■『斑猫』の巻■



 処は異世界、時は戦国。
 そこはこの世とは違う世界で御座います。
 そしてこの時代は、その世界の日本という島国の僅か百年余りの騒乱の時で御座いました。
 人という生物が生き物の長となり、強きものが弱きものを挫くという判りやすい世界でありました。
 刃を取り、拳を奮い、己の力で他を打ち付ける。
 衆を頼み、寡を駆逐する。
 これほど判りやすい時代は御座いません。


「わかんない……」
 そう呟く彼女の側には誰もいません。
 対になって存在していた時ばかりでした。
 元は一つのものとして見られ、彼女自身もそう思ってきました。
 多少の違いは個性であり、せいぜい唯一の区別程度の筈でした。

「私は莫迦だから、わかんない」
 彼女は自嘲します。

―――道を失い、引いてくれる手に置いていかれた。

「寂しいよう……姉様、寂しいよう……」
 彼女は大敵を真っ先に食い止める重要な拠点の城将として、最前線で戦うことを義務付けられ、それに応えて今まで存分に戦ってきた戦の中に生きる少女です。
 けれども今、膝を抱えて泣きじゃくるその姿は、ただの右も左もわからない幼子でしかありませんでした。


 改めて紹介致しましょう。


 姓は岡部。
 名は真幸。


 彼女は実は、淫魔だったのです。




                    ■『斑猫』の巻 ■



 隠し通路が塞がれていた。
 この通路の存在は腹心の者でさえも知られていない存在だった筈だ。
 この秘密を知っているのは僅かにこれを作った者とこれを作らせた者だけである筈だった。
「―――参ったわね」
 作らせた者は一人ぼやく。
 いざという時に役立たずして何が秘密の抜け道だというのだろう。
 四方を敵の大群に囲まれ、寡兵で籠もっている城主にとってこの抜け道の存在は心の余裕になる筈であった。
 だが、それが閉ざされたと知ってからも意外にも動転していない。
 それはこの当面の問題とは別に、城主にとって一つの問題が片付いたからであった。
 ずっと心の中でモヤモヤしていたものが漸く晴れたのだ。
 目先の状況を忘れ、ホッとしたのは理解のできることであろう。
 そうしてからもう一度、一人呟いた。
「―――困ったわね」
 そう。
 ここで改め城主は自分の危難に気がついたのだ。

 逃げ道が、ない―――と。


 駿河探題として駿河を支配する穴山入道梅雪と、猛田の棟梁である猛田勝頼の不仲はこの時期になると隠し切れないほどになっていた。それも表立って喧嘩しているのであればまだ救いがあったが、それぞれの立場と面目が重なって確執は陰に籠もったものになっていたことで、積み重なる一方で晴れることは無かった。
 だからこそこの東遠江にある最前線の城への救援にも、互いにその役目を擦り付け合うような状態になっていた。
 遠江完全併呑を目論む敵将屠狗川家康はこの城に対して攻め懸け、包囲する一方で東遠江の他の城に対しても調略を行なっていて、穴山梅雪はその対応に追われていて、彼女の籠もる高天神城のみに救援を差し向けることは難しかった。従って、城の救援を領国に囲まれて直接の危機のない甲斐の勝頼へ廻そうとする。
 一方、勝頼の方も飢杉謙信死後の越後の後継者争いの戦、御楯の乱で泡条の支援する景虎を捨て景勝を選んだことで泡条を敵に廻して以降、北以外の全てを敵に廻している状態だった。その結果、毎年のようにあちこちに出兵し、将士もその資金も疲労困憊で崩壊寸前にまで至っていた。せめて東海の戦ぐらいは駿河探題に任せておきたかったので、それを要求する。
 それぞれの状況や立場を慮り、気遣いながらの依頼ではない。互いに互いへ命令するかのような責任の押し付け合いであり、その結果更に両者がいがみ合う材料を増やすだけの結果になっていた。
 そんなことを続けている状態なので、当然のようにどちらからも救援は来ない。

「城代から城主に代わったところで、何も変わりは無いわよね」
 軍監の横田尹松を通じて甲斐の猛田勝頼の元から届けられた書状に目を落としながら、真幸は呟く。
 今までの立場は城代であったが、城主がいない以上やることは同じであった。
 当面の敵を防ぐ。
 実に単純極まりない仕事だった。
 無論僅かな将士を従え、一城に籠もる城将一人が防ぎきれる敵の数は高が知れていて、防ぎきれる数ではない大敵に直面すれば自分の方の大軍を援軍として要請する。そしてそれぞれの軍同士が戦い、城将は自分側の軍の一部として行動することになり、勝てば追撃戦に加わった後、再び城に戻る。負ければその大軍と共に城を捨てて逃げればいい。周囲の味方が敗れ去った後、その場に留まることは自殺行為だからだ。
 だが、呼べど叫べど味方が来ない時、城将としては判断を自らの手で委ねなければならない。

 城に留まって戦って戦って戦い抜くか、降伏して城を明け渡すか。

「だからこれは、形式上でしかないわけなんだけどね」
 誰にでもなく、彼女は呟く。
 高天神城城主、岡部丹波守真幸であった。
 援軍申請の嘆願書の回答が、いつか必ずという期限のない空虚な援軍の約束と、籠城を労い褒めそやす中身の無い言葉で並べられているだけなのを見て、真幸はため息だけを重ねていた。
「『私も精一杯頑張るから、もう少し頑張ってくれ丹波守殿!』……ね」
 その一国の主としてはあまりに軽薄というか、肩の力が抜けまくりというか、形式主義打倒、来たれ新風の意気込みそのままの文面の書状はこういう状況では実に宜しくない。穴山梅雪ではないが、重みに欠けまくりである。
「まあ、あっちもあっちで内容は一緒だけど」
 その前に駿河探題から届いている書状も、似たような意味合いだ。流石に普通の文面ではあったが。
 結局のところ、どっちも助けてはくれないということだけは確実になった。
 自分がどうにかするしかない状況である。

 この気の抜ける書状を読み上げて話し合った結果、最終通告にあたる書状を城内の主な将士全員の連判で出すことに決定した。
 使者が甲斐に行って帰ってきた後、恐らく次に読む書状はこちらの武勇と忠節を散々言葉を尽くして褒めちぎった後、苦悩に満ちた字体で救援は無理だと書き、残った部分をお詫びで埋め尽くされた素敵な返事だろう。まあその文面がどんな風に書かれているのかはちょっと気にはなるが。
「ふぅ……」
 皆と共に血判を推し、その書状を使者に託して見送ると、もう相手側の攻撃を警戒するぐらいしかやるべきことがなくなった。
 猛田軍配下、駿河先方衆、高天神城主、岡部丹波守真幸としての役目はこれで終わったのだ。
 後は最前線の城で敵に囲まれ、救援のアテのない城主としての日々が残っている。
 敵側の最終通帳の降伏勧告の使者の条件も容易に想像できる。
 降伏か、城を明け渡して撤退の二択。
 ただそのどちらもが罠の可能性もあるので分岐としては三つ。
 自分達が腹を切れば、兵士は助命して貰えるだろうから更に選択肢を一つ追加。
「ここまでが、人間の選択肢」
 もう一つ、化け物らしい選択肢がある。

 一人で逃げる。

「やっぱりこれかしら」

 自分ひとり、何もかも捨てて逃げ出そうと思って逃げれば逃げ切れる可能性はかなり高い。所詮、この包囲網も人間に対するものであって、人間外の存在に対する術は考慮されていない。絶対という保証はないが、甲府と江尻に状況を知らせる使者が使っている道を使えば、生き延びられる可能性はある。
 そうなった場合、鉢合わせになってはいけない相手が居る。
 本多平八郎忠勝。
 化け物退治を得意とする彼に補足されたら生きて逃げ延びることはできない。
 武将として戦うのであれば、向こうも持ち場を離れてまで仕掛けてくることはないと思うが、妖魔として遁走するとなると遠慮してくるとは思えない。
 元々一度殺されかけているのだ。次が無いことぐらいはわかっていた。
 その後に一度、旅の仲間として出会って色々と付き合って貰ったこともあるが、それはそれ、これはこれだ。寧ろ、そのお陰なのだろう。
 今まで、この城に彼女を討ちに彼が単身やって来ないのは。
「さて……」
 人として踏み止まれば、人としての死が待ち構えている。
 化物として逃げ出せば、化物としての死が待ち構えている。
 実に困った。まさしく八方塞がりだ。
 それというのも今朝、そろそろ必要になるかと思って覗いてみた秘密の抜け穴が埋めたてられていたからだった。
 自分一人身一つで逃れ出る中でも最良の選択肢が消えたことになる。
 穴を作った後からずっと放ったらかしにしていたので何時頃埋めたてられたのかは判らないが、少なくても今日この日を想定して埋められたものには違いなかった。
「武将なら武将らしく華々しく散れとでも言うのかしら」
 それは、似合わない。


 さらに切羽詰ってきた頃になって、陰毛をねだられ始めた。
「―――え?」
 長年岡部党として苦楽を共にしてきた将士達に、夜を共にするたび何故か異口同音に求められたのが、自分の体毛だった。
「そ、それは……別に……いいけど、なんで?」
 良く判らないが、何でも生還する為のお守りにするのだそうだ。
 そんなのは初耳も初耳。
 どこから仕入れたまじないなのかと思ったが、全員が全員誰かから聞いたという話になっていて、誰が言い出したのかは判らなかった。
 ただ真幸が知る限り、岡部郷でそんな風習はない。断じてない。
 近隣でも聞いたことがない。
「何なのよ、一体……」
 ひょっとしたら敵の間諜が――とも思ってみたが無理が有り過ぎる。真幸を陥れる為の魔術の為に身体の一部として何て考えてみても陰毛はないだろう、普通。真言立川流だってそんなちゃちな仕掛けはない筈だ。
「まあ、いいか」
 別にそんなものでも慰めになるのであれば―――別に構わない。
 淫魔の体毛など何の役にも立たないとは彼女自身は思うが、縋りつく身とすれば偶像崇拝の偶像ぐらいのご利益はあるかも知れないと黙認する。
 自分からあげようとは決して思わないが。


