Cross road.
〜違った物語〜

 わたしはいつも手帳を持っています。
 肌身離さず持っています。

『愛しい愛しい桜井舞人さん』

 そう表紙に書かれた小さなメモ帳です。

 メモには沢山の桜井舞人さんのことが書いてあります。
 性格、趣味、言動、食べ物の好みから好きな女性のヘアースタイルまで。
 癒しを求めているとかキングオブ孤独とかのメモの頁に、アメリカンジョークのよ
うなものが幾つか書いてある頁もあれば、時折見せる寂しげな目を見ているのが辛い
と私の心情を吐露している頁が次に出てきたりして、全然一貫性がありません。
 ただただ桜井舞人さんに関することだけ、どんな些細なことでも、どんなつまらな
いことでもびっちりといっぱい書いてあります。
 そして舞人さんと出会うたびに気づいたこと、思ったこと、感じたこと。そして一
緒に話したこと、やったこと、起きた出来事。どんなにつまらないものでも、どんな
にささやかなものでも、気がつく限り書き綴ってありました。

 私は自分でこれを読み返すたびに、この人のことを好きなんだなって思えるんです。
 桜井舞人さん。
 わたしは、この人を好きだったみたいです。

 そして手帳は一頁だけ破かれていて、それから内容が一変しました。
 それまでが舞人さんの観察日記、データベースだとするならばそこからはわたしへ
の伝言。
 手帳の中の芹沢かぐらから、こうして手帳を読み返している芹沢かぐらへのメッセ
ージが書かれていました。

 初めは漠然と不安を訴えかけるような、そんな書き方でした。
 ですが、次第に不安が深まってきていて、余裕が無い書き方になってきていました。
 そして、わたしが初めて舞人さんに出会った時のことが書かれていました。小犬が
車に轢かれたのを見て泣いていたこと。そのわたしに声をかけてきてくれたこと。言
ってくれたこと。約束したこと。まるで自分の記憶を手帳の中に写しておくような、
その位綿密に書かれていました。
 そして次は再会した時のことが書かれていました。
 数年ぶりに会ったその人がわたしの親友のアパートの隣に住んでいることを知り、
胸が痛くなるぐらいに嬉しかったこと。その晩はずっと興奮してしまって寝付けなか
ったこと。一つ一つ自分の身におきたことまで書かれていました。
 そして舞人さんをより深く知るために、もっと近づくために手帳を書き始めて、二
冊目、三冊目と増えていったことやそんな前の手帳の保管場所についても記してあり
ました。記した場所を覗いてみると、初めて手帳を書いた頃のものから全部、丁寧に
保管してありました。それだけ、わたしにとっては大切なものだと教えてくれていま
す。
 不安への心情吐露から思い出の記録を綴り終わるとまた、内容が一変しています。
手帳を読む今のわたしに対して、これを書く必要を感じたわたしからの説明です。
 わたしが大切なことを忘れてしまった時、理解ができなくなってしまった時、そん
な時の為に書いたということが書かれていました。
 まるで記憶障害の人のような症状で、信じ難い話でしたが、この大切な気持ちが、
思い出が、全て溶けていくような消えていくような失っていくような、そんな不安が
付きまとうようになってきているということ。
 桜井舞人さん自身が、それについて何か感じ取っているらしいという話も添えなが
ら、自分に訴えかけてありました。
 たとえ自分に何かあって忘れてしまっても、身に覚えが無くても、理解不能でもい
いから、これを読んで欲しいと。
 この芹沢かぐらを信じて欲しいと。
 この感情を、この想いを、信じて欲しいとくどいぐらいに必死に書かれてありまし
た。
 書いていたわたしは泣いていたようで、涙の跡なのかノートの紙が所々ふやけて膨
らんで、文字も滲んでいました。
 まるで狂気に犯されたかのように、必死なのが読んでいて伝わりました。


『わたしは、舞人さんを愛している!』


 開いた頁いっぱいにそう強く殴り書かれたのを最後に、そのメモ帳は終わっていま
した。


・
・
・


「さて、今日も寄り道せずに真っ直ぐに家に帰って、いっちょ学を修めるとするとし
ますか。ただでさえ容姿端麗、頭脳明晰、運動神経も抜群のこの僕の人知れぬ努力が
ますます周囲との差をつけていくんだよな。やれやれ、スーパースターも楽じゃない
ですよ」

 ホームルームが終わったことに気づいたので、周囲に向けて殊更大袈裟に高らかに
宣言してしてみたが、どうも終わったのは結構前らしく、この輝ける若人の声は喧騒
にかき消されてしまった。ちぇ。
 仕方がないので、鞄に机の中に入っていた教科書とノートを詰めていく。今までは
テスト前でしかそんなことはしなかったというのに、我ながら大した進歩だ。
 いや、元々俺様は全国やれば出来る子選手権万年シード選手であるからして、学業
勉学ライフに満ちた学園とさくら荘の往復も様になっているというものだ。ただ、忘
れないように明日授業がある科目の教科書だけは、そのまま机の中に置いておくのは
愛嬌の範囲だが。
「あ、いや……そのことだけで引くのはちょっと待ってくれたまえ」
 冗談はともかく、夏休みの補習がきっかけなのだろうが、今までよりは多少は勉学
に励み、学業に勤しんできているように思える。無論、自発的に予習復習をこなし、
ノートもきちんと取り、わからないところは休み時間を利用して教師に質問をすると
いう絵に書いたような優等生ライフまではしていないが、教科書は机の中にあれば開
くし、授業は多少でも判りそうなら耳に入れるし、ノートも愉快痛快連載小説を書く
ことをやめるようになってきている。大きな進歩だ。
 いや、ゼロより進めばそれがどんなに値が小さくともゼロではない。それにいきな
り人は変われるものではないのだから、まずは大いなる桜井舞人お受験エリートコー
スへの道の輝かしい第一歩となることであろう。

