■『毘沙門天』の巻■



 異世界の話で御座います。
 そこは人という生き物が世界を支配していました。
 その世界に住む人以外の生き物や、生き物ですらないものたちはこぞってこの人による世界支配を受け入れる他はありませんでした。
 そして世界の至る所で人同士が支配を争う時代、悪鬼羅刹が人に抗い、時には人に混ざって、それぞれが魍魎跋扈という有様。
 これはそんな時の、日本という島国の僅か百年余りの騒乱の時代の話で御座います。


『拝啓 正綱姉様。ご壮健でいらっしゃるでしょうか。こちらは何とか無事にやっております。
 というか暇です。かなり暇です。無茶苦茶暇です。この暇で暇で仕方が無い……』

「手紙と一緒に来なくたって……」
「だってー」
 膝の上に開いた書状と目の前の相手を交互に見比べてため息をつく女性。
 その女性に呆れられながらも、退屈だということを全身で表すかのように、膝を崩して座っている女性。
 似たようで似ていない声、似ていなさそうで似ている顔。
 違うのは一人が肩の辺りで切り揃えているのに対して姉が腰まで伸ばしているその黒髪の長さと、着ている服装ぐらいでした。
「今、こっちは出陣の準備で忙しいのは元信もわかってるでしょ?」
「姉様姉様。私、今は長教と名乗っているから」
「また名前変えたの?」
「そうなのそうなの。だって前のは義元様から貰った元が入っているんですもの。屠狗川家康君も捨ててることですし、心機一転気分転換」
「名前を呼ぶこっちの身にもなりなさい」
「姉様も変えればいいのに」
「私はこの名前が気に入っているからいいのよ。全く、私より義元様に気に入られたからこその偏諱でしょうに……」
「でも今の御舘様には姉様の方が気に入られているんじゃないかしら」
「そうね。清楚好きみたいだしね」
「お陰でこっちは一介の部将扱いさ。ぶぅぶぅ」
「その方が気楽でしょ?」
「んー、でもでも年下には年下の味わいがあるけど、おっさんにもおっさんの味わいも捨て難いといいますか……脂達磨に見えて筋肉質の御舘様のその太くて逞しいモノを顎一杯に受け止めるのはその……ぅん♪」
「ふふふ、見境がないだけじゃないの」
「まあ、それはお互い様ということで」
「仕方がないわよね。私達はこうなんだから」
「うんうん。こうなんだから」
 そんな二人の、互いに互いの身体を視姦するかのように眺め回す仕草は見た目の年格好には不相応な厭らしさを覚えます。
「もうこの子ったら……可愛いんだから」
「あはー」
 二人で笑い合ってパチンと掌を合わせる仕草は、この姉妹の癖でした。


 改めて紹介致しましょう。

 姓は岡部。
 名は姉は正綱に、妹は元綱。でも今は長教。


「ところで姉様」
「何かしら?」
「そのお腹の子の親って誰?」
「………さあ?」
「私達の種族が自然に孕むことってまずないんじゃなかったっけ?」
「本当に、吃驚よね」
「産むの?」
「ええ。勿論」


 この二人は実は、淫魔だったのです。




                   ■『毘沙門天』の巻 ■




「小笠原の説得には丹波守殿こそが相応しいかと」
 岡部姉妹が世に出て十数年と更に数年が経ち、忌魔川家臣だった彼女らは主家の没落と共に、その領土と共に猛田家に仕えるようになっていた。それは他の殆どの忌魔川旧臣がとったのと同じ行動であって深い理由は無い。
 師父であった老魔術師太原雪斎の遺言で、彼女らは今の世を破壊する第六天魔王を滅ぼすことを目的にしていたのだが、彼女らは猛田信玄の力で勝とうとはしていなかった。
 それは猛田信玄が人間だから魔王の生まれ変わりである汚堕信長に勝てないと判断したからではなく、単に亡き太原雪斎が信長に勝てるのは屠狗川家康唯一人だと言っていたからであった。その言い切る根拠と深い理由についてはわからなかったが、偉大な魔術師として力を振るった彼の言葉を姉妹は信じ、その為の手助けを誰一人知られぬよう密かに続けていた。
 いわば猛田家臣としての今の立場は仮の姿であったわけだが、この戦乱の世を生き延びる為に、その勤めを果たして現在に至っていた。
 老師の予言通り、甲斐の天台座主大僧正として人としては絶大な法力を得ていた猛田信玄も第六天魔王に勝つことは出来ずに逆に死を迎え、その唐突の死により猛田軍は混乱することになった。
 本来世継ぎになる猛田四郎勝頼が、父の遺言により正式な跡継ぎとして認められなかったことが一番の理由だった。