 設楽ヶ原の合戦の勝利後、家康は高天神城を奪還する為に数年がかりで準備にかかっていた。
 まず高天神城の備えとして築いた馬伏塚城とは別に、攻撃用の付城として横須賀城を築城した。そしてその城に籠もった家康は高天神城の周辺を城砦で固め、付近の農民を押さえつけることに成功した。三井、中村、鹿ヶ鼻、火ヶ峰、能ヶ坂、風吹峠、小笠山と四方八方に砦を築き上げ、高天神城を監視した。封鎖が完成したのは真幸が越後から帰還した後である。
 家康の嫡男信康が家康自身の手で殺された騒動から一年、幾度となく高天神城を牽制して甲斐本国からの救援の具合を探っていた家康は、遂に高天神城に対して青田刈りの策に出て、そこで城内の兵糧を断った。
 夏が終わり、収穫の無かった秋も無為に過ぎかけた雨季。
 家康は数度に渡って攻城を企てたが、その度に失敗に終わっていた。
 そして本格的な兵糧攻めに切り替えて、一層包囲網を固めて年の瀬になるまで睨み合いを続けることになる。
 そうして戦況も長期化すると、どこかしら弛緩する部分がある。
 元よりまとまっているとは言いがたい城内の空気も、より悪くなりつつある。
 主力である岡部党を含む駿河衆との関係は良好だが、他とは万事上手く行っているとは言い難かった。
 それとほぼ同数に近い将士を抱える信濃先方衆も善光寺別当の栗田刑部吉信が良く取りまとめていたが、駿河遠江と信濃は敵同士であった時期が長く、表面化しない程度の問題は積もり積もっていた。
 そして甲斐から派遣されている将士。真幸が小笠原与八郎長忠を身体で陥し、最初に城番として入った横田甚五郎尹松が今は軍監として真幸の補佐と監視を兼ねて引き連れている一小隊がある。特に横田自身が真幸にとっては曲者で、どうも彼女達の総意とは別に甲斐の勝頼に密書を送っているらしかった。無論、甲斐者である彼であるから先方衆の将兵とは違った意見を持っていることだろう。
 そしてもう一つ、江馬時盛が次男、江馬右馬允直盛率いる飛騨衆も混ざっている。数も劣り、甲斐衆と違って同じ先方衆同士ではあったがそれが逆に地元の駿河衆が遠方の飛騨衆を見下している一面があって、上に立つものとしては扱い辛いものがあった。
 連署して血判を押して作った意思統一も、所詮はそれぞれ心の奥までは縛りきれないということだろう。これだったらまじないの一つでも覚えて置けばよかったと少し後悔する。養父であり師父である亡き雪斎和尚でも、その弟子で最初の主で可愛がられた忌魔川義元公にでも、教えを請うだけの機会はあった。
 まあ、その方面の才能があったとも思えないので教えてもらっても恐らくは無駄だったとは思うが、あれば気休めぐらいにはなっただろうに。
 周囲を宥められないのなら、せめて自分は慰められたいと真幸は本丸から降りて、捕虜などを捕らえておく牢舎へと向かった。
 石で作られた牢屋には一人の男がいた.  その男の名は大河内源三郎正局。
 先の合戦で城主小笠原長忠の軍目付として城内にいて、一人猛田方に降伏せずにいたせいで土牢に幽閉されていたものである.開城時に降伏を良しとしない将兵は全て解放された筈だったのだが、降伏派によって囚われたままだった彼はその対象から外れていたのだ。恐らく、降伏派が言い出さずに忘れ去られていたのだろう。勿論、引渡しが終わった後で囚われていた彼は発見されたのだが、兵を引き払っていた後だったので釈放する理由もなく、繋がれたままになっていたのだった。
「そりゃ、困ったものだな」
「そう、困ったものなの」
 味方の誰にも話せないことを話す愚痴相手に選ばれたのは彼としても不本意だろうが、七年間囚われの身である彼にとって真幸は貴重な話し相手であって、追い返す理由も無かった。
「しかしそういう城内の意思統一を図るのも城主の役目ではないか」
「まー、そうなんだけどね。貴方に言われると何か納得いかない」
「ふん。貴様のように汚い手を使われなければ」
 長忠の元に使者としてやってきた真幸に対して斬るように進言したのが彼であり、そのまま一晩臥所を共にした長忠に呼び出されて捕縛された彼を見ていたのが寝床にいた真幸であったので、一人石牢に繋がれたままの処置は真幸の手によるものとずっと彼は信じていた。
 だからこそ、城代として赴任した彼女が彼の石牢に来て「あれ、貴方なんでここにいるの?」と聞いてきた時は「この毒婦めが」と赫怒して大変だったのだが、今では誤解が解けたのか単に呆れたのか、ただ何となく諦めてしまったのか時折やってくる真幸に対して遠慮仮借ない物言いであるものの、普通に話し相手と化していた。
「それでも時間の問題だったでしょうが。私の時に落とされなくても、いずれは長忠は下ったわ。貴方は死ぬつもりだったでしょうけど」
「無論」
「……それも一つの道よね」
「化物は化物らしく、武士の真似事などせずとっとと去ねばよかろうに」
「うーん」
 その肝心の退路がない。
 だが、流石にそこまで言う気はなかった。
「まあ、貴方はそこでゆっくりしてなさい。長かったけどもう少しの辛抱だから」
「ふん」
「廻す余裕が無いからこれからはほぼ絶食に近くなるでしょうけど、餓死には気をつけてね。救出後は逆に食べ過ぎに」
 一方的にそう言って、何かを言いかける正局を置いて牢舎を後にする。
「本当にどうしようかしら」
 取るべき手段は限られている。
 いつの間にか、一つ一つ詰められてなくなっていった。
「降伏すら信用できない状況じゃあ、ねぇ……」
 そうなると残る道は強行突破。
 せいぜい、本多平八郎に見つからないように気をつけるぐらいだ。逆を言えば、彼に見つかって槍をつけられたら勝ち目はないのだが。
「城主様」
「……え? あ、江馬殿」
「こちらにおいででしたか」
 牢舎から出てきた真幸を呼び止めたのは江馬右馬允直盛とその近臣達だった。
「何か問題でも起きた?」
「いえ、一つ城主にご相談が」
「何かしら」
 尋ねる真幸に、直盛は近臣を周囲に散らせて警戒網を引くと耳を寄せて 「開城するとの噂が流れているのですが」
 そう囁く。
「有り触れた流言じゃない。何を今更――」
「それがどうも火元は軍監殿の周りらしく……」
「横田殿の? それは妙な話ね」
「城主様以下主だった者が腹を切り城兵の命を救うという話で、一部の兵からは……」
「なるほど。そりゃあ期待したいわよね」
「はい」
 特に地元である遠江の農民兵などは歓迎こそすれ反対する理由が無い。
 彼らにとっては支配者が代わろうとも、あまり状況に代わりはない。
 逆に財政的に余裕のある屠狗川家の方が落ち目の猛田よりもずっと良いだろう。
「それでその開城の話し合いが行なわれているとの噂を耳にしまして……」
「勿論それはないわ」
「ですがもし、御舘様からの書状で――」
「指示があればそうするけど、なければしない。今のところ貴方への返事は、それでいいかしら。勿論、何かあればその度に軍議は開く」
「……」
「貴方がどう思っているか知らないけど、私はこの城を預かるものとして、特定のものを阻害するような真似はしないわ。今までそうしてきたし、それはこれからもそうするつもりよ」
「いえ、そんな疑っているわけでは……」
 飛騨を追われた江馬の一族は汚堕、屠狗川に下ることが出来ない。彼らを追った姉芽麹家が汚堕家と同盟を結んでいる為だ。共に相容れない仇敵がついている以上、江馬一族は猛田、もしくは飢杉につくしかない。既に彼の父や兄弟はそれぞれに分かれて骨肉の争いに陥ろうとしていた。
 彼は父によって猛田に預けられた人質でもある。今更寝返ることなどできず、猛田側もそれを知っているからこその配置であった。
「でも、その噂自体は気になるわね……」
 直盛と別れ、本丸に戻ってから考え込む。
 その手の降伏の噂が出るのであれば、自分たち側からであって甲斐者達から出るものではない。猛田譜代の臣であり、監視役として入っている以上、この城の誰よりも煽動や調略を受けないところのはずだった。
 しかも寝返るとか裏切るとかの類いの噂ではない。降伏するという噂だ。
 戦意を喪失させるためのものなのか、イマイチ判らなかった。
「尤も、すぐわかるようなものなら調略になんかならないでしょうけど」
 籠城の経験はあるが、ここまで追い詰められる経験はない。
 二十年ほど昔の鳴海城に籠もった時を思い出す。
 あの時、自分が死ぬなんてことは少しも考えていなかった。
 相手が本格的に攻めてくるほど余裕がないこともわかっていたし、何よりも全て先が見えていたからだ。
 義元の運命も、信長の動きも、家康の狙いも、何もかも。
 それは己の鋭い判断力などではなく、人が考え人から教えられたものだった。
 太原雪斎の予言。そして姉正綱の分析。
 この二つに支えられ、自分は好き勝手暴れることが出来た。
 だが、そのどれもがなくなると途端に自分には何も出来ないことに気付いた。
 この城からとっとと逃げ出すことさえできない。
 状況が、周囲が、自分自身が、そうさせてくれないようにくれないように追い詰めていく。
 私は何がしたいのか。
 それも判らず、考えもせず、流れるままに、楽しめるままに、ここまで来てしまったのだ。
 そのツケが溜まってしまったのかもしれない。
「でもそんなの、仕方がないじゃない」
 一人反駁する。
「だって、そういう生き物だもん、私」
 淫魔。
 性交を中心とした目先の快楽を糧に生きる存在。
 淫魔が淫魔として生きているだけなのだ。
 自分の好きなように。
 自分が楽しむままに。
 それでどうしてツケを払わなくてはいけないというのだろう。
 ツケなど、自分にはない。
「帯刀!」
 腹心の岡部帯刀を呼ぶ。
 彼はこんな真幸を肯定し、受け入れてくれている。
 人間ではなく、淫魔である彼女を主として立て、従ってくれている。
 少なくても、真幸は彼に対しては大将であろうと思うのだ。
 こうして肌を重ね合わせる時も、馬上で指揮を振るう時も。


 水は井戸を改修したお陰で止められる心配はないが、兵糧は別だった。
 籠城で自給自足など望むべくもなく、兵の数がいればいるだけその消費も早く底をつく日も早くなる。兵が少な過ぎればそもそも防ぎ切れないのだから、その辺の調整が難しいところだった。多くなく、少な過ぎず、それがこの城に籠もる九百の将兵の数であった。幾度の小競り合いで幾らか数がかけているが、城を支えきれないほどの不足ではない。だが、兵糧の方は最初から満足に貯蔵できていなかった。最前線の城の割にはお粗末としか言いようがないのだが、常に籠城するには厳しい量しか蓄えられていなかった。これは城主である真幸の手落ちではない。猛田軍全体が赤貧に喘いでいたのだ。
 元はといえば設楽ヶ原の合戦で大敗したのがその一つ。死んだ将兵への見舞金、傷ついた将士への手当て、その不足分に掻き集めた兵士を鍛え上げるのにも金がかかって仕方がなかった。大量に失った武具や馬の補給と、更に新技術によって次々と新しくなっていく兵器への対応にも金が掛かった。周囲を敵に囲まれた状況下でその備えにも金が必要になる。それなのに猛田軍の金蔵だった金山の枯渇。限りある資源が丁度尽きてきたという悲惨な状況。
 こうなると、例え最前線とは言え、本国甲斐ではなく、属国の駿河遠江の城に十分な備えが行き渡らないのも無理はない。
 それに、そこを守るのは宿将ではない、かつて敵だった者が降伏した先方衆。
 一度降伏する者ならもう一度降伏したっておかしくないと信用されないのだ。
 そんな城に十分な補給をするぐらいなら――とされている有様。
 何から何までどうしようもなかった。
 真幸達は日一刻と苦しくなってくる籠城を続け、相手はその窮乏を知っているからこそ包囲を続ける。
 助けが来ない限り、助からない状況。
 落城は時間の問題だった。
 今、攻められないのは自分たちが頑張っているからではなく、無駄な消耗を避けたいという向こうの事情だからだ。
 兵糧がないなら人肉を食えばいいと言う考えもあるが、真幸としては自分の配下が死んだ同輩の肉を食べるという光景はあまり見たくなかったので口にしてはいない。それに人肉は食べたことがないが、人であれ魔であれよっぽど飢えていないと口に出来る肉とは思えなかった。尤も人間が思いつく発想でも容易に賛成する意見でもないので、今後どうなろうと提案する気は全くない。無用な亀裂を生むだけだというぐらいは考えていた。
 それにこの問題に限れば真幸は他人事であった。
 身体を開いて相手から精を受け止めることで生を繋ぐ淫魔である彼女は兵糧を口にしなくても人間の将兵ほど困らない。もっとも今では相手が最後のせめてもの楽しみとか、気晴らしとか相手側の事情での交わりが主で、生きる為の糧としての性交は彼女にとっては今のところ不自由していなかった。
「まあだからと言って……」
 一人でこの城を守ることなど不可能なわけだから、だからどうしたという程度のものであった。
「まあ、あの子ならたった一人でも何とかしそうだけど」
 城から攻め手の一角の立ち葵の旗指物の陣を覗き見て、そこにいるだろうチビッコを思い浮かべる。
 彼さえいなければ苦労も半分で済むのだが、実に上手くいかない。