 ……なるといいなぁ。

 気強くなったり気弱くなったりもしつつも、家でも漫画を開く回数の数十分の一は
教科書を開くようなこともあるのだから、これは少しは誇っていいだろう。その割に
宿題を遣り遂げられることはまだ殆ど無いのが玉に瑕だが。その辺はご愛嬌というこ
とでTVの前のチビッコ達にも許してもらおう。
 入学前に辛うじて忘れかけたままで済んでいた基礎部分を、講習期間中にやり直し
たのが効を奏したらしい。
 急がば回れ。兵は神速を貴ぶ。隗より始めよ。
 みんなトイレに貼ってあった一日格言カレンダーのお陰だ。隗より始めよが急がば
回れと似て異なる格言だと言うことを知る者はあの学園でもそうはいないだろう。フ
フフ、来るべき将来の受験戦争一歩リード。この言葉の真の意味を知ったときはもう
遅い。大きく挽回のしようがない差がついてしまっているに違いない。
 と、こんな風に必ずボケないと話が続けられない自分の性格はチャームポイントと
すればもうこれでウッハウハだね。来年の夏には受験で苦しむ山彦を余所にメガネの
ずれを中指で直しながら「こんな問題も解けないのですか、相楽君は。女の子とばか
り遊んでいるからこうなるんですよ」とか言っちゃうわけですよ。あの吊り目八重樫
にも「キーッ、桜井ハンサム様にまたテストの点で負けたー。悔しー」とか言われた
り……はなさそうだな。
 ま、まあ、そんな明るい未来に向かって今日も勉学に励むことにしよう。
 この一日30分のレッスンでみるみるうちに出来る君になるこの恐るべき野望に誰
も気づかないのが残念だが、気づいたときはもう遅いのさ。ははん♪

 ……誰か構ってくれよぅ。

「………」
「何だそこの吊り目風観衆その1。言いたいことがあるなら……て、おい! 無言で
立ち去っていくな!」
「おい、舞人」
「何だね、ドスケベ大臣慕情編」
「えーとその、なんだ。まあ俺はお前がどんな趣味を持とうとも止める術はないが、
犯罪だけは止めて置けよ」
 肩を叩きながらも視線は妙に真剣だ。
「な、な、何を言うんですか、この下半身の如意スティックが。この現代紳士を捕ま
えてこともあろうに……」
「いや、その面は犯罪的だぞ」
「はっ。わからない奴はこれだから困る。今日も明日も明後日もこの未来永劫光り輝
く場所を歩き続けることを約束されたこの俺様の神々しい尊顔は貴様のような年中発
情先祖還りにはわかるまいが……」
「で、さっきの八重樫さんの前に星崎さんも既に逃げるように出て行って、もう俺た
ち以外教室には誰もいなくなったわけだが、どうする? 一緒に帰るか?」
「お供させてください」
 周りとのコミュニケーションを取る為には神はいらない。聊かの妥協と愛嬌のある
駄天使こそが生きるべき道なのかも知れない。また一つ悟りを開くことで仏陀もまた、
人を超越していったのだ。ここは一つ先人を見習うことにしよう。
「今日の帰り、どっか寄ってくか?」
 俺は故あって仮面帰宅部だから、部活動に励む他の人からすれば時間が有用に使え
るわけだが、今まではどこかその時間を持て余していたところがあった。だがそんな
自堕落な道ともとっくにお別れさ。既に将来天才紳士録に新たに刻まれたこの我が名
に賭けて、胸を張ってこう言おう。
「君もわからない奴だな、山彦君。この俺はもう昨日までの遊び人舞人さんじゃない
のだよ。苛烈な世界情勢を又にかける学業の恋人、桜井舞人様だ。今日も日課の真っ
直ぐ家に戻って勉学三昧に決まっているじゃないか」
「一昨日は、バッティングセンター行ったじゃないか?」
「そ、それはたまには戦士も休息が必要だと思ったからこそ、しかたなく付き合って
あげたのだよ。内心では渋々さ。ああ、渋々だとも!」
「でも昨日は本屋で立ち読みしていたのを見たぞ?」
「あ、あれはたまには庶民の娯楽鑑賞に興味を示すことで親しみあるキャラを演出し
つつ、なおかつ円満な社会環境に一役買おうと」
 全く、下種の勘繰りばかりで失礼しちゃうわ。プンプン。
「ああ、わかったわかった。で、どうするんだ?」
 俺の抗議を手で払うようにして、山彦がもう一度聞いてくる。

 さて、どうしたものか。

「うーん……やっぱ今日は帰ることにするわ」
 財布の中身が乏しいという事情もあるのだが、今日はちょっと勉強しておいた方が
良いような気がして、そんな返事になった。
 俺の言い方に覇気がなかったのか、山彦は少し心配そうな顔をして、
「舞人。確かにお前の学力は相当やばいみたいだが、あんまり無理はするなよ」
 全く言ってくれる。この男はどこか気を回し過ぎるところがある。
 さっきまで人を揶揄していたその口でそんなことを言うか。
 あ、揶揄していたのは俺の方か。