『余の死を三年隠した後、勝頼の子信勝に家督を継がせて勝頼はその後見となれ』

 その珍妙な遺言により、御親類衆が世継ぎとして認められなかった勝頼を軽んじ、信玄子飼いの家臣団もそれまで同格の部将程度であった勝頼を急に主君と仰ぐこともできずにいた。勝頼は彼らの誰よりも若かったのの、素直に従えない原因になった。
 その混乱が長引いたために、勝頼が猛田軍の総帥として跡目相続をするまでには時間がかかり、本格的に軍事行動を再開するようになったのは年が明けてからであったが、戦わせれば猛田軍は強かった。失ったものは信玄一人であり、その精強を誇る武将達と兵士達は誰一人欠けていないのだから道理である。
 年明け早々に美濃に攻め入って明智城を落とし、そして今度は遠江へ出陣して高天神城を囲んでいた。
 そして城が落ちるのも時間の問題であった。

 そして先ほどの穴山信君の一言がこの攻囲軍の軍議を支配していた。
 今回の戦に狩りだされている猛田軍の名のある部将は僅かに小山田信茂ぐらいで、総大将である猛田勝頼に次ぐ実力者であり、この駿河方面の抑えとして信玄に信頼されていた彼の言葉に反対するものはいなかった。
 猛田勢が高天神城を囲んで一ヶ月近く経とうとしていたが、その兵力の内訳は当主勝頼率いる旗本が二百騎程度で、小山田ら諸勢を除いた主力は穴山信君率いる駿河先方衆であった。
 先方衆とは、猛田軍に降伏した敵方の家臣団であり、その役目はその名の通り戦の先方として真っ先に戦わなければならない存在である。そして駿河先方衆とは、かつてその地を支配していた忌魔川の家臣団が中心となっていて、岡部姉妹もそこに含まれていた。
 御親類衆筆頭であり、江尻城主として駿河を収める穴山信君の意見である、普段から一番熱心に関わっている東海の戦について彼に対して異論が出るはずもない。
 結局、その日の軍議は彼の主導のまま、特に反対も無く片付いていた。