 城に籠もったまま年が明けた。
 江馬右馬允直盛の言葉とどう関係があるのか、軍監の横田甚五郎尹松が彼個人の意見として切腹開城の案を持ち出してきた。軍議の場ではなく、真幸に対してのみ進言する。
「それをどうして今言うわけ?」
「戦意を損ないたくないからです。この話が外に漏れれば、次第に将兵もそんな気になってしまう。そうすれば降伏する以前に攻められれば支えきれぬと判断したのだ」
 戦意も何も既にそのことは噂になっているということを彼は知らないのか、惚けているのかその表情から真意は読み取れなかった。
「つまり、軍議で図れば、内容は漏れると言いたいのね」
「そう考えてくださっても結構。我ら甲斐者は死は恐れぬが、無様な最後は御免被る」
 語る尹松はこの高天神城を開城して、その分の将兵を他の守りに廻せばよいと真剣に思っている。
「だけど、家康が約束を守る保障はないわ。もう今までの時とは事情が違うわよ」
 救援もなく、反撃の力を持っていない以上、城を出たところで追い討ちをかけられても文句の言えない立場なのだ。特に汚堕信長はその手が得意だった。伊勢長島の本癌寺宗徒に対しては誘き出してから宗徒達を鉄砲で撃ち殺し、美濃では秋山信友が岩村城を出て降伏したが長良川で磔にされ、将兵も閉じ込めて焼き殺された。
「家康殿は違う」
「信用できない」
 岡部真幸は屠狗川家康を一番信用していなかった。
 忌魔川の頃からそれはあり、汚堕信長の命令で嫡子信康を斬った時でそれは確信に変わった。
 屠狗川信康こそ、第六天魔王汚堕信長を倒す為の珠である筈だった。
 だからこそ家康の繁栄にも手を貸し、盛り立ててきたのだ。
 それを屠狗川信康の能力を察知されるや否や殺害を命じた汚堕信長に、家康はあっさり従ったのだ。
 この時は一番姉妹で揉めた。
 てっきり殺害命令を契機にして信長に叛旗を翻す屠狗川家康を予想していた真幸は家康を捨てて自分達の手で信長を倒す手段を練るべきだと訴えた。
 だが姉岡部正綱はそれでも家康支持を続けるべきだと説いた。太原雪斎の予言でも魔王を倒すのは家康だとしていた点を重視したのだ。
 仮に家康が信長を倒したとしても、家康は自分達妖魔に対しては良い目を持っていない。蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らるとなるだけだとも言ったが、ならば人が妖魔を滅ぼすのであれば、妖魔は滅ぶべきだと真顔で答えた。真幸には信じられなかったが、妖魔の大部分は正綱と同じ認識であった。人の為に妖魔は居るということらしい。
 真幸はそれに従いかねる一部の妖魔と共に抵抗したかったが、姉に逆らってまで押し通そうとはしなかった。姉は姉の信じる道を進めばいい。家康が天下を取り、妖魔を滅ぼそうとするならそれでもいい。ただ、自分は殺されないようにする、それだけを心に秘めて。
 だが、そんな将来を憂いたりする前に自身の死が近づいてきていた。
 事態は悪くなるだけで何も変わらない。
「出来る限りのことはする。そしてみっともないことはさせない」
 武将として、恥になることは避けたい。
 真幸は相手のその気持ちだけは尊重するつもりでいた。
 しかし城主である真幸の方が立場は上で、彼女が首を縦に振らない以上、その案は通らない。そして彼の進言は却下した。どうしても通したいのなら軍議の場で発言せよと言い足して。
「第一さあ……」
 自分を蹴飛ばして勝手に本国に意見上申している人間の言うことなんか素直に聞く気になれない。真っ正直な感情だった。


 夜明け。
 この空は駿河の居城清水城にいるだろう姉にも見えているのだろうかと真幸は思う。
 近くにいてもすれ違うことが増えてきていた二人きりの姉妹の心の距離を示すかのように、遠く離れているように彼女には感じられた。
 恐らく岡部正綱はこの空を見ていない。
 そんな気がした。
 もし逆の立場だったならばどうだっただろうと思う。
 姉の危難に対して万事手を尽くしただろうか。
 尽くすだろうと迷いなく答える自分がやけに空しい。
 自分や姉の属する海道妖魔衆はこんな時は動かない。
 勿論、妖魔衆にとってただの一員でしかない自分を救出するために超党派となって救援の手が差し伸べられる筈はないが、然るべき理由があれば動かないこともない。
 そして真幸にはその理由になるものがなくもない。その話を持ち出せば、駿河衆の中では相当の力を持つ姉だけに手は打てる。自分ならそうしただろう。その結果、運動が失敗したとしても、救援できないという意思表示ぐらいはできる。真幸は清水城に今もいるだろう姉から何かが欲しかった。
「それとも天野の爺様あたりが動いているか」
 邪魔されているのかもしれない。そう思って慰めるしかなかった。
 でも、岡部正綱はこの空を見ていない。
 そんな予感を拭い去ることはできなかった。
 自分で何とかしなさいということなのだろうか。
 自分で決めて、自分で生きると決めたのだから、最後まで自分で生き抜けということなのだろうか。
 そうかも知れない。
 どちらにしろ夜中、一人寝で泣きじゃくったところで何も変わらない。
 何も起きない。
 そのぐらいは莫迦なりに自覚しないといけないのかもと覚悟を決める。
 既に城内の食料は一日に粥二杯という厳しい有様になっている。
 将士も彼女に向ける精すらも惜しんで力を極力蓄えなければいけないほど苦しくなってきていた。
 終焉は、近い。


 二月に入ると包囲する屠狗川家康の方から幾度目かの使者が来た。
 そろそろ心構えが必要になってくる時期だった。
 最初の頃はお互いに儀礼じみたところもあったが、こちらの兵糧が困窮しているのは読まれているので、向こうとしてはこちらの真意を糾したく、探るような感じになって来ている。
 向こうが突きつけている条件は開城のみ。
 将士は近隣の城に行くなり、駿河に戻るなり甲斐に引くなり好きにして良いとの好条件だ。
 だが城を出た瞬間、襲い掛かられる可能性がある。
 そして真幸はその可能性の高さを感じ取っていた。
 重要な拠点なだけに見せしめ効果が考えられた。
 長く抵抗するとこれと同じ目に遭うぞ、嫌ならさっさと降伏することだ。
 そんなことに高天神城と自分たちが使われると感じ取っていた。
 もしそうでなければ本多平八郎忠勝が一度でも使者にやってくる筈だと思っていた。
 あの腹芸の一つもできない真っ正直な坊やはきっと越後行のことも家康に話しているだろうし、その際自分との面識もあることを話しているだろう。もし親身にこちらの境遇を考えているのならば彼を使わない手はないのだ。
 それがないということは、彼を約定破りの道具として使いたくないということだろうと真幸は察する。もし彼と真幸が約束したことを家康が破れば、単純な彼は家康を信じなくなる。これはこの一城を得ることよりも重くのしかかる。それに彼が露骨に不信感を持てば他の将士にも影響する。だとすれば身分の低い使者を使って口八丁で話を進め、いざとなったら使者が嘘をついたとしてもいいし、こちらが約束を反故にしたと嘯いてもいい。
 だからこそ包囲の中にいるはずの平八郎は一度もやってこない。
 それこそ真幸がこの開城の約束事が嘘であると思う理由であった。


 夜更け。
 真幸は考える。
 人間に憧れるものと人間を憎むもの。
 人間は人間、自分は自分としないものたち。
 彼らはこの世を人間のものとして諦めていて、自分はその人間の世界の中に間借りして住まわせてもらっているという感覚を持っているのだろう。
 人間も、牛馬も、虫けらも、この世に等しく住まわせてもらっていると考えることは出来ないのだろうか。
 梟の鳴き声を聞きながら、藪蚊を手で潰しながら、水盃を口にする。
 人に見られたら縁起が悪いと言われるだろうが、自分しかいなので構わない。
 酒が貴重な以上止むを得ない。
 他に手に入れられそうな液体として、血や尿を飲む性質は幸いにしてない。
 だとすれば汲み上げた城内の井戸水しか口にするものがない。
 水だけでもあるのが救いだ。
 新たに掘った井戸の道は地面を直下に掘ってあって城の一番深いところにあった。
 以前からあった方の井戸はもう既に敵の手によって潰されている。
 新しい井戸を作っておかなければもう既に落城しているだろう。
「ふぅ……」
 城の周囲は所々篝火が焚かれ、夜中でも敵の包囲を窺うことが出来る。
 今、奇襲をすればそれなりの効果をあげることができるだろうと確信している。
 しかしそれは兵士が万全の状態であっての話だ。
 一日二食粥のみの状態が長く続いた将兵では満足に戦うことも出来ない。
 城に籠もって防戦するのが精一杯だろう。
 いや、それすらも怪しいかもしれない。
 相手が慎重だからこその持久戦である。
 この攻城戦の主導権は相手側にあった。
 我攻めで攻めてこられれば間違いなく城は落ちる。
 どんな時も損得勘定を忘れない吝嗇な相手なことに感謝した。
 もし相手が信長であればもうこの首はとっくに落ちている。
「ん、んん……」
 夕餉が済んでからどうも具合がよくない。
 身体が重たいような、だるいような状態だった。
「う〜」
 忍の才がある者が数人出て包囲網の隙を突いて険阻な尾根道を見て廻った際、摘んで来た大量の野草を粥に混ぜて振舞われた。
 普段は遠慮して粥の一杯も口にしない真幸だったが、奇功という祝い事の席だったので一杯分のみ食したが、その中途半端が良くなかったらしい。
 横になっても休めそうになく、しかし動き回るには億劫に感じて、こうして周囲の切り立った崖の景色を眺めながら、ぼんやりと水を飲んでいた。
 こんな気分なら本当は城の尾根に登って、隙間無く配置されている曲輪でも眺めて城の堅固さと様式美を楽しみたいところだったが立つのも億劫で断念していた。
 そんな状況でも、来るべきものは来る。
「―――。また人肉を送りつけてきたのかしら」
 供給はあるが需要はない。
 だが、放置するわけにはいかない。
 いまやこの城で一番余裕があるのは自分なのだから。
 家康がこの城を落とす工作の為に送り込んでくる伊賀者。
 これを打ち払うのは真幸の役目だ。
 感情も無く、反応も無く、更に主君の命令だからこそなのだろうが凝りも無く、定期的にやってきては跋扈しようとする名も無き伊賀忍者達。
 命のやり取りをしているという気が失せ、真幸は彼ら忍びに対しては既に人でもなく魔物でもなく生き物ですらなく、現象としての対処しかしなくなってきていた。
 見つける。
 殺す。
 その二つだけだった。
 向こうはこちらが何をしようとも、怯むことなく逃げることなく変わることなくただ仕事をこなそうとするか、襲い掛かってくるだけ。工夫が無い。
 そして真幸は一度たりとも彼らに後れを取ったことは無い。
 もしかしたら一人残らず毎回殺しているからなのかもしれないが、真幸の迎撃に備えた対処をしていることは今まで一度たりともなかった。
 この日を迎えるまでは。