「ぷじゃけるな。年中常夏桃色パラダイスで埋め尽くされて四字熟語も英単語も入る
余地は無いお前の頭と一緒にするなよ。この俺ががり勉一直線というこれからの国を
担う才子溢れる学士にふさわしき行いとするのは社会の義務ではないか。ああ、俺も
モテ顔にモテトークぶら下げて、年中ヘラヘラ笑って女の尻を追い掛け回したいなぁ」
「からむなからむな。ああ、わかったって」
「さらば! 心の友のノートを写すだけの日々よ! そして来たれ! 新たなる無償
提供してくれる友のノートよ! むしろノートのみ!」
「それ、もっと駄目じゃないのか?」
 やや冷やかげな山彦の視線だったがそれでも良かった。素面で真面目にやるという
ことを言う恥ずかしさに比べれば。
 学生の本分たる勉学に勤しむというのもなかなかどうしてどうして楽ではない。

「そうだな。今度、お前の成績が上がったらお祝いに打ち上げでもしようぜ」
「ははは。それでは銀座のいつもの店にしよう。ママさんにも宜しく伝えてくれ。今
日のお客さんは儂の大事な取引先の人だからな、くれぐれも粗相のないように」
「まあ、場所は八重樫さんの気分次第になるだろうけどな」
「聞けよ。というかちょいと待ちなさい、相良さん。この私、この私こと桜井舞人様
の偉業を愚民が褒め称える盛大なるイベントになるわけですよ。それを一つり目如き
の気紛れによって左右されてどうするんですか。下手に狭い会場になってしまっては
殺到する紳士淑女の一部が入りきれずに涙と怒号が飛び交ってダフ屋も群がって社会
問題にまで発展してしまうじゃないですか」
「はいはい。まあ、それは別としていつもの面子以外にもうちょっと増やそうか?」
「はあ?」
「俺の知り合いとか女の子とか呼んで……」
「却下だ。却下。選ばれし神の子には選ばれし民が従うというのは聖書よりも古く石
版の時代から決められた……」
「やれやれ。やっぱりな」
 向こうは最初からその気も無かったくせにわざとらしく水を向け、こっちもわかっ
ていても頭からわざわざ否定してしまう。向こうの思惑通りに。
 自分の情熱は既に枯れ果てているくせに、人の恋愛には熱心に世話を焼きたがるお
節介な性格。青春映画では重要な役どころだが、決して主役にはなれないだろうその
役回りを哀れむと共に、人を主役に仕立て上げようとするその姿勢に対しては防衛ラ
インを引いとかねばなるまい。
「だからお前は不健全だって言うんだよ」
 もうこれだけ聞き続ければ口癖にも思えてくる言葉を締めくくりにして話題を打ち
切り、俺たちはそれぞれ帰路についた。
 実を言えば、昔ほどは皆と騒ぐのにも抵抗はない。いつもの面々となら、いいだろ
うと思えるゆとりはいつの間にか出来上がっていた。

「無論、その時はあいつのおごりだがな」

 すねかじりであるなら、徹底的に誰彼構わず巨木を倒すぐらいの勢いで徹底的に脛
を齧らなければこの厳しい世の中、生き抜いていけないのだ。



 山彦と別れた俺はアパートに帰ることも繁華街に出ることも選ばずに、ぶらぶらと
目的も決めずに歩いていた。
 胸のどこかがむず痒く、落ち着かない気持ちになっていたからだった。
「何です! 思春期のお子様みたいなその落ち着かない態度は! もう舞人ちゃんは
受験生なんですよ。じゅーけーんーせーい! そんな風邪の初期症状のようなものは
ポイしちゃいなさい! ポイッ!」
 何故か、通行人が俺を避けだした。失敬な。

「うーん……」
 背伸びをしながらも、歩みを止めない。
 頭にはここではない小高い丘の上の光景を思い出していた。
 その場所が何処にあるのかは知っている。
 何度か言ったことがあるのもわかっている。
 けど、

「こんなに執着するような思い出も無いはずなんだがなぁ」

 風変わりな少女と会ったから印象に残っているのだろうか。
 いやいや変わった少女なら、とある少年を中心にそれこそもう雲霞の如く幾多数多
で選り取りみどりな程に見知っている。
「……」
 だけど、彼女だけは違っていた。
 どこか遠い昔、遥か彼方に出会っているような、知っているような、いやもっと近
くにあったような存在……。

「ううむ……」
 何かが頭の奥で霧散する。
 その考え事をすることを禁じるかのように。
 何かが切り捨てられ、離される。
 しかし決してなくなる事の無い何か。
 頭の奥に、記憶の片隅に忘れられながら、そこにあり続ける。
 いつも捨てられて、手放してばかりだったその何かを欲して手を伸ばす。
 それをしてはいけない。
 そう禁じる声がする。
 だが、わからないのではなく思い出すたびに忘れさせられるということが嫌で、無
視をする。
 哀しんでいるような、諦めてしまっているような、そして少し怒っているような声。
 それは、あの彼女の声の気がした。

 あの場所で、あの丘で、あの樹の下で……
 いつも上から見ていたあの女の人が笑っていたあの場所で。
 ぼくは彼女と一緒にその女の人を……

 消え入りそうな声が、ぼくの考えに割って入るようにして遮る。
 そう、思い出してはいけない。
 思い出したら、もっと哀しくなる。
 もっと辛くなる。
 きっとみんなみんな思い出してしまうから。
 たくさん傷ついてたくさん苦しんでたくさん裏切られてきたことを思い出してしま
うから。
 だから忘れているほうがいい。
 甘い誘惑というよりも、彼女の心からの願い。
 優しさと、諦め。

 ぼくは彼女を捨てたも同然なのに、彼女はまだぼくを……

 ぼくは彼女に言ったから。約束したから。
 ぼくが忘れてしまったその約束は、彼女にとっては信じられないものなのだろう。
 彼女はぼくと共にいないから。
 けれども、ぼくが信じているからこそ、彼女はぼくを見続けていてくれるのだろう。
 今のぼくが彼女に出会うことがまだ出来るのだから。

――どうして人間は、同じ過ちを繰り返すのですか?

