樹は軽く美亜子から冴子の経緯を聞く。
「ふぅん……あの頃にかぁ……みんな、色々あったよね」
 真奈美がこっちへ来ていた間、代わっていったのは正樹達だけではなかったらしい。
「真奈美ちゃん、元気にやってるかな?」
「多分……ね……」
 正樹は幾分の思いを凝縮するようにそんな一言を漏らす。


 …そう言えば、真奈美の事を忘れることも多くなってきている。
 …その背中だけを追いかけてきた思いが、今の自分を形作ってきたはずなのに。


 そんな真奈美と再会して、彼女への思いにケリをつけてしまった。
 自分に告白してくれた、子供の頃、自分の抱えていた思いと同じ思いだった真奈美
は今、どうしているだろうか。
 真奈美だけじゃない。
 真奈美と同時期に、転校してきたあのチャムナという不思議な魅力を持ち、いつの
間にか姿を消した少女はどうしただろう。
 ミャンマー展で出会い、奇抜で面白いながら真面目で容赦のなかったみちる先生も
今、どうしているだろう。

 正樹はいつもの帰り道を歩きながら、昨日の事と照らし合わせるように考える。


 …俺は、変わっていった。


 正樹はそう、思う。
 ずっと見守ってくれた、菜織と共に。

 冴子もあの頃から変わってきたらしい。
 美亜子だって、どこか大人びた表情を時折、見せることも出てきた。
 変わらない人間はいない。
 そう、乃絵美だって、失恋して、変わっていく。


 大好きだといってくれた彼女が、
 人に優しすぎる彼女が言った決断。


 寂しいと感じてた。
 いつまでも、変わらないで欲しいと思ってた。


 乃絵美だけじゃなくて、自分自身がそれに甘えてた。


 それに気付かされたということ。


 …知っていたけども、口に出さない限り、勇気を出さない限り……。


 そこまで考えて正樹は苦笑する。
 まだまだ、妹が必要なのは、自分のような気がしたからだ。
 彼女が、本当に自分を必要としなくなる日までには、何とかしなくてはいけない。


 そこまで考えた時、次第に自分の家が目に入ってくるのに気付く。
 早足に近づき、見馴れたドアを手で軽く押す。

 ドアに付いた鈴が鳴る。


「ただいま」
「あ、お帰り、お兄ちゃん」


 そんな乃絵美の笑顔に、正樹は


 …かなわないな……。


 正直、思っていた。


                          <完>


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