 億劫だと全身で訴える身体を無理に動かして、いつも伊賀者が侵入する見張りの死角になる場所に向かうと、死骸が並んでいた。
 そこにいた伊賀者は既に一人残らず死に絶えていた。
「え?」
 虚を突かれた。
 そしてすぐに警戒を強めた。
「な、何者!?」
 返答は刃となって返って来た。
「くっ……」
 元々伊賀者と立ち会う気で来ていたので、すぐに太刀を抜いて応戦する。
 が、思うように身体が動かない。
 見ると数名の襲撃者は伊賀者と同じ黒装束で、伊賀者と同じように無言で襲い掛かってくる。
「私に刃向かおうだなん……っ……」
 一気に切り伏せようとするが、不意に立ち眩みがして膝をついてしまう。
「くっ……」
 その様子を少し観察してから、襲撃者は足音も立てずに一気に詰め寄ってくる。
「くそっ」
 何とか太刀を横に振って周りを牽制すると、もう片手で脇差しを抜くと正面から振り下ろされる刃を辛うじて防いだ。
 咄嗟でしかも無理に抜こうとしたせいか、鞘ごと受け止めていた脇差しのその鞘が相手の刀の刃で割れる。
「か、身体が……」
 力で負ける筈のない相手に力負けしている。
 相手が尋常ではない力量の持ち主というわけではなく、真幸の方の力が異常なほど落ち込んでいるのが原因だった。
 だらけていた時はだるいと思っていただけだったが、こうして力もうとして力めない状況に、初めて自分の身体の異常に気付いた。
「く、くぅぅぅ……」
 歯を食いしばって堪えていると周囲の気配が増える。
「……っ!?」
 どこから沸いたのか今まで以上の似たような装束を着た連中が二人を取り囲む。
 無論、狙いは真幸一人だ。
「なっ……」
 容赦なくそれぞれが振りかぶった刀が真幸を襲う。
 力比べを諦めた真幸は斬り付けられるのを覚悟して抵抗を止めて、廊下を転がる。
「……んぁっ!」
 数名の刺客の刃が真幸の身体を斬る。
 思うように身体が動かないこともあって致命傷を避けるのがせいぜいだったが、幸い深くは斬りつけられなかった。
「意思を感じる……伊賀者じゃ、ない……」
 部屋の隅に追い詰められた真幸は、壁を背にして抜き身の太刀を支えにゆっくりと立ち上がる。身体中が麻痺しているせいか彼女は怪我をあまり気にした様子がない。
そのせいか襲撃者達も追い詰めたまま少し躊躇する。
「……もしかして、甲斐忍?」
 片手を壁に当て身体を支えつつ、襲撃者達を睨みつける。
「随分と思い切った真似をするわね。これが知れ渡ってみなさい。先方衆の誰一人として猛田の為に戦わなくなるわよ」
「―――別に拙者は命が惜しいわけではない」
「っ!」
 一人が喋る。これには他の者も驚いたらしく、その者の方を見た。
「横田殿……」
 その声は紛れも無く横田甚五郎尹松その人だった。
「このまま耐えられては御舘様が兵を出してしまうかも知れぬ。それは避けねばならない」
「設楽ヶ原の合戦の二の舞を怖れてるの?」
「……」
「あんな大魔術、そうちょくちょく使えるものじゃないってのに……」
「だがもう、あのような精鋭はこちらにはない。今は傷を癒さねば成らぬ」
「だから領国でもない遠江の出城なんかくれてやればいいってわけね」
「そうだ」
「そんな弱腰で国が守れるわけないじゃないの」
「意見の交換をするつもりなどない」
「だったら―――」
「俺も腹を斬る。黄泉で会おう」
「待って! 殺しちゃ駄目!」
「命乞いなど見苦しい!」
「―――承知した」
「何?」
 その声と共に、疾風が吹き抜ける。
 渦巻く風と共に、刃が光り、呻き声が重なり、巨木が倒れるが如くその場に居た黒装束の襲撃者達が倒れていった。
 無論、その中に横田甚五郎尹松も混ざっている。
 奇襲どころか戦闘ですらなかった。
「淫魔。久しいな」
「え、ええ……お久しぶりで――すね」
 何事もなかったかのように刃を収める剣士を見て真幸は漸く肩の力を抜く。
「うむ。二年ぶりぐらいになるな」
 そこには己の全てを研ぎ澄ましたかのような佇まいの少女が立っていた。
 凛としたその姿の主こそ、前の越後国主餓杉謙信であった。


「しかし、勝負にもなりゃしない……大したものよね……」
 真幸は一番近くの襲撃者の様子を屈みこんで容態を確認する。
「このような者らと勝負など出来よう筈もないことぐらいは汝も知っておろう」
 今はこの世に存在しないことになっている少女はそう言って肩を竦めた。
「しかしどうしたのだ。汝とてこやつらに後れを取るほど弱くはあるまい。
餓えていたのか?」
「多分、食事に一服盛られた」
「油断だな」
 一言も反論できない。伊賀者を徹底的に消すことで、その手の不安は解消しているつもりになっていたが、味方に盛られるとは流石に思ってもみなかった。
「盛られたのはそなただけか」
「多分。せっかくの奇功だし、手をつけないわけにはいかない。そこを狙われたわけ……はぁ……毒草というよりも痺れ薬だと思うけど」
 毒物なら飲まされた時に気付いたが、麻酔に使う薬草か何かだったらしく不覚にも身体の異常に気がつかなかった。そして明らかに狙い討ちにされていた。
「ところで、どうして謙信様がここに?」
「今の余は狎我尾阿虎だ。阿虎と呼び捨てにして構わぬ」
 着ている物も物は良かったが、国主だった頃に比べて地味だった。
「じゃあ、その阿虎はどうしてここに? 直江与六の元で静養しているとばかり思ってたけど」
「汝に奪われた破瓜の傷が痛んでのう……是非仕返しをせねばと思っておったのよ」
 そこで意味深にニヤリと笑ってみせる。
「……え" 。あ、で、でもあれは夢の中だった訳だし!」
 途端に慌てだす真幸。
 この目の前の存在を敵に廻すことの恐ろしさを本能的に感じていたので、本気で動転する。
「まあな。だからこそ寄生虫の精神が滅びただけで、余は依然としてこのままじゃ」
 人間であり、人間でない。
 そして化物でなく、神でもない。
 毘沙門天の心は死に、その力だけが残った状態である今の狎我尾阿虎は不確かな存在となっていた。
「え、ええとでも、その……あー」
「わかっておる。余の為ではないのは知っておるが、感謝はしておる。だからこそ、こうしてここに来たのだ」
「じゃ、じゃあ……」
「うむ。この狎我尾阿虎。受けた恩は必ず返すことにしておる。この九死の状況、汝を救いに来た」
 かつて真幸達が越後入りした道のりを遡り、信州で真田昌幸に詳しい状況を聞いてここに来たのだと説明する。彼も自分を気にしてくれていたらしいと思うと真幸は嬉しくなる。
「甲斐に新しい城?」
「どうやら猛田勝頼はここを捨て、その間に本国防備の準備を始めたらしい」
 信玄が何の為に甲斐に城を築かなかったのかわかっていない馬鹿共めと付け加えながら、城内では知りえなかった近況も並べて伝える。その城の縄張りを真田昌幸が任され、彼自身は身動きが取れないのだと最後に結ぶ。
「君主が家臣を捨てた以上、家臣が忠を尽くす理由も無かろう。元々汝にどこまで忠義があるかは謎だが」
「酷い一言。耳が痛いわ」
「ははは。だがその様子では本当に何も知らなかったようだな」
「まあ、この人達が握り潰していたんでしょうね」
 気絶している横田達を見て肩を竦める。
 汗と血を流したせいか、体調は常に戻りつつあった。
「で、どうする。このまま城を出るか?」
「まさか」
「だろうな。城主としての責は果たさねばならぬ。ならばやはり」
「ええ。一斉に討って出る」
 今、決めた。
「無謀だな」
「ええ。ちょっと耳を貸して」
「ふむ?」
 そこで真幸は考えていた案を阿虎に語って聞かせた。
 恐らくこれが自身最後の武者働きだと最後に結んで。


「帯刀!」
 数日後、横田、江馬、栗田ら首脳だけと広間で合議してから、部屋に戻った真幸は真っ先に腹心の岡部帯刀を呼ぶ。
「今日の昼から、食事の量を徐々に変えていって頂戴」
「と申しますと?」
「まずは今の粥一杯二食から粥ニ杯三食あたりに。それから徐々に米の飯に変えていって。急に普通の飯にすると弱ってる胃が保たなくなるから」
「すると遂に出撃ですか」
「ええ。一か八か、というより運が良い人だけが生き残れるかも知れないという賭けね。掛け率は判らないけど」
 率は相当に低い。数分あるかどうかだ。
「……」
「何か言いたいことでもあるの?」
「降参はなさらないのですか」
 彼も噂は聞いていたらしい。
「確実に兵卒が助かる保障があるのならそうしたわ」
 攻城戦は詰めの状況になったことで汚堕から軍監まで派遣されていて、降参しても騙まし討ちの確率が高いことを話す。阿虎から聞いた情報だった。
「ですが、それでは丹波様のお命が……」
 乱戦になっては運不運が生死を分ける。例え他の人間よりも遥かに強い妖魔であっても圧倒的に負け戦の混戦では大将首として真っ先に狙われる命を落とす確率が高いと訴える。
「何、心配してくれるの?」
「家臣が主の心配をするのは当然です!」
「そう……」
「も、もし丹波様がお許し願えるのなら……」
「何?」
「この身、身代わりにさせていただけないでしょうか」
「――え?」
 真幸を見る帯刀の目は真剣だった。
「……ど、どういうこと」
「某、元服して以来ずっと丹波様に御仕えして参りました。その間、丹波様より受けた恩に対して、殆ど返せずにいたことが心残りでありました」
「ちょ、ちょっと……そんな改まって……」
「目をかけていただいた御恩、ここで返させて下さいませ!」
 そう言って深々と頭を下げる。
「た、帯刀……私はそんな……」
 岡部帯刀を側近として引き立てたのは遠縁に繋がるからというよりも、彼の父の存在があった。
 忌魔川義元のお気に入りとして一軍を任させるようになった真幸の筆頭家臣として 岡部郷で蟄居していた母の家臣から選ばれたのが彼の父だった。
 真幸が鳴海城に入った時もその副将として十分の働きをして、それ以降何度も助けられていた。だが猛田軍の駿河侵攻の戦の際、小競り合いの中戦死してしまった。
 その父の後を継いだのがこの帯刀で、その縁で真幸は彼をそのまま父の役目を引き継がせたのが始まりだった。
 どちらかと言えば親として姉として面倒を見るというよりも、気紛れな自分の慰めとして、玩具としてからかう為に置いていた理由が強い。
 だからこそこうして感謝されるのは実に面映く、心苦しかった。
「で――」
「お願い致します!」
 額を擦り付けてまで土下座をし、懇願する。
「……いいのね」
「はっ。有難き幸せ」
 普段愛用の甲冑は真幸の身体に合わせて作ってあるので、幾ら細身とはいえ帯刀には着せられない。
 だが、鎧の装飾さえ誤魔化せば、冑を深く被って、髻を解いて後ろで束ねればそうは気付かれなかった。元から髯も生やさず、籠城が続いたことで栄養不足気味の青白い顔は真幸を良く見知るものでなければ気付かれないぐらいの変装になる。
「なんか不思議ね」
「何かおかしいところでも?」
 着せ替えた姿を見てため息をついた真幸に帯刀が尋ねる。
「まるで、こうなるようになっていたみたいで」
 恐らくこの入れ替わりはそう簡単に露見しない。
 そう思うと、何か皮肉を感じぜずにはいられなかったのだ。
「もし、そうであるならば……私は、きっとこの時の為に丹波様のお側に仕えていたのでしょう」
「……」
「光栄です」
 そう言い切る帯刀に対して、真幸はもう何も言えなくなっていた。


 桜が散る季節になった。
 夕餉時になると城内の至るところ、あちらこちらで炊爨の煙が立ち上っていた。
 粥から普通の米飯に切り替えて十日が経とうとしている。
 大切に残しておいた兵糧もこれでも底を突いていた。
 夕餉として食べる分以外の米を全て焼き米にすると、各隊に携帯食として均等に配るように手配し、夕食が終わるのを待つ。
 食事が換わっていくにつれ、兵たちもいよいよ最後の軍事行動に移るのだという意識が芽生え始めていた。
 そしてここ数日は今日か明日かの思いで、その時を待っている筈だった。
「これより半刻後、敵に寝入りばなを奇襲する」
 甲冑を着込み、真幸は集めた中隊を率いる部将以上の将兵を前に命令を下した。
「目標は各自おのおのの生還。それぞれの方向で敵の攻囲が薄いところを見つけて突破すること。城のことも私のことも猛田のことも考えないで、ただただ自分の命を大事にして、必死に落ち延びなさい。自領の続く東方面は警戒網が張ってあって危険だから、北や西の方がまだ安全ね。海が苦手でなければ南という手もあるわ。命令はただ一つ―――どんな手を使ってでも生き延びなさい」
 その言葉はそれぞれの隊の侍大将に伝達され、兵の一人一人に伝えられた。
 天気に恵まれたのか先の見えない曇り空の下、 「―――敵を斬って斬って、斬り捲れ! 敵が懼れるほどに、怯えるほどに!」
 その僅かな隙を作り出せたものこそ生還の可能性があると言い放って、 「出陣っ!」
 半刻後、高天神城の将兵は一斉に城を出て包囲する屠狗川軍に鬨を上げて襲い掛かった。