 決まっている。
 その人にとってそれは過ちなどではないからだ。
 無駄な努力、愚行だと言われればそうなのかもしれない。
 だからこそ、ぼくは続けていく。
 何度でも。
 何度でも。

 だから、


 いつの間にかここにきていた。


 肌寒い二月の風に吹かれた旧国道。
 人影もまばらで、通っている車両もそう多くない繁華街から遠く離れた場所だった。
 それでも街から外に出るには電車と共に欠かせない交通手段であるバスの停留所が
あることもあって、廃れることはない不思議な場所だった。
 右手には車道、左手には切り立った山の斜面が覗いている。

 去年の8月30日。
 毎年八月の最後の週に行なわれる桜坂花火大会を寝過ごしてがきっかけだった。
 あの日、花火会場への通り道としてここを歩いていた時に、俺は彼女に出会ったの
だ。
 特別でもなんでもない、何か目印があるわけでもない中途半端な道の途中。
 それなのに俺はここがそうだと確信していた。
 脚が止まっていた。
 あの日と同じように。
 あの時の同じように。


・
・
・


「やっぱり、ストレスためてしまうと大変ですもんね」
「…………」
 花火大会を寝過ごして出遅れた挙句、未練がましく出歩いた後、憂さ晴らしに山彦
の携帯に嫌がらせメールを打ち終わったと同時にかぐらちゃんが背中から声をかけて
きた。
「……えっと……かぐらちゃん……いつの間に?」
「はい。芹沢かぐら、いつでもどこでもここにありです♪」
 答えになっていない。かぐらちゃんは時たまこうして俺の背後を断りもなく取って
いる。全く油断ならない。俺が眉毛の濃い無口のスナイパーならもう彼女は幾度も死
んでいる。フッ、君は今日も辛うじて俺と言う男の優しさと平和ボケしたこの国のお
陰で生きられているんだよ。無論、背後に張り付かれても気づかないでいる俺につい
ても気づかないふりさ。
「さっきまで青葉ちゃんも一緒だったんですよ。丁度今別れちゃいましたけど」
 それだったら出会っていても良いものだがと思ったが今、俺がいる場所は花火大会
の会場とアパートへの道を往復するには脇に逸れているということに改めて気づいた。
 しかし何故、こんな場所に。
 俺は彼女ではなく、自分の足取りに疑問をもつ。どこかに寄り道をしたという意識
はなかったのだが。
 さてはこれが噂の夢遊病? ひょっとして俺ってば夢見る少年?


 ……ううん、寝起きのせいか、ちょっと調子が出ないな。


 自分でも頭の回転と歯切れの悪さに内心で苦笑する。原因が寝起きのせいでないこ
ともわざと考えずにおいた。
 しかし、寝ていた時に見た夢はこの辺の景色だったような気もしたので、あながち
間違いでもないかもしれない。いや、本当に。

「舞人さんも花火帰りですか?」
 そううだうだと考えていると、かぐらちゃんが更に問いかけてくる。
「いやあ、実はこれから行くところ」
 本当だろうか。いや、本当に行くのか、俺?
「あ、分かります分かります。あの『兵どもが夢のあと』な雰囲気がいいんですよね」
 俺のいい加減な言葉にも素直に反応してくれている。どうも青葉ちゃんにしろ彼女
にしろ、年少組は俺の言葉を素直に受け取ってくれ過ぎる傾向が有る。
「そうそう。なんていうか、おこぼれ? どうせ誰もいないんだろうけど、行ってお
けば怒りのぶつけどころくらいありそうじゃない」
 いつも通りの軽口の応酬。
「ですよね。閑散とした空気の中にある、お祭りの名残。広がる寂しさと、その寂し
さの向こうにある楽しかった思い出」
「この日ばかりは財布の中身も気にせず使ってしまうセイレーンの歌声もびっくりな
甘い囁きもないし、たまたま出会ってお好み焼きをおごらせるような友人もいないし」
 たったこれだけのことで日常に戻ってくれた、そんな実感がする。
「なんていうか、知り合いに会ってしまう事すらもったいなく感じてしまうんですよ
ね。あ、ごめんなさい、私と会っちゃいました」
「いやあ、なんか知り合いに会ったら指を指されて笑われそうな後ろめたさがまた悔
しさを募らせるんだよね」
 つきあいの良い彼女にフェニミストである俺はそう優しくフォローを入れる。とこ
ろで、フェニミストって具体的にどんな人なんだろ。ファシストのはとこみたいなも
のだろうか。どちらにしろ嘘臭いサワヤカ笑顔さんであることは一緒だからあんまり
違いはないのだろう。
「過ぎ去る思い出の場所で、友人との出会いから色々な想いを募らせる。たまらなく
素敵です」
 なんとなく互いの言葉が噛み合いきってない気もするが、まあそれは気のせいだろ
う。

 実を言えば半分も聞いていない。
 いつも通りの自分を演じながら、どこかいつもの自分からかけ離れていく自分に気
づいている。
 いや、いつもの自分ではなく、本当の自分に戻っていくような。
 本当の自分?