「丹波殿、確と頼むぞ」
「はっ、玄蕃頭様の仰せの通りに」
 駿河先方衆の一人である長教からすれば、直接の上役である穴山信君の命令を拒むわけにはいかなかった。別室で改めて信君から言われ、神妙な顔をして承った長教はその足で同輩の先方衆達が集まっている部屋に入る。
「はふぅ……」
「おう、丹波守殿。此度は大役を仰せつかったようじゃな」
「とんだお役目ですわ」
「ははは」
 控えていた依田信守、信蕃父子に向かって愚痴をこぼす長教に、信守は朗らかに笑う。
「長教、大丈夫なのか」
 笑う父の横で信蕃が気遣う。
 依田父子は信濃の出身なので長教達のように忌魔川旧臣ではないのだが、駿河侵攻後すぐに二俣城に入って以降はずっと駿河衆として馬場信房、穴山信君と歴代の駿河在番の旗下に入っていた。特に息子の信蕃の方は長教と歳も変わらないこともあって、意気投合していた。
「信蕃。心配してくれるのはキミだけよ、もう……やっぱり穴山様に嫌われているのかしら」
「お前の姉さんは先君に気に入られていたからなぁ」
 先君、信玄が実力主義を謳い、身分の不確かなものでも実力次第で引き立てていたことに信君は不満だったらしく、信玄の死後は引き立てられたものに対して殊更冷たく当たっている。猛田四天王の一人、内藤昌豊でさえも信虎時代に一度出奔していたことがあり、それを気に食わないでいた信君に言いがかりをつけられた程で、猛田の者で信君の余所者嫌いを知らないものは居なかった。
「全く……私はどちらかと言えば先君には好かれてなかったのに、とばっちりよねぇ」
 信玄は華々しい武功者よりも、才知に長けた者の方を好んでいたようで、彼に取り立てられたものにただの無骨者は少ない。特に長教が武辺者というわけではなかったが、城に籠もって主君の首を要求して名を挙げた彼女よりも、氏真が逃亡した後も城に拠り降伏勧告に対して堂々と渡り合った姉の正綱の方を好み、側においていた。三方ヶ原の合戦でも手堅く武勲をあげ、今は駿河の清水城を与えられている。単に女人としての好みの差もあったのかも知れないと長教はこっそりと心の中で付け加える。
 信君の今回のこれまでそういう経験のない降伏勧告の使者の長教起用は、どちらかと言えば岡部姉妹に対する嫌がらせに近いものがあった。
「しかし、流石に堅城だな」
「汚堕の援軍は長島叛癌寺の存在があるから動けない筈じゃよ。そこを強調するしかないじゃろうな」
「城主の小笠原長忠も三田村合戦では名を挙げた猛将だ。むざむざと城を明け渡すとは思えぬ」
「ただその割には冷遇されている。現に家康も大した処置を行なっているとはいえないし、付け入るところはあるんじゃないか」
「高天神城城主は冷遇とは言わないだろう?」
「いや、援兵を出さない今の現状を……」
「だからそれは信長抜きの戦いを家康は避けているからで決して長忠を見捨てているとか思わないぞ」
 この場に集まっていた他の諸将も加わって高天神城の見取り図を広げて、あれやこれやと話し合う。
 先方衆とは常に最前線に立たされて常に死の危険を伴う面々なだけに、共同意識が強かった。長教自身に課せられた使命も、可能な限り話し合って万全をきせる為の努力が払われていた。こうした普段からの結びつきが大事だということを弱い立場の彼らは身に沁みて知っていたのだ。
「せめて井戸さえ落としておけば、楽になるのに……」
「連署して、上申してみるか?」
 絵図を見ながら長教がため息を突くと、信蕃が助け舟を出す。
「既に命令が出た後で出来る行動じゃないわ」
 身支度が済み次第出ることになっているので、今更そんな暢気な話はできない。
「しかし今の状況で相手が折れることは考え辛い。十分強気に出ておかしくない状況だ」
「そうだそうだ。最悪、斬られることも考えられるぞ」
「ちょっとそんな不吉なこと言わないでよ。気が滅入るじゃない」
「あ、すまん」
「いや、それはどうじゃろう。向こうも援軍が出ないことに不審を抱いている筈じゃし、こっちを無駄に怒らせる真似はするまい」
「でも城を枕に討ち死にする可能性も……」
「そうさせないのが使者の務めじゃよ」
「う〜、口八丁で丸め込むのって苦手なのに」
「ほほほ、人を騙してナンボの淫魔が何を仰ることやら」
「人聞き悪いわね。それが出来ていれば私は今、ここにはいないわ」
「違いない」
 そこで皆が笑うことで、一つ空気が落ち着いた。
「まあ仕方ないわ。取り合えず殺されない程度に話を繋ぎに行くしかないわね」
「だな。書面はあるのか?」
「口上のみ。だから気が楽といえば楽かも」
「経験から言わせてもらうと、親身になることじゃな。騙そうとかその場で凌ごうとか考えると見透かされるものじゃ。向こうは命が懸かっているわけじゃからな。相手の身を案じて、共に憤慨してやることじゃ」
 この場では最年長の依田信守の言葉には単純ながらも含蓄があった。小城を守る信濃者でありながらも、駿河先方衆内からの信望は厚く、こうした話し合いでは主導的な立場になることが多かった。
「こっちが攻めているからの事態なのに、身勝手なって思われないかしら?」
「そう感じさせないようにするのが仕事じゃ」
「う〜、どうせなら信守様が行って下さればいいのに」
「穴山様、直接の御指名だからな」
 落しどころが難しい使者の役目だった。楽な仕事であったら、逆に穴山党から信君のお気に入りの武者が使われたに違いないのだから、当然であった。
「まあ頑張れ。上手く行けばそのまま高天神城の城主というのもありえるぞ。遠江どころか東海でも一、二を争う堅城を貰えれば相当の出世だぞ」
 先方衆は皆、先祖代々の本領こそ安堵されていたが忌魔川家の時代に貰った領土は全て失っている。新たな土地を貰う為にも、猛田軍としての活躍をしなければならない。難事ではあるものの、活躍する機会ではあった。
「取らぬ狸の皮算用はしないことにしてるの。それに穴山様がそんな気の利いたことをしてくれるとは思えないわ」
「いや、御舘様ならはそういうところはあるぞ」
「鮮やかに決めればそれもあるかも知れないけど、長引かせてその挙句我攻めをさせるような使者ぶりでは無理よ」
「そうなると決まっているのか?」
「そうしようと思っているんだから、そうさせるわよ」
「いや、意外と長忠が好色で貴殿の美貌に眩めば、存外呆気なく手を打てるかも知れぬぞ」
 そう茶化したように誰かが言うと、
「そうそう。義元公の無礼講の際の長教殿らの振る舞いは忌魔川家の数少ない伝説の一つだからのう」
 別の部将が後を引き取る。今は同じ立場でも、かつては長教らより一段下の扱いで義元公の無礼講には参加できないでいた者達のせいか、言葉にはやや棘があった。
「あは。だったら楽でいいわよね。穴山様もそれを見越してとかだったらもう最高」
 その悪意をやんわりと払いのけて笑い話に転嫁させると、それぞれの思惑を含みながらの一同の笑い声を背に、長教は正装に着替えるべく部屋を後にした。
「……その手でいこうかしら。意外と上手くいったりして」