 信濃、そしてその向こうにある飛騨の地を目指して北へ抜けたのは江馬右馬允直盛の率いる一軍だった。彼の直属である飛騨衆と栗田一族の率いる信濃衆が中心となった一隊は全体の半数近くを引き連れていた。
「敵の屍を乗り越えて行け! 故郷に戻るのは誰の力でもない! 己を救うのは自分のみぞ!」
 細作の調べで知った、地形の関係で兵を配置せず塀を二重に掘っただけの手薄な場所を狙って兵を突っ込ませる。板と縄を駆使して兵たちが堀を乗り越えた頃、漸く石川隊がその異変に気付いて詰めて来ていた。
「敵襲!」
 その騒動を余所に、横田甚五郎尹松率いる甲斐忍の一向は「犬戻り猿戻り」といわれる峻険な尾根道を伝っていた。真幸襲撃に失敗した彼らだったがその目的は別に真幸の命だった訳ではない。猛田勝頼が援軍を寄越すことを恐れたが故の暴走だった。
 更に嘆願を行なおうとしていた城将真幸を捕らえて詰め腹を切らせることで即座に開城し、勝頼の出兵を阻止する。真幸からすれば嘆願などはもうするつもりもなかったのだが、他国者を容易に信じる甲斐者ではない。結局、今回の強行突破策を告げることで、何とか妥協することにした。勝頼の援軍が打ち負かされるよりは城の将兵が全滅した方がマシと思っていたらしく、真幸の案は彼らに受け入れられたのだ。出撃した岡部隊、江馬隊と別行動を取ったのは信頼関係の問題だった。それぞれの軍を構成する先方衆の侍大将達が、甲斐者である彼らの受け入れを共に拒絶したことから、この脱出口を使っての退避という行動に繋がっていた。
「……こうなったからには生きて、御舘様に会わねば!」
 横田尹松は自分の行いに過ちを感じていない。今、猛田と屠狗川、汚堕連合軍がぶつかれば必ずまた負ける。そう信じきっていた。
「周りが周りの者を手助けしつつ、声を出さずに進め……」
 小声で指示を出す彼ら一隊は、密やかに城を離れつつある。
「……」
 そして駿河遠江の衆を率いるのは城主岡部丹波守真幸であった。
 地元の利を生かして地理に明るい者に誘導させ、本丸ではなく敢えて西の丸から北西に向けて残り全ての兵を出撃させていた。
「……っ!」
 侍大将達の指揮の下、各々が柵を乗り越え、それぞれがそこに駐屯していた大久保隊に襲い掛かる。寝入りばなの奇襲は成功していて、その隊が動揺しているのが判ったからだった。
 幾らか大久保の陣から鉄砲の音がするが、まるで狙いになっていない。
 全軍で突入すると耐え切れず、陣営が乱れた。
 勢いに乗って蹂躙すべく岡部隊は広角に陣を広げて、相手を圧倒する。
 狭く鋭く一点を突き抜ける手は、まだまだ後方に大軍が控えるだけに使えない。
 敵味方が判らなくなる乱戦に持ち込むしかなかった。
 先頭を駆ける騎馬武者は小脇に槍を抱えながら、全軍に対して采配を振るう。
 忠実で堅実で、そして乱れのない指揮であった。
「全軍を使っての足止めとは考えたものよね」
「えっ!?」
 旗本も投入し、全ての兵馬を目の前の大久保隊に投入させているその騎馬武者の横に味方の騎馬が寄ってきて声をかけた。
「そして君は一人残るわけだ。何れ起こる敵の逆襲に飲み込まれる為に」
「……っ!?」


 警戒網が厳しく通り抜けるのは不可とされている東への出口。
 この方面を駆ける騎馬があった。
 全軍を賭けての、大逆襲戦。
 それは城に籠もる各々一人一人の生死を賭けた大脱出戦であり、それは一兵卒から城主まで変わらない。
 だが、ここをこうして駆ける武者は一つだけ事情が違っていた。
 この騎馬は西で戦う城からの全ての兵馬を囮にして、一人脱出を図っていた。
 夜襲の一報が入って以降、城から飛び出してくる敵兵を迎え撃つ為に張り巡らされている警戒網は厳しくなっていたが、全兵力を投入しての反攻撃という情報が伝わってからは、こちらに廻している余剰兵力を西の戦場に投入する命令が出てかなりの部隊が警戒網から抜け落ち、まだその穴を塞ぐ再配置が出来ていない状態だった。
 騎馬武者が狙っていたのは、この唯一の隙であった。
 この地域を張っていた一軍の代わりが来る前に一気に駿河へと駆け抜ける。
 隊を率いずに一騎で駆けることで、距離を稼ぐ。
 城を攻囲する為の砦に近づく前に馬を捨てて紛れ込めば一人逃れることができる。
 西の戦場はこの脱出劇の為の壮大な囮とも言えた。
 喧騒を背に、ひたすら駆ける。
 少しでも早く、少しでも東へ。
 そんな思いで、馬を飛ばす。
 巡回にも見つからず、気配を巧みに交わして先を急ぐ騎馬の遥か後方。
 その武者が来た道を辿るように、振動が近づいてくる。
 先を急ぐ武者の馬よりも早く、大きな音をたてて、別の駒がやってきた。
「―――っ」
 気付いたのか、逃げる武者が後ろを振り返る。
 冑から先端を結わっただけの長い髪が覗いた。
「………」
 追い上げる方は、その動作の分だけ更に距離を詰める。
 馬が一頭、駆けてきていた。
「待て待て待て――――――っ!」
 馬の背から声が届く。
 ずっと叫び続けてきたのだろうが、枯れるということはなかった。
 だが、それ以上に馬の首が邪魔をしているのかその背に乗っている筈の追い上げてくる武者の姿が、前からは見えなかった。
 だが、逃走を諦めたかのように馬の歩を緩めさせる彼女には、追ってくるのが誰だか判っていた。
「卑怯だぞ――――っ! 皆が精一杯戦っているのにお姉さんは一人で逃げようだなんて!」
「……」

 家康に過ぎたる者が二つあり。
 唐の頭に本多平八。

 屠狗川家康軍一の猛将、妖魔誅殺の第一人者。
 天下御免の化物退治赦免状を持つ勇者、本多平八郎忠勝だった。
 忠勝は単騎で追いつくと、 「やっぱり言われたとおりだった! 絶対討つ! 討ってみせる!」
 そう言って愛用の大槍、蜻蛉切を軽々と片手で振り回して構えて見せた。
 城の将兵全員を囮とした相手が許せないとばかりに顔を赤くして、睨みつけているその姿は馬に乗られ、鎧に着られたような姿でありながらも百戦錬磨の荒武者の風格を漂わせていた。
「お姉さんの卑怯者! まさかとは思ったけど本当にこんな真似をするなんて!」
「そうか。汝が余を討つと言うのか」
「そうに決まってるじゃない……え……」
 絶句する忠勝の目の前で、冑の紐を片手であっさり剥ぎ取る。
「え? え? あれ? なんで!? どうして!?」
 忠勝の前で駒を返したのは狎我尾阿虎だった。
「え!? ……お、岡部のお姉さん……は?」
「真幸殿なら今も城下で必死に戦っておる。あの乱戦の中に今もおるだろう」
 遠く離れた西の喧騒は僅かしか聞こえてこない。
「え? 何で? どうして!?」
「それこそ、武将としての勤めを果たす為であろうな」
「……え?」
 嘯いた阿虎の言葉に忠勝は反応できない。
「汝ら、共に余を討つ為に一緒にやってきたのではないのか? その汝があ奴をを信じずにいてどうするというのだ」
「だ、だって……その……」
「汝の追い方は見事だった。最初から一騎駆けがあると予想しての追い方だと判る。言っては悪いが汝がそんな予想をしていたとは思えぬ。誰に聞いたのだろうな」
「え、そ、それは……」
「ふっ」
 阿虎は真幸にあの夜言われたことを思い返す。

「ならば余は討って出る汝の横に着こう。そなた一人ぐらい守って見せるぞ」
「それじゃあ駄目」
「む? 言っておくが、他の者も助けよというのは……」
「わかってる。そうじゃないわ。私は一軍の先頭に立つ。一部将として、そうしないといけないから」
「ほう」
「だから阿虎には一騎駆けして欲しいの」
「何故だ?」
「一斉に撃って出て、その混乱の最中に一騎飛び出す……そうするとそれに気がついた誰かさんは必ず追って来る筈だから――
「確かにその通りだったな」
「え?」
 一人ごちる阿虎の言葉の意味は当然、忠勝にはわからない。
「まあそんなことは余に興味はない。それより、やらぬのか?」
「……あ」
「以前は慶次郎殿と二人掛りで斬り合おうたが決着はつかなかった。今ここで改めて汝とケリをつけるのも悪くはないと思うが如何か」
 阿虎は唯一身に着けている腰の黒太刀を抜く。
 二尺七寸三分の黒光りした刃が闇夜に隠れつつも、忠勝に向けられる。
「……」
 忠勝は一歩も動けない。
 実力差というよりも事態に思考がついていかずに後れを取ったままの状態だった。
 元より互角とも言い難い上に、虚を疲れたままの状態で刃を突きつけられ、生まれながらの武才を誇る忠勝であっても動くことが出来なくなっていた。
「……あ」
 蜻蛉切が震えていた。
「あ……ああ……」
 忠勝は微かに、しかし確実に震えていた。
 裏をかかれたからではない。
 相手が阿虎だからではない。
 そこまで判っていながら、何故自分が震えているのか忠勝には判らなかった。
「―――行くが良い」
「え?」
 突きつけられた刃が離れる。
 阿虎は刀を納めていた。
「今の汝は隊の指揮も放ったままであろう? 魔物狩りもいいが武将としての勤めを果たす方が大事であろう」
「……う、うん」
 生気を抜かれたまま、忠勝は強く槍を握り締めていた指の力を抜く。
 柄が汗で滑るぐらいに濡れていた。
 軽く呼吸を整えていると、阿虎は馬を休めているつもりなのか向きを東に返して、ゆっくりと離れていく。
「あ、あの」
「なんじゃ?」
 その背に忠勝は声をかける。
「岡部のお姉さんに伝えてくれる」
「なんと?」
「疑ってごめんなさいって」
「なら直せ……いや、そうだな。会えたら伝えておこう」
「うん」
 そう言って忠勝は来た道を戻って戦場に帰っていく。
 心の乱れを振り捨て、魔物狩りから戦人に戻る為に。
「さて、その真幸殿は生き延びることができるかのう」
 真幸が最大の難関と言っていた忠勝は去った。
 例え偶然まみえようとも敵として真っ直ぐに向かってくる可能性は低い。
 阿虎としてもこれで借りは返したと思っていた。


「た、丹波……さ……ま」
「うん」
 岡部軍を指揮する岡部帯刀の目の前に真幸はいた。
 傍から見れば、主将の脇に控える副将のようであっただろう。
 それはいつもの二人の関係であったが、ただ違うのは互いの着込んだ甲冑がそれぞれ逆であったことだった。
「な、何故……ここ……に……」
 兵を順次投入し、今では小隊単位の車懸で大久保隊を押している岡部隊全軍を前にして、岡部帯刀は全てを忘れたように立ち尽くしてしまった。
「西国に斑猫って虫が居るの」
 正面の大久保隊を押し返したものの、入れ替わった大須賀隊の勢いに押され一進一退の攻防に入っていた。自然二人も乱戦の中に巻き込まれる。
「赤、緑、紫と目立つ色彩の身体を持った甲虫で、その姿で山道を行く旅人の前に現れてはその人の前を跳び歩いて道を教えるように見える事から、道教えと呼ばれているそうよ」
 互いに槍を突き出して正面の敵を防ぎながらも、真幸は喋るのを辞めなかった。このままだと下がった大久保隊は勿論、周辺の部隊も集まってきて持ち堪えきれなくなるのにも関わらず落ち着いていた。
「でもその虫って肉食で毒があるんですって。更に幼虫時代は土に穴を掘って、中で待ち伏せして獲物を捕らえて育つんだそうだけど」
 帯刀が苦労して敵の槍をあしらう横で、平然と真幸は自分の敵を槍で突き倒して話を続ける。喚声と剣戟が飛び交う最中、その声は透き通るように帯刀の耳に届く。
「そんな虫が……親切心で人に山道を案内してくれるのかしら? 帯刀、貴方はどう思う?」
「―――っ!」
 両翼から廻りこんできた敵が数名で二人を囲み、一斉に槍をつける。
「ちょ―――ぼんやりしてたら死ぬわよっ!」
 驚愕の表情で固まった帯刀を見て、真幸は馬をぶつけて割って入り突き出された槍を槍で叩き返す。
「あ、あ、ああ……」
「いいこと、岡部帯刀! 私の部屋に出入りするものしか見つけられない抜け道の封鎖! 私の心身を城に縛り付けるまじないの話! 少数で不安な心境の飛騨衆への流言! 選民気質の甲斐衆への煽動! この日の為に私を城に縛り付けるまでは良かったけれど……最後の申し出は失敗だったわね」
「……っ」
「貴方が好きな私は淫魔の私じゃない。岡部丹波守真幸としての私でしょう?」
「あ……」
 確かに帯刀は真幸を慕っていた。
 だがそれは武将としての主従関係での話だ。
 妖魔として気侭に生きる真幸に対してではない。
 大将として豪放泰然とした真幸に対するものだった。
 戦場で退却する真幸の身代わりになることはあっても、卑怯にも一人で城を出る真幸の身代わりをするとは思えない。このことが真幸にとっての確信だった。
「こんな真似! 貴方が! 一人で! できるはずが! ない! する! と!」
 真幸は一言言いながら、一人を討つ。
 帯刀を庇うように、先導するようにして二人で駒を進める。
「た、丹波様!」
「もう保たない! 押し返される前に一気に切り開くわよ!」
 立て直した大久保隊と優位に戦を進める大須賀隊が陣場争いで揉めている。
 真幸は今しかないと判断する。
「うだうだ言わないで黙ってついてくる! 話は全て終わった後にゆっくり寝床ででも聞くわ!」
「………」
「伝令! 全軍、このまま縦列に……錐行の陣を敷くように言って! て……もう無理か! 錐行! 錐行!」
 大声で錐行を連呼する。最後の突破にはこの陣形にすると事前に打ち合わせていた。
 意図が伝わった近くの隊は彼女に倣って錐行と叫んで周囲に知らせ、陣を作ろうと彼女を中心に兵馬を寄せる。
「錐行! 錐行!」
 岡部真幸は、最後の突撃に向かおうとしていた。