 何を言っているんですか、このオマセさんは。
 はっ!?
 もしかしたらこの俺様は今日と言う日をきっかけに一大変貌を遂げるのではないだ
ろうか。
 丸出○め夫君よ、さようなら。○来杉君、こんにちわ。
 今日から俺は美男子シティの秀才番地に引っ越します。
 ありがとうみんな。
 ありがとうありがとう君たち。


 桜井舞人大先生の次回作にご期待ください。

                レジェンドオブ桜井舞人 第一部  〜完〜


「わ、何もかにも中途半端!?」
「はい?」
「あ、いや、コホン」
 痛みを知らない子供や心をなくした大人が嫌いだった、それはそれは心が優しい漫
画家さんを重ね合わせて動揺する俺にかぐらちゃんは不思議そうな顔をする。
 いかん。このままでは俺様の権威にかかわるので顔を引き締め、クールビューティ
ーを演じながら爽やかに話題を変える。

「かぐらちゃんはこれから帰るんだ」

 めっちゃ普通やん。

「は、はい……あ、でも、舞人さんはこれから会場に行くんですよね」
 そう言えばそう言ったような。相変わらず考えなしだな、俺。
「そ、その! も、もしよければ私もご一緒していいですか!!」
 何故?
「それは全然構わないけど、かぐらちゃんは大丈夫なのかな? かなり遅い時間だよ」
「大丈夫です! 私女の子っぽくないですし、それに……その、舞人さんと一緒です
から」
 かぐらちゃんは緊張しているのか紅潮しているのか、それともやっぱりいつも通り
なのか反射的に答える。
「いざとなっちゃら頼っちゃいます」
 何か猫耳が出ているがまあいい。
「おお、いいねえ。か弱き少女に頼られる一人のナイト。桜井舞人伝説に加えるにふ
さわしい火照ったシチュエーションじゃないか」
 会場までは行く気はなかったのだがこうなれば、とことん行こうじゃないか。
「よし、ならば行こうか姫よ。静寂という名の悔恨と、敗北という名の屈辱を越えて
悠久の大地を蹂躙するのだ」
「はい、勇者様!」
 いつでも笑顔が眩しい我が姫の元気の良い返事。
 今の自分の中を巣食っているもやもやを吹き飛ばしてくれるような、そんな気分に
させてくれる。
「静かで誰も残ってくれたりしない、そんな暗くてだだっ広い会場を闊歩しましょう
!」
 そう、誰もいない。
 誰も、俺のことを覚えていてくれない。
 いっぱいいろいろなものが、人が、ひしめきあうようにしていた筈の場所が、何も
なくなっている。何もなかったようになっている。
 いや、何も無ければ見つけるまで。花火大会が終わった跡地で、出遅れたという事
実を、この目でこれ以上ないぐらいに満喫しよう。
 我々の戦いは今、始まったのだ。

 かくて、我らパーティーは、新たなるクエストを求めて冒険の旅に出た。


 そこにはきっと……何もない。


 そして予想したとおり、本当に何もなかった。
 会場につくまで馬鹿みたいに二人して高め続けていたテンションも、向こうについ
てからは落ちていて、こうして二回目の帰り道の途中にまで差し掛かるともうただ黙
って二人で歩くだけになっていた。
「あの、舞人さん」
 というよりも、二人して頭の隅にある何かを追い払うかのように誤魔化しながらの
テンションだっただけに、無理が続かなくなったというのが正しいのかもしれない。
「……ちょっとだけお話、いいですか?」
 帰り道の旧国道を歩いてどれぐらいしただろうか、無言だった俺たちの静寂はかぐ
らちゃんのその一言で破られた。特に気まずかったわけでも、話しかけづらかったわ
けでもない。勿論、互いに無言でいることが一番相応しいとかあるべき姿だとか、こ
うして雰囲気を味わっていただとかではなく、何故だかそうするしかないという状態
だったので、俺は一度頷いてから、
「……ああ」
 と、返事をした。
 俺の返事を受けてから、かぐらちゃんは一度真っ暗な空へと顔を向け、静かに口を
開いた。
「真っ暗ですね」
「……そうだな。星ひとつ見当たらない」
 彼女に倣って夜空を見上げるが、全く見当たらなかった。
 月も見えない。
 闇夜らしかった。
「そして、凄く静かです」
「ああ」
 丘に繋がる岸壁の方からは虫の鳴き声と、時たま忘れた頃に通り過ぎていく車の騒
音が耳に入るが、静かという表現がぴったりだと思った。
「あの、舞人さん」

 それなのに。


「舞人さんは、――なんですか?」


 かぐらちゃんの言葉はノイズとなって、俺の耳を素通りした。
 聞き止めない。
 聞き取ろうとしない。
 努めて避けようとしている。

「――」

 脳裏に誰だかの嘲りに似た言葉が響く。
 その言葉も思い出せない。
 耳障りな声の調子すら、忘れている。
 忘れたがっていて、その望み通りに忘れている。

 知ってはいけないもの。
 いや、知ってしまって後悔したもの。
 それは以前、遥か以前に経験したもの。

 すぐそこで。
 あの場所で。

 綺麗な女の人が
 一緒だった女の子が

 ぼく、を……。
 ぼく、と……。


「俺は…」
 声が上手く出なかった。
 妙に喉が乾いた気がして、唾を飲み込んだ。
「………」
 そして俺は、空からこっちへと顔を転じて見上げるようにしているだろうかぐらち
ゃんの視線から顔を逸らした。