 馬鹿みたいに、上手いった。
 降伏勧告の使者として城に入った翌日、高天神城城主小笠原長忠は駿河に一万貫の土地を条件に、一ヶ月の攻防を終わらせて高天神城を開城したのだった。
 一晩そのまま城内に留まるという予定外の行動があったものの肝心の降伏交渉を万事恙無く計らい、最上の結果で相手を説き落とした長教は勝頼には絶賛された一方、信君には苦虫を噛み潰した顔を向けられることとなった。
 その後、長教が自分の身体ひとつで城を奪った経緯を長忠の近臣付近から漏れるとそれでも変わらず長教を賞賛するもの、そのやり方に嫌悪を露にするもの、陥ちた長忠らに呆れるもの、城一つを奪えることにただ畏れるものと、猛田の部将達は様々な反応をしていた。
 岡部長教としての彼女の攻め手としての軍事行動はこれが最後になる。
 この数年後の汚堕、屠狗川連合軍との設楽ヶ原の戦で猛田軍の先鋭が壊滅した結果、力関係が逆転して彼女ら駿河先方衆は各々の城に籠もって防戦一方に迫られたからであった。
 設楽ヶ原の戦は初めて表向きは人間と思われたいた汚堕信長が魔王としての壮絶な闇の力を発揮した戦として、後々まで語り継がれることとなった。

 更にそれから数年、長教改め岡部真幸は高天神城の城代になっていた。
 先に奪われた長篠城、そして依田父子の籠もる二俣城に並び、遠江における猛田軍の重要な拠点として位置する為に、今や優勢になっていた家康との小競り合いで真っ先に狙われる城であった。だがそれだけ重要な城であったが故に、家康が幾度攻め寄せてもその度に勝頼が救援の兵を出し、そして猛田軍が出れば屠狗川軍は引き上げる為に、真幸自身の本当の危機はまだ一度も訪れていない。
 真幸は勝頼が甲斐を動けなくなる時こそがこの城の最後だと思っているが、口には出さない。そして勝頼が動く以上は落城はしないと知っているので、どうしても気が緩みがちになる。
 北陸加賀で餓杉軍が汚堕軍の部将柴田勝家を手取川の戦で破った動きと呼応して、勝頼が家康への牽制の為に出撃した際に、城代として歓待し代わりに武器兵糧を預かってからはすっかり小康状態に陥っていた。その為、駿河の清水城にいる姉の元へ遊びに行くこともたびたびであった。

『拝啓 正綱姉様。ご壮健でいらっしゃるでしょうか。こちらは何とか無事にやっております。
 というか暇です。かなり暇です。無茶苦茶暇です。この暇で暇で仕方が無い……』

「だからまた、手紙と一緒に来なくたって……」
「だってー」
 膝の上に開いた書状と目の前の相手を交互に見比べてため息をつく正綱。
 姉に呆れられながらも、退屈だということを全身で表すかのように、膝を崩して座っている真幸。
 何年経っても、変わらない二人であった。
 人間と人間以外のものは歳の取り方が違い、彼女達の種族は寿命が長く容姿が変わらない淫魔