「雨宮十兵衛家次様、御討ち死に!」
「最早、これまで……かっ!」
 江馬右馬允直盛の隊の将士の殆どは包囲網を突破することが出来なかった。
 石川康通隊をあしらった頃を見計らったように進出してきた水野勝成の隊と、東から廻ってきた鈴木重時隊が援軍として詰めてきたのだ。
 そのやり口は強引で石川隊諸共堀に突き落とし、引き上げてから確かめて討つという無茶な戦法を前に数で劣る江馬隊は押しやられた。
 江馬右馬允直盛。
 父の人質として甲斐に送られた彼は元々飛騨善立寺の僧で円成といった。
 還俗して猛田氏に仕えた彼は、己が武勇で手柄を立てて足軽大将にまで上り詰め、高天神城へは出世として入城した。
 決して恵まれた出自ではなく、仮にこの戦で生き延びられたとしても大した褒美が望めない身である。それは降っても同じことだった。
「ならば―――」
 せめて死に花ぐらいは見事に咲かせてみせる。
 猛田餓杉と強国に囲まれ、飛騨神岡の故郷を追われ、青息吐息の小豪族の末子であっても、槍を取り刀を振う時はそんな境遇は忘れられた。そして向かってくるのは冑首を狙う大勢の足軽。
彼らにとっては自分でさえも価値ある存在なのだ。

―――生き延びるよりも、よほど甲斐があるではないか。

 残った兵と共に固まって城を背に奮闘を続ける。
 既に高天神の城は落ちたも同然で、どこからでも敵は群がってきていた。
 どうやら死ぬのには少しも困らない。
「はは、あはははははははは!」
 人からは寡黙で思慮深いと言われて、自分では周囲の耳目に怯えて生きていただけと自嘲する彼は、数十年ぶりに腹の底から大笑いをして、敵の雑兵から奪った粗雑な槍を構えた。
「来るがいい。我は飛騨神岡江馬左馬介時盛が次子! 江馬右馬允直盛なり!」
 その叫び声は大勢の喚声の中にかき消えていった。


 決死の夜襲だった。
 全軍の半数を率いた岡部隊の将士は大久保忠世の陣を襲い、後退させた。
 だがそれも僅かなことで、救援に駆けつけた大須賀康高の軍に先を阻まれ、次第に押されていった。
 日頃から高天神城の付け城である横須賀城にいた大須賀隊は地の利に聡く他の部隊に先駆けて駆けつけたこともあり、勢いがあった。一度は大久保隊を押し出した岡部隊も次第に行く手を失い、所々軍を遮断され、城に追い戻される。
 江馬隊と同じように岡部隊も城を占拠した諸軍に堀に叩き落されるか囲まれて討ち果たされるかのどちらかの運命が待っていた。
 その頃には生きていた城兵も僅か数えるほどしかいなかったであろう。大須賀隊と大久保隊の持ち場争いの最中に両軍の合間を抜けるように突撃した中隊も、その殆どが討ち取られ、首を取られた。その中には踏み止まって殿を努めた城将岡部丹波守真幸のものも混ざっていた。
 こうして数ヶ月に及ぶ攻城戦は夜が明ける頃には終着を迎えていた。


 岡部丹波守真幸が戦死した。
 江馬右馬允直盛が戦死した。
 栗田刑部吉信が戦死した。
 雨宮十兵衛家次が戦死した。
 その他多くの先方衆の将兵が首となって屠狗川軍の首実検に晒された。
 その中でちょっとした騒ぎがあった。
 善光寺別当栗田刑部吉信が寵愛する小姓に時田鶴千代という者がいた。
 寵愛を受けるだけあって彼は美童であったのだが、その者の首が紛失したのだ。
 だが名のある大将というわけでもなく、その首を上げた本多平八郎忠勝の名は既に知れ渡っていたのでさして問題とはされなかった。何かあったのか、彼は常日頃の陽気さはなく、決まりの悪そうな顔をして普段以上に落ち着きが無かった。
 そしてその直後、岡部真幸の首が偽者であることが判明した。
 冑こそ普段の真幸のものであったが、首は副将の岡部帯刀のものであった。
 一時騒然となったがすぐに真幸の首は見つかった。帯刀の冑を被ったその首は帯刀の首同様に死軍となって殿を務めただけあって刀傷だらけになっていた。そしてその首は忠勝の進言もあって晒されることなく、首塚に埋められた。
 その後敵味方共に多くの死者を弔い、城を破却してこの局地戦の全ての始末をつけることとなった。
 家康は重要な拠点であった高天神城の落城は喜んでいたが、この勝利は喜んでいなかった。それだけ死傷者の多く出た激戦だったのだ。多大な犠牲を伴った苦い勝利となった。
 だがこの高天神城が落城したことは猛田にとって致命的な出来事になった。
 生き延びたのは甲斐者の横田甚五郎尹松らのみで、先方衆と呼ばれる周辺の者はほぼ全て戦死した。
 そのことで「猛田は先方衆を殺すことで自分達は生きながらえようとしている」という風説が甲斐以外の猛田諸国に流れた。
 汚堕、屠狗川らの調略であり意図的に流した流言であったが、実際の死者を出した諸国はその噂をこぞって信じ、遂に救援に出なかった勝頼の行動と前線の城は先方衆が守るという猛田伝統の方式が「見殺しにする」という言葉を裏付ける結果となった。横田甚五郎尹松の意見はこうした事態を想定していなかった。
 こうして、猛田は見放されていった。
 元々猛田勝頼は亡き信玄の四男であり、その武才を誰よりも強く継いでいた。
 無論、愛妾の子ということもあって可愛がられ、自分に批判的で謀反まで考えていた長男義信を自害させ、盲目で僧籍に入った次男と早死にした三男を外すと他の子よりも年長ということもあって後継者として選ばれた。
 だが、彼は跡継ぎにはなれなかった。
 今際の際に指名されたのは彼の子信勝で、まだ幼子である彼が正式な猛田家の跡取りとなった。彼はその後見人とされた。
 その結果、国は乱れ崩壊した。
 そもそも、信玄ともあろう一代の傑物が死後に国が乱れる要因を作ったのは何故だろうか。
 猛田勝頼、彼が彼女であったことを知るものは少ない。
 親類衆と近臣のみである。
 では勝頼の子として生まれている信勝は誰の子であろうか。
 彼女には妻がいたが、女同士で子は為せない。
 信玄の最後の子こそが、信勝であった。
 元々は勝頼に継がすつもりで彼女を彼として扱っていたのだろう。
 保守的な国である甲斐で女が国主というのは忌魔川などと違って認められることではなかった。だからこそ甲斐者思考そのままな穴山ら親類衆が勝頼に非協力的だったのだろう。それが理解できていたからこそ信玄は勝頼を男として扱おうとしたのだ。
 だが、勝頼を男とする為に娶らせた妻に自らが産ませた子を見て、狂ってしまった。勝頼の弟達は年若くて後継者としては難しい。
 だが信勝は生まれたばかりだが、勝頼が間に入ることで十数年の猶予を稼ぐことができる。子がいる兄の後を弟が継ぐことは不自然だが、親から長男の孫へと継ぐことは不自然ではない。
 そんなあやかしが猛田を滅亡へと導いたのだった。
 それは甲斐という国が悪かったのだろうか、信玄という存在が悪かったのだろうか。
 どちらにせよ、そのツケは勝頼にも信勝にも平等に支払われる結果となった。
「あはは……根性だけじゃやっぱりどうにもならないね」
「……父……いえ、母上!」
 敗残を繰り返した姉弟は、 「え? 信勝。私を……母と呼んで、くれる……の?」
「ずっとそうお呼びしたかった。生みの母亡き某にとって……母上は今の母上だけです」
 いよいよ追い詰められて、初めて母子になれていた。
「そう……そう、言ってくれるんだ。あは、嬉しいなぁ」
「母上……」
「こんなに嬉しいのって、久しぶりだなぁ。昌幸に告白された時以来、かなぁ……」
「……え?」
「勝頼様! 土民が押し寄せて参ります。小宮山等が食い止めておりますので山上へお引きあれ!」
「ううん。ここでいいわ」
 最後まで付き従った将士を見回す。
 泡条の家から娶った、勝頼が触れ合うことすらなかった妻とそのお付の女達が奥に控えている。
 足は血だらけで、所々薄汚れていたが勝頼には彼女たちが眩しく見えた。
「一度だけでも……」
 彼女たちのように着飾ってみたかったと思う。
 真田昌幸に思いを打ち明けられた晩、一人寝所で妻の着物を手にとって鏡の前でかざしながら泣きあかした。
 自分は猛田の棟梁として、女を明かすどころか着物に袖を通す事すら許されなかった。
「昌幸。貴方は、生きてね」
 彼の元に向かわなかったのは、せめてもの心遣いだった。
 自分を匿って共に討たれるよりは豪族として独立して生き延びて欲しい。
 こんな自分がせめてできる事といえばこれ以上の迷惑をかけないことぐらいだ。
「準備が整いました」
 土屋右衛門尉昌恒が傍らに控える。
 何の準備かは聞くまでもなかった。
 重い鎧を脱ぐ。
 鎧の下は貧相に痩せこけて綺麗とは言い難い体つきだった。
「父には似なかったわね」
 気性の荒さは祖父譲りとも言われた。
「母上!」
 この子に初陣させてあげたかった。
 最後の最後で勝頼は母となった。
「ありがとう」
 信勝の身体を抱きしめる。
 その感触を黄泉でも忘れないようにと。
「介錯御免!」
「……っ!」
 こうして高天神城落城から丸一年、天正十年三月名門猛田家は天目山にて滅びた。
 その最後は重臣の殆どが寝返っての追い詰められての滅亡だった。
 しかしその重臣も殆どは戦後、汚堕信長の長子で総大将を勤めた信忠の命によって斬られる運命にあった。甲斐の将士の全てを殺し尽くす勢いで、老若男女構わずに撫で斬りにされたと伝えられている。一方で信長の元に届けられた勝頼の首は年々傲岸不遜になり敗者を誉める事の少ない彼によって猛勇を称えられたと言われている。



 同年六月二日。
 中国出陣の途中、京都四条西洞院本能寺にて汚堕信長はその部将明智光秀に襲撃され、自害へと追い込まれました。
 絶大な権力と壮大な魔力を抱えた第六天魔王である彼が滅びたということを信じられるものはそういなかったそうにございます。
 その経緯。その理由。その状況。その事情。その動機。
 殆ど何一つ分からぬまま叛将明智光秀も信長の臣羽柴秀吉に山崎で破れ、近江に敗走中小栗栖で名も無き百姓の竹槍を脇腹に受けて死んだそうにございます。
 これがこの世を破滅に追いやる元凶の最後だとするならば、実に敢無き話だと口々に申すのが精々で、天下とやらは討った光秀を討った魔物武将の中でも異質な鼠と猿の合成獣こと十代屠身秀吉、そして剛腹かつ綿密な人間屠狗川家康へと受け継がれていくのですがそれはまた別のお話。ここでは最後に幾つかの話を添えて締めくくりたいと思います。