「そういうのはちょっともう、いーかな」


「舞人さん……」
 寂しげに響く彼女の声。
 どうして俺は彼女にこんな声を出させているのだろう。
 決まっている。
 それは――

「……」
 けれど、口に出せない。

「あ、あの……」
 あんなにいつも大きな声で、あんなに高いテンションで、あんなに弾んだ調子で喋
っていた筈の彼女の声が、掠れていてよく聞こえない。
「………」
 彼女は迷ったような足取りで、少し前を歩く。
 俺はそこに立ち止まったまま、動かない。
 少しづつ、開く距離。
 二人の距離が離れていく。

 まだすぐ側にいる。
 数歩歩けば追いつける距離にいる。
 声をかければどんなに小声でも届く場所にいる。
 それなのに、動けない。
 足が、動かない。

 少女の後ろ姿が、幼かった頃よりも頼りなく、か細く見えた。
 小さく、震えているように思えた。

「っ!」
 カチリと自分の中で音がした。
 まるで目の前でカチンコを鳴らされたかのようにして、場面が変わる。


 その少女と出会って、友達になったあの日。
 この街を出る前日の夕方、ほんのちょっとだけの時間だった。
 それだけの出会いで、それだけの関係で、彼女は……


『数年ぶりに出会った、自分を心から慕ってくれる美少女。男だったら当然全速前進
よねー』


 先日の和観さんの言葉が脳裏に浮かぶ。


 ああ、本当だ。
 この娘は本当に俺のことを心から慕ってくれている。
 たった少しの時間。
 僅かに交わしただけの言葉。
 本当に些細な出来事。
 そしてちょっとした約束。

 それだけで。
 本当にそれだけだったのに。

 それなのに彼女は、目の前で震えている少女は俺のことを慕っている。
 こんなにも、か細くて華奢な少女が。


―――ひとを信じるのもたいがいにしておきな。君、また裏切られるよ。


 ビクンと、反応した。何かに、触れた。
 自分の思い出せない何かが、誰かが、何かを、誰かを、揶揄してる。批難してる。
 いや、過去のことじゃない。
 今、こうして俺を何処かで見ているような視線を感じる。
 背中から受けるでもなく、視界の隅に入るわけでもなく、身体に吸い込まれていく
ような感覚。かつて一緒だったもののように繋がっていた。それが、いた。
 もうひとつの悲しい目と一緒に、ぼくを、見ていた。

「駄目、さ」

 だから、俺は否定の言葉が先に漏れた。
 俺はこの少女を嫌いになることはない。
 これからずっと、それだけは変わらないままでいられると思う。
 それだからこそ、壊したくない。
 なくしたくない。
 壊されたくない。
 奪われたくない。

 もう二度と、あんな思いはしたくない。


 ……ぼくは、ひとをすきになることが、こわい。

 かぐらちゃんはこっちを向いて立ち止まっていた。
 彼女の影が、俺の身体にかかるぐらいの距離を取って。
 俺は彼女の顔を見る。
 彼女も俺の顔を見る。
 逸らすことなく、瞬きもせずに吸い付くようにお互いの顔を見詰め合っていた。


「もし、また舞人さんに会うことができて、舞人さんがまだ誰かを好きでいるのなら、
諦めよう。そう思っていました」
「え……?」
 かぐらちゃんはちょっと変なことを言った。
「まだ?」
「舞人さん。あの時、凄く寂しそうでした」
「え? ああ、それは……」
 そいつに友達がいなかったからさ。偏屈で強情で、我を張り続けたことで大事なも
のを手放して、それでも手に入れた筈の大事なものを失った。友達は、いなかった。
「寂しくて、でもその寂しい理由もわからなくて……それで行き掛かりのわたしなん
かに声をかけてくれた」
「いや、それはちょっと違うぞ」
 いや待て。それはおかしい。
 あの時にはぼくはもう覚えていなかったのだから、かぐらちゃんが知っているわけ
がない。
 ん?
 なにを覚えていないというのだ。
 今、思い出していたじゃないか。失っていた、と。
 だから寂しかったんだ。
 それでこの街を離れることになって、最後に街を歩いていて公園で見かけた女の子。
 その子は、見た時から泣いていて、泣き続けていて、ずっと泣いていた。
 俺は声をかけた。
 その子に。
 その泣いている子に。

 悲しかった俺は、泣くことを許されなかったから。
 ただ泣き続けるだけではいけないと、教わったから。
 泣くことすら、できないでいたから。
 泣くことがどれだけ大事なことかと、教わったから。

「ええ。そんなことがなくても、舞人さんは優しいから、泣いているわたしを放って
おかなかったと思います」
 そう言われるのも少し困る。
 あの時は、気紛れにとか、何となくとかではなかった。

 煩かった。
 そして羨ましかった。
 それだけだった。
 何とかして泣き止ませたかった。
 腹立たしかったから。
 痛ましかったから。
 自分にはできないことだったから。
 自分を見ているようだったから。
 だから、そいつは彼女に関心があったわけじゃない。彼女が泣いていたから関心が
あっただけだ。
 それも随分と身勝手で複雑な感情で。
 だから感謝される類のものではない。
 逆にそんな感情を持ったままの俺に悲しかったことの話をしてくれて、そして友達
にまでなってくれた。
 この街でなくしてしまった筈のものを、最後になって取り戻してくれた。
 もっともっと重かったかも知れないことを、ずっとずっと軽くしてくれた。
 それが、彼女との出会いだった。

 今だから言える。
 俺がここに帰って来ることができたのは、この女の子と友達になることができたか
らだ。
 そうでなければ、ここへ戻ることはきっとなかったと思う。
 そう、思う。

 小さな記憶が蘇る。
 まだ子供で、別れというものを理解していなかった、あの時。
 桜坂でできた最後の友人。気弱で泣き顔しか見せなかった少女と交わした、一つの
約束。

 ――じゃあさ、強くなろうよ
 ――約束。もう泣かない
 ――強くなるんだ

 出来たばかりの友達に引っ越しという別れを告げて泣かせて、そしてそのことに泣
く自分が嫌だとまた泣いているその顔に向けて、俺は小指を差し出してそう言った。


 俺たちは、再会を誓った。


「でもですね、その男の子がいなくなって……それでもわたしは男の子のことを忘れ
ないで、ずっとその子のことばかり考えていたわたしだったから、そう思ったんです」
 鮮明にあの時の光景を思い出している俺に、彼女の言葉は続く。
「あの時の男の子の寂しさって一体なんだったんだろうって」
 ドキンと、胸が高鳴った。
「ほらわたし、あの時は自分のことばっかりでちっとも舞人さんのことなんか考えず
に泣いてばかりだったじゃないですか。それでその男の子との約束をずっと胸に反芻
して、約束を守れば必ず再会できるって信じ続けていくうちに、その男の子のことが
気になりだしたんです」
 美少年だったからだろう――そんな軽口も叩く気には今はなれそうもない。
「初めは全然そんなことも気づかないで、むしろどうしてそう思えたのかも自分でも
わからないのに、そう思えたんです」
 あの時の自分。
 考えようとすると、思い出しそうでもあり、消えていきそうでもあった。
「そしてこうして舞人さんと再会できて、その思いが間違っていなかったなって、思
えたんです」

 かぐらちゃんは最初、何て言ったんだっけ?
 誰かを、好きでいる?
 まだ?

「もし、舞人さんがまた誰かを好きになったらきっぱり諦めようと決めていました。
でも、それまでは頑張ろう、そう決めていました」

 誰かを好きに?
 俺が、誰かを?
 また?

「舞人さんがわたしのことを好きになってくれるとは思えなかったけど、それでも諦
めたくは無かった」

 まだ、そして、また。
 かぐらちゃんは俺の何を見つけたのだろう。
 背筋がひんやりとした。
 いつの間にか自分の内側から生じるもやもやとしたものが、俺とかぐらちゃん以外
の全てを覆っていく。

「今、こうして言うのは同情が欲しいとかじゃないんです」
「うん。それはわかるよ」
「でもわたし、わたしは……やっぱり舞人さんが好きなんです! 凄くすごく好きな
んです!」

 ああ、彼女は本当に約束を守っている。

「ずっと思い続けていました。あの日から、あの時から、そしてそれは今も変わらな
かった! ううん、今ではもっと好きなんです! 自分の中からは溢れ出しちゃうぐ
らいに!!」

 彼女は、強くなった。


 俺なんかよりも、ずっと。ずっと。


「俺は……恋愛とかに全く興味持っていない」
 酷い嘘だった。酷すぎた。山彦相手でも、こんなに正直にはぐらかしもできずに嘘
をついたことはない。これで騙されるやつなんていないだろう。
「いいえ。舞人さんは恋愛に興味を持たないように必死に自制しているだけです。理
由はわかりませんけど、でも……」
 それに気づいたからこそ、彼女は俺との付き合い方を決めたのだ。
 本気で踏み込むことを避ける俺に対して、匂わすだけで、近づくだけで、決して無
理をしない付き合い方を選んだ。側に居続けるのではなく、再接近しては離れること
を繰り返した。


「でも、あの時は恋をしていたじゃないですか!」


 彼女は、俺を知っていた。
 調べていた。
 出会ってから気づいたことを一つ一つ、手帳に書き記しながら俺を見詰め続けてい
た。
 彼女は俺が好きだから。


「お願いです! 好きか、嫌いか。それだけ答えてください!」
 自分の手で胸を押さえつけるようにしながら、必死の形相で、かぐらちゃんは叫ん
でいた。
 自分の中のもやが、晴れる。
 星一つない夜空。
 微かに聞こえる蝉や虫の声。
 既に通り過ぎたらしい小さくなっていく車の音。
 この世界に、俺はいた。
 彼女と一緒に。
「……」
 答えられない。
 ああ、わかっている。
 どうして答えられないかなんてとっくにわかっているさ。
 もういい加減、自分でも気がついているんだろう?
 だったら言ってやれよ、桜井舞人。
 目の前でこんなに泣きそうな顔をしてじっと堪えている彼女に向かってさ。
 感動しているんだろう?
 胸が熱いんだろう?
 自分だって泣きたいぐらいに感じているんだろう?
 抱きしめたいだろう?
 抱きしめてあげたいだろう?
 だったら言えよ。
 ほら、ちゃんと声に出して。
 胸を張って。
 さあ!