 穴山玄蕃頭梅雪がお亡くなりにならました。
 光秀襲撃後、都から領国に逃げ帰る家康一行とは何故か外れた彼は家康が無事逃れ出た山城宇治田原の地で土民の手によって落命したそうで御座います。
 駿河と甲斐の一部の本領を安堵され、猛田の名を受け継ぐ事を了承されていた彼は国に戻る事はありませんでした。家康が戻って最初にしたことは虐殺の傷痕が残る甲斐の民を扇動させ領主川尻秀隆を一揆で追い詰め、同時に猛田旧臣を積極的に雇い入れたことでした。信君の子勝千代信治もその五年後に早世し、自分の子福松丸信吉を入れて猛田の名を継がせた事も加えておきます。
 明智光秀も土民の手で落命しましたが、殉死したとされる共の者の顔は剥がされ、その額は埋まっていた丸い何かを抉られたかのような傷があったそうに御座います。無論、それを知るものは御座いません。何しろ土民のしたことですから。何故光秀一人のみが百姓に狙われたことも、首を届けた中村長兵衛なる者が後の世に探された時、ついに地元でその名前すら知るものがいなかったことも、何がなにやら不思議なことばかりです。
 そして泡条と争い一揆に首討たれた川尻後の甲斐を支配し、信濃も押さえて屠狗川は猛田の旧領のほぼ全てを手に入れるようになりました。
 屠狗川の旗印は意気顕揚と、その広範囲にはためいていたそうに御座います。
 その甲斐攻めの軍勢の中には岡部正綱のものも含まれておりました。
 高天神城落城後に清水城を出て屠狗川に下ったとも、猛田滅亡後に浪人しているところを拾われたとも言われております。



 天正十一年十二月。
 甲斐と駿河の両国に合わせて七千六十貫の地を与えられた岡部正綱は、甲斐郡代に任じられた平岩親吉を援ける者の一人として甲府に建てられた屋敷に詰めていた。
 しかしそれは表向きの話で、実際は平岩を除けば甲斐一の実力者として周りから認められていた。
 岡部正綱はそうなるべくして、この地位にいた。
 彼女が屠狗川の元でした最初の仕事は穴山梅雪の遺児と後家を丸め込み、重臣達を説き伏せたことであった。それを皮切りに甲斐の豪族間を廻って悉く屠狗川側につかせることに成功した。甲斐にいる汚堕の代官川尻秀隆の武力弾圧政策も皮肉なことにその工作に後押しした。甲斐制圧時に恨みを買っている彼としては、主が死んで後ろ盾がなくなったからこそ更に主君信長の行動を踏襲するしか道はなかったわけで、そうなるのは仕方が無いとも言えた。勿論そうなれば更に深く恨みを買うことになり、後の甲斐一揆では瞬く間に首を取られることとなる。そしてその煽動したのも正綱であった。その甲斐一揆で汚堕の代官達が逃げ出した信濃も接収した屠狗川家康にとっては、甲信併呑の功労者の一人として彼女の功績を称えない理由が無かった。
 数多く流れてきた旧猛田家臣の中でも岡部正綱の働きも異例なら、その認められ方も異例だった。本当はどの時期から内通していたのか、そう周りから考えられてもおかしくはなかった。
「今川刑部大輔様からの使いの者が参っております」
「氏真様の使者?」
「はっ」
 忌魔川義元の嫡男であった忌魔川氏真は滅亡後は最初は泡条、次に屠狗川と転々と流浪して今では今川氏真として都に住み着いている筈であった。一時は信長の前で蹴鞠を披露するという真似までして今日の日まで生き延びてきた彼女の旧主であった。頻りに旧領駿河を懐かしがっていると聞いたことがあり恐らくは帰国の願いへの家康への口添いの依頼だろうと推測する。因みにかつて同じように帰国を願っていた猛田信虎は勝頼の時代に嘆願したが重臣親族の合議の結果遂に甲斐の地に帰ることなく信濃高遠の地で死去している。魔人として強力を誇った信虎であったが本多忠勝に片腕を落とされ京に落ち延びた後は衰弱する一方で、晩年は人間の老人と変わりが無かったらしい。その信虎に比べれば氏真は今更無害であった。
 だが正綱は少し考えると三名の重臣を呼ぶように命じ、改めて使者を待たせるようにと伝える。


 使者は控えの間に通され、暫くそこで待つように言われて座ったまま待っていた。
 その部屋には他に誰もいなかったが、横の庭の景色を眺めることも無く正面を向いたまま正座を崩すことなく静かに待ち続ける。
 半刻も経った頃、突然三方の襖が勢い良く開け放たれて、槍を握った刺客達が座っていた使者目掛けて殺到した。
「主命により御命頂戴致す。御免!」
 左右から伸びる槍が届く前に、前に進み出て身を反らして穂先をかわしながら、槍の柄の中ほどの部分を片手で掴む。
「くっ!?」
 握ったまま己の身体を傾かせることで無理矢理槍の方向を変えて、向かって右側から突き出された槍を下から正面の槍で持ち上げるように防ぐ。
 逆側の槍は正面の男の身体がよろけて飛び出すことで、向こうから穂先を下に変えて畳を裂く。
 それを瞬時にこなすことで、挟み撃ちの一撃を凌ぐ。
「人外……っ!?」
「化物かっ!」
 人並みはずれた動きに動揺を見せる三者だったが、すぐに立ち直る。
 使者の方もすぐに手にしていた正面の刺客の槍を放し、前転して片膝をついた姿勢構えてで三人から距離を取る。そして三者並んで槍襖を作って、突進して仕留めようとするのを見て初めて顔を上げた。
「下がれ! 縫殿助! 八右衛門! 次郎右衛門!」
「「「っ!」」」
 己の名を一喝された三人は虚を突かれて、一瞬その動きを止める。
 それだけで十分であった。
 立ち上がると同時に懐から取り出した扇子でその三人の槍を叩くと、正面の襖の奥へと駆け出していた。
「しまっ……!」
「そっちは!?」
 岡部家中でも三本の指に入る勇将として名を馳せた者達であったので、その誇り故に彼らの後詰は存在しなかった。
 慌てふためく三人をその場に置いて、一気に正綱の元へと向かった。


「姉様!」
 変装を解いて襖を蹴破ったのはまさしく正綱の実妹、岡部真幸であった。
「元綱。やっぱり無事だったのね」
 突然の真幸の訪問にも関わらず、正綱はその場に座ったまま落ち着いた物腰で出迎えた。
「今の私は真幸のまま」
「私にとっては元綱よ」
「二つの綱、かしら」
「かしらかしら」
「そうだったかしら」
 軽く謳うように声を並べるが、二人の手が鳴らされることはなかった。
「殿!」
「動かないで」
 真幸を追ってやってきた三人を背を向けたままで制す。
「この短筒、慶次郎から借りたんだけど、砲身は短いけど威力は凄いわよ」
 何処に隠していたのか手には短筒が握られ、正綱に向けて構えられていた。
「短筒だと? 火縄がないではないか!」
「先込め式でもないわよ」
 刺客の一人、剣持次郎右衛門の戸惑いに真幸が答える。
 彼女が握っていたのはこの国では見られない形式の短筒だった。
「言っておくけど、玩具じゃないから」
 それだけ言って、真幸は視線を正綱に戻す。
「姉様」
「なあに、元綱」
「その名前は止めて」
「私にとっては元綱よ」
 さっき言ったことを繰り返す正綱。
「姉様はいつでも私の頼みを聞いてくれなかった」
「元綱はいつでも私の言う事を聞いてくれなかったじゃない」
「ぶう」
 頬を膨らませて抗議する真幸。
 子供っぽい仕草がわざとらしかった。
「姉様」
「なあに、元綱」
「私に言わないといけないことってないか――」
「ないわね」
 最後まで言い終わらないうちに言い切られてしまう。
「ぶう」
 もう一度頬を膨らませる。
「姉様」
「なあに、元綱」
「私に謝ったりすることってな――」
「ないわね」
「ぶう」
 真幸が三度目に見せたその仕草の瞬間、正綱が動く。
 それを見た真幸の短筒が火を噴く。
 耳を劈くような爆音が響き、後ろに控えていた三人は咄嗟に目を閉じる。

 小刀は真幸の頬を掠め、短筒の弾は正綱の背後の襖を抉っていた。

「姉様、そんなことするんだ」
「元綱ほど上手くなかったけどね」
「ぶう」
 今度は動かなかった。
 そして頬から血を流したまま真幸は表情を硬くする。
「帯刀が死んだ。私を護って。私を助けて。この『岡部真幸』の生を望んで」
「あら、そう」
「私が人間だったら……彼の子を欲しがったのかしら?」
「貴女ったらおぞましいことを平気で言うのね」
「あらあら」
「ええええ」
「「困ったことね」」
 ハモった声が空しく響く。
「岡部五郎兵衛真幸は尋ねます」
「岡部次郎右衛門正綱が答えましょう」
 妹が茶化して尋ねると、姉は茶化して応じてくれる。
 この二人はいつだって姉妹だった。
「予期してた?」
「勿論してたわ」
「そっか」
 真幸は軽く肩を竦めて、