「……っ」

 生じる風。
 何か、ぼくを押さえ込むような嗜めるような、そんな風。
 揺れ動くぼくを支えるような風。


『ごめん……』


 風を吹かせた彼女に、きっとどこかでぼくを感じているだろう彼女に心の中で謝っ
た。彼女がぼくを感じられるのであれば、きっと通じるだろう。


 ごめんね。


 知ってしまっていたから。
 一人でいることの寂しさを。
 見つけてしまっていたから。
 二人でいることの楽しさを。


 だからもう、君の元には還れない。


「かぐらちゃん、随分と待たせちゃったね」
「舞人、さん……」

 甘い衝動とおぼろげな不安。
 強迫観念と恐怖に似た焦燥感。
 決してひとつになることなく、ひとりになるだけ。
 たとえそうであろうとも、ぼく――俺はきっと、何度でも、繰り返す。
 何度だって求め続ける。


 思い出したから、もう逃げない。
 もう怖れない。
 もう恐がらない。
 だから、言える。



―――ぼくはひとを、すきになりました。



・
・
・


 あれから数ヶ月たって、俺は今、ここに一人でいる。
 後悔はしていない。

 こうなるまで俺は何故か落ち着けていた。
 最初から最後まで落ち着けていた。
 自分でも不思議なぐらいに。
 こうなることを望んでいたわけでもないのに。

 抗うこともしなかったくせに、諦めることもしていない。
 俺は、手を引いて貰って、この街から逃げ出した頃の俺じゃない。
 忘れることで、なかったことにした頃の俺じゃない。
 俺は、忘れなかった。
 たった数時間の出会いで友達になった彼女のことを。
 たった数ヶ月の間だけ恋人になった彼女のことを。


 誰にも頼らず、誰の手も借りず、俺は、ずっと待ち続けた。
 信じ続けた。
 桜井舞人という存在を。


 俺は、ひとりじゃない。


 いつの間にか、旋律が自然に口を突いて流れ出ていた。
 初めて、口笛を覚えたときの練習曲。
「ああ、また思い出しちゃったよ」
 俺が決して忘れてはいけない思い出と引き換えに、彼女との全ては忘れないといけな
いのに、そうしないと先に進めないというのに。
 桜の木の下で寂しげに俺を見詰めていた女の子。
 本当に俺をここに呼んだのは彼女だったのかも知れない。
 けれど、俺がここに来たのは彼女に呼ばれたからじゃない。
 悪いけれど、違う。
 それは……

「舞人さん!」
「え……」

 今、俺の方に駆けてくる一人の少女。
 彼女と交わした再会の約束。
 それだけで、俺はここにいる。

「あ、れ? なんでここに?」
 こんな時間、こんな場所に、出会う筈がないのに。
「何を言っているんですか、舞人さん!」
 少し膨れたように言う彼女。何故と思った時、ザァッという音と共に、二月とは思
えない春の風が吹いたのが判った。
 山から運んできたにしては少し季節が早過ぎる桜の花びらを添えて。


 あ、この風は……。


 風に乗って、俺の耳に聞こえた。
 あの子から俺への、別れの言葉を。俺たちへの祝福の、言葉を。


「ここに舞人さんがいるからに決まっているじゃないですか!」


「そ、それは……」
「初めはびっくりしちゃったんです。その次は空想の人物かと疑っちゃったんです。
でも青葉ちゃんが話しているのを聞いたり、自分の日記を読み返したり、そして保管
されていた今までの手帳を読み返したりしていくうちに、わかったんです! 気づい
たんです! 思い出したんですよ!」
 その切り揃えられた髪を風にはためかせながら、かぐらちゃんは叫んでいた。
 彼女は、自分の力だけでここにきた。
 全ての障害を跳ね除けて、俺だけを信じて、俺だけを追って。
 だからもう、俺たちは大丈夫。
 きっと、ずっと笑いあっていられる。
 それはとても、

「わたしがどれだけ、本当に、舞人さんが好きだったか!」


 嬉しいことだと思う。


「何か思い出そうとするたびに訳のわからないもやもやが私の考えることを邪魔する
んです。もう困っちゃいました」
「それでどうしたんだい?」
「恋する乙女は常に常に前進あるのみです。押しが弱い女の子はもう去年で卒業しま
したから。強行突破です、良く判らないものはてやんでぃですよ! くそくらえです
よ!」
「ははは。それじゃあ青葉ちゃんだよ」
 泣きそうになるのを、笑うことで堪えた。
 俺も少し強くならないといけない。
 彼女に負けないぐらいに。
「わたしは何度だって思い出しますから! 何度忘れたって、何度なくしたって、舞
人さんが諦めようとも、忘れようとも、どうしようとも、きっときっと絶対に! 必
ずです!」

 君はなんて……


「約束したじゃないですか!」
「ああ、約束したっけな」

 忘れない、と。
 忘れても思い出す、と。

 そんな約束を、彼女としたっけ。
 告白の返事をして、その後に。
 話せることだけを話して、そう約束した。
 ああ、だから俺はかぐらちゃんと離れていても、あんなにも余裕があったのか。
 自分で忘れていた癖に、思い出してみれば割と……感激だ。

「もう、舞人さん。泣かないで下さい! わたし、泣きませんからね!」
 かぐらちゃんは右手の人差し指をピンと立て、気迫に満ちた瞳でズズイッと俺の顔
を覗き込んでくる。その目からはもういっぱい涙が零れていたけれど。


「泣いているって思わなければ泣いていないんです!」


 ああ、それは
 確かに


「出会いも別れも、再会もトラブルも、全てはハッピーエンドに繋がる愛の物語への
一本道なんですよ、舞人さん!!」


 その通りだ。
 ニヒルでクールなハードボイルドの桜井舞人さんは癒しを求めている。
 ああ、今まさに癒されようとしていた。


「ありがとう、かぐらちゃん」
「はい、舞人さん!」



 桜色に染まるだろう季節ではなく寒風吹き荒む二月、人気の少ない旧国道脇の路上
で俺たちは目いっぱい、抱きしめあった。



                             <完>