 そして斬った。


 抜く手も見せず、手の動きも気取らせずに、まず横に一凪。
 続けて上へ跳ね上げるように斜めに斬り上げた。
 最後に鍵穴に押し込むかのように胸の真ん中にめり込ませて貫いた。
 正綱の胸に刺し込まれた鉄の塊は右手で構えていた短筒ではなく、三人の刺客の槍を払った鉄扇だった。刃が仕込まれていたらしい。
「…っ!」
「と、殿っ!」
 全ての動作の瞬後、血飛沫で後ろの三人も何が起こったのか気付いた。
 慌てて駆け寄ろうとするが、 「「来るな!」」
 斬った真幸、斬られた正綱の二人がその動きを声で止めた。
 二人とも、三人の方を見ようともしなかった。
 姉は妹を見ていた。
 妹は姉を見ていた。
 互いの顔だけを逸らすことなく睨むこともなく、ただ見ていた。
 ドサリという音と共に、正綱から何かが落ちた。
「あ、ああっ!」
 悲鳴をあげるのは人間だけであった。
 二人の妖魔はそんな現象にも視線は動かなかった。
「ああ、ああ……」
 人の喚き声も届かない。
 深く斬れていたらしく、正綱の右手が落ちていた。
 血が嘘みたいに流れ出していた。
 それでも二人は変わることなく、飽きることなく見続けていた。
「姉様」
 さっきと変わらぬ声。
「なあに、元綱」
 さっきと変わらぬ声。
「私たちって、何?」
「抽象的答えが欲しいの?」
「明確なものがいいかな」
「だったら貴女も私も、ただの淫魔よ」
「だからこのまま姉様は死ぬの?」
「ええ」
「できれば私も殺したいの?」
「ええ」
 落ちた腕からも、割かれた腹からも、貫かれた胸からも、血は止まらない。
 正綱の足元は血溜りになっていた。
 赤い赤い血が正綱の身体から逃げ出していた。
「私は真幸。私は、岡部真幸。岡部じゃない。オカベマサユキ」
 幾度名前を変えたか自分でも覚えていないが、真幸は今の名が一番気に入っていた。
「どうでも、いいわ」
「そっか」
「そうよ」
 蒼ざめた顔で、正綱は微笑む。
 血が大分抜けていた。
「元綱」
 初めて、姉が妹に呼びかける。
 正綱の声は穏やかで、清楚で、優しかった。
「ん?」
「貴女、泣かないのね」
 視界が薄れゆく正綱が見る真幸は笑ってはいなかった。
 悲しんでもいなかったが。
「うん。だって人じゃないもの」
 真幸は姉が望む答えを返す。
「そうよね」
「ええ」
 真幸が軽く肩を竦めると、ごぼっと正綱の口から血が吐き出される。
 姉はため息をつこうとしたのかも知れないと真幸は思った。
「もっと早く……」
 そして、妹に向けるべく最後の言葉を紡いだ。
「もっと早く貴女を殺しておけば良かったわね」
 悪意もなにもない。
 穏やかで、安らげる声。
 妹として長年聞き続けた肉親の真幸に向けた姉の声。
「こんな切羽詰った状況になる前に、殺しておけば良かった」
 血を分けたたった二人の姉妹同士の会話。
「私、長盛を生んだ時にね、貴女を殺さないといけないって気がついていたのよ」
「うん……」
 真幸の声は平静だった。少なくても後ろの三人にはそう聞こえていた。
 正綱はまさにもう、死のうとしている。
 絶対に助からない致命傷。
 彼女が、実の姉である正綱の命を奪うべくつけた傷。
 彼女から流れ出る血の勢いは落ちてきていた。
 無論、治癒しているわけではなく、流れ出るものがなくなってきているだけである。
 なのに両者とも落ち着いていた。
「貴女が死んで、私が死ねば上手くいった。岡部の家は上手くいけた……」
「あ」
 真幸はそこで初めて、姉が自分を見なくなっていたことに気付いた。
 真幸を捉えたままになりながら、その視線は何か遠くの向こうを見詰めていた。
 目の前で正綱を見つめ続ける真幸を見ていなかった。
「人だけが人の世を生きればいい……混ざりモノは要らないの」
 かつて彼女自身が言った言葉を繰り返す。それだけ強い信念であるからなのか、単に一度言ったことを忘れてしまっているのかは真幸にはわからなかった。
「私や貴女は要らないの……意地汚く生き続けるなんて考えちゃ駄目」
「私は……」
「人である長盛だけが岡部を育て、護っていく……血を残し、家名を維持して土に還る人だけが……それが正しいのに……母様の言葉を忘れるなんて」
「違うわ……私は……」
「親不孝者なんだから……」
「違う。私は……」
「……岡部の恥曝し」
「姉様」
 自然、真幸は強い口調になっていた。
「人でなしの私だから、人の有り様なんかわからない」
 その真幸の言葉が終わる前に、正綱は血溜りの中で崩折れていた。
 けれど、真幸は倒れ伏した正綱ではなく、視線を動かさないまま続ける。
「でも同じく人でなしの姉様にだって、人の有り様なんかわかってなかった癖に」
 初めて視線を下に向けた。
 そして片膝をつく。
 彼女の両足をも浸していた血が膝を濡らす。
「人じゃないものが人の真似をしてどうするっていうの。決して人になんかなれないのに。人に縋りついたって、人は人を大事にする。優先する。だって人だから」
 正綱の斬り落とされた右腕を拾う。
「人に尽くして、人に諂って、人に紛れ込んで……馬鹿みたい。人の為に産まれてきたわけじゃない。人の為に存在するのは人でしかないんだから。人じゃないという時点で、もう人としての道は存在しないのに。何で皆そう思わないの」
 手にしていた右腕を捨て、両手で正綱の身体を抱き起こす。
 真幸の全身が血にまみれる。
「認めないから。私は認めないから。私は岡部真幸。真の幸せが欲しくて、ずっとずっと欲しくて、ここにいる。家の為に、正しき綱として生きる姉様のようになんてなりたくない。私は幸せになりたい。私として。私のままで。姉様は家の為に死ぬことも幸せかも知れない。でも私は私自身が幸せじゃないと真の幸せにはなれない」
 姉の躯を前にして幾度も繰り返す。
「間違っているのかもしれない。おかしいのかもしれない。でも私だから。そう考えているのは私だから。だから気にしない。私は私のことで精一杯だから」
 何度も、何度も、繰り返す。
「だから私はもし正しい道があるのならそれに気付くまでは、今の私のまま幸せを探す。少なくても私を生かしてくれた人達はそれを認めてくれているから」
 が、躯はその言葉に答えることはなかった。
「だから生き汚くたって、私は生き続ける。姉様がどう思ったって、ね」
 そう結んで、静かに正綱の身体を横たえさせた。
 斬り離された右腕も本来あった位置に並べた。
「縫殿助。八右衛門。次郎右衛門」
 真幸は自分の背後で主の死を見取った三人の家臣の名を呼んだ。
 これだけの騒ぎを起こしながら、他に駆けつけるものが無いのはあらかじめ正綱が厳命していたせいなのだろう。
「………」
 刺し違えるつもりだったのか。
 それにしてはお粗末過ぎたと真幸は思う。最後もきっともう一手があると信じたからこそ、躊躇わなかった。もしかしたら一方的に斬られるつもりだったのだろうか。そうとも思えなかったが、否定もできなかった。
 もしかしたらこうして悩ませることが正綱の狙いなのかも知れない。
 だとしたら、それは――― 「はっ」
 真幸に返事を返したのは剣持次郎右衛門だけだった。
 三人とも俯いたまま、身体を震わせていた。
「貴方達はあらかじめ姉様の遺言は聞いているわね」
「……」
 今度は誰も返事をしなかった。
「姉様が死んだことでこの岡部家は長盛が後を継ぐことになる……確り護って盛り立てなさい。あの子はまだ若年。貴方達がついていなければ周りから侮られるわ」
「はっ」
「お言葉、胸に刻みます」
 桜井縫殿助と大塚八右衛門が真幸の言葉に頷いた。
 恐らく正綱は同じことを言っていた筈だ。だから自分が言う必要は無い。
 そう真幸は思ったが、言わずにいられなかった。
「次郎右衛門」
「はっ」
「私は高天神城で死んだ。岡部家はあの子一人……私はもう、あの子の側にはいられないから、頼むわね」
「必ずや」
 もう帰ることは無い。
 一族は姉を中心に総意として、淫魔の血の放逐を願った。
 それに逆らって生きようとする真幸の居場所はもうなかった。
「――さよなら」
 そう言い捨てて真幸は三人の前から、正綱の死骸に背を向けて歩き出す。
 三人の家臣たちは顔を伏せたまま、身動き一つしなかった。
 だからその言葉が死骸に向けたのか、三人に向けたのか、一族に向けられたのかは判らなかった。
「ふう」
 裏門から静々と真幸は屋敷を出た。
 末端まで命令が行き届いているらしく、門を守る小者も無言で返り血に塗れた格好の真幸を見送る。
 外は凍てつくような寒さだった。
 二度と交わることの無い綱。
 初めから繋がっていなかったとは認めたくなかった。
 振り返ることなく屋敷を後にする真幸を、己の首を小脇に抱えた武士が出迎える。
 人目を忍ぶように物陰に立っているくせに、その衣装は目立つことこの上ない。
 前田慶次郎利益と呼ばれる男であった。
 だが、真幸はそれを笑うこともなく、軽く息を吐いて借りていた短筒を利益に返した。彼はこれを帯にそれぞれ二挺括りつけて馬に乗る。槍で届かない敵を討つのだと笑っていたが、使われたことはまだ無いらしい。
「今頃気付いた」
「何がだ」
「私さ」
「うむ」
「武将に向いてないわ」
 ちらほらと積もった雪が見える甲斐路を二人並んで歩き出す。
「母様は正しかった。私より姉様の方がよっぽど向いていたのよ」
 この一年、岡部正綱という存在の働きこそ戦国武将の名に相応しいものではないかと痛痒に感じていた。
「拙者はそうは思わぬ。確かに正綱殿の働きも立派であった。しかしそれが真幸殿の行いを否定するものにはなるまい」
 高天神城落城後、行き場の無い瀕死の真幸を引き取ったのは利益であった。
 治療に費やすこと一年、身体中の傷が消えるのに半年とほぼ寝たきりになった彼女を世話し続けたのにはまさにその奮迅を彼が認めたからであった。
 彼は彼女を武士として認め、だからこそ迎え入れていた。
「私は、槍や刀を振り回すのが好きなだけ。一軍を率いて馬で駆けるのが楽しいだけ」
「それこそ槍働きの武者として―――」
「兵卒の生死も、自軍の状況も、そして武者としての心構えも何もわかっていない」
「む」
 利益は真幸の言葉にこれ以上口を挟むのは無為だと感じて口をつぐむ。
「自分だけが、自分自身だけが大事だから。武将として、人として大事に思うものをそうは思えない。私は―――家も知らない。先祖も知らない。子孫も知らない」
 初陣からずっと共にあり、真幸の腹心中の腹心であった岡部帯刀が正綱の命令により高天神城で真幸を罠にかけたのはまさしくそれであった。岡部党と呼ばれる岡部一族の長である正綱の命こそ一番であり、その理由が御家の繁栄の為とあっては、自分一人の感情で背くことなどできなかった。
「そんな妖魔が、一端の武将になろうなんておこがましいにもほどがあるわ」
 真幸の時折見せる淫魔としての奔放さは、身近に接する者としては心地よさを覚えたとしても、家と一族の中心と考えると先行きの見えなさと不安定さばかりが目立ってしまった。そして新たな主君家康が徹底した妖魔嫌いというのも決断を後押しさせた理由だった。己よりも一族を重視せねばならない苦渋の果てに岡部帯刀は真幸を追い詰めたのだった。
「私は自分だけで精一杯。人一人救えやしない」
 全ての家臣を高天神城で殺してしまった真幸。更に多くの家臣を従えて栄え続ける正綱。
「だから、私はもう、いいわ」
 最後に踏み止まって殿を務めて真幸を落ち延びさせてくれた帯刀。
 彼は武将岡部真幸を認めてくれた最後の部下だった。
「武将を辞めるというのか」
「ええ」
 既に岡部真幸は戦死したことになっている。
 誰が偽首を用意してくれたのかは知らなかったが、既に首級は塚に埋められていた。
 今、名乗りを上げてどこかに仕官したところで、どうなるものでもない。
 身一つで客分として戦うことはできるだろうが、そこまでする気概は失せていた。
 かつて師父太原雪斉は死ぬ直前に第六天魔王汚堕信長を滅ぼすことを彼女ら姉妹に託した。そしてその魔王は今、この世にはいない。
 真幸の目的はなくなっていた。
「次に何をやるか……ぶらぶらしてゆっくり決めることにする」
 彼女の寿命は人よりも長い。
 魔力を損なわなければいつまでも存在することができる。
 彼女を継ぐ存在を作らない限り。彼女を殺傷する者が現れない限り。
 望むがままに長く、その存在を続けられる。
 その間に、幸せになれればいい。
 長さは関係ない。
 満足できさえすれば、それでいい。
 彼女はそう思っていた。
「諸国を放浪するか」
 真幸は利益と越後へ旅をした時を思い返す。
 旅というほど落ち着いたものではなかったが、それでも十分に楽しかった。
 そしてその時に得た知己によって、今の自分が存在していた。
 こうして生き永らえる原因となったと改めて真幸は実感する。
 今は道を、教わろう。
 多くの者から沢山の道を。
 そして自分の道を作っていこう。
 自分一人だけの道を。
 そう思い、呟いていた。
 彼女らしい曖昧さといい加減さで。


「……それも、いいかも」


 そこで初めて、真幸は自分が泣いていることに気付いていた。



 忌魔川義元母子、猛田信玄父娘、そして屠狗川家康と三家を渡り歩いて仕えた岡部正綱が甲府の屋敷で死去したのは天正十一年十二月の冬の寒い日の事でありました。
 岡部の家は長子長盛が弱冠十六で家を継ぐ事となり、その家名の高さと大録、そして多く抱える歴戦の古強者を苦労せずに受け継いだ彼を世間は「小船に荷の過ぎたるが如し」と嘲ったそうに御座います。
 ですが長久手の合戦などに従軍し、叔母真幸を討った大須賀康高らと共に先陣として奮戦し、首級二つを挙げるなどしてその戦功によって世間に武名を知らしめました。
 その後も真田昌幸を相手にした第一次上田合戦の一つ、丸子表の戦いにおいても敗退した屠狗川軍にあって感状を家中の勇士共々賜るなどし、岡部家は家康の関東移封と共に江戸上総・下総で一万二千石を与えられ、最後には福知山で五万石を領し、後の岸和田藩六万石の祖として大いに栄えたそうに御座います。


―――今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり


 処は異世界、時は戦国。
 散った桜の一枝が、何処かに根付くこともままある話で、これは忌魔川の一将として、唯一栄えた家のささやかで実に密やかな物語で御座いました。
 最後に一言。



 めでたしめでたし。




                〜幻獣辞典・銀祇篇〜 『斑猫』の巻



                                  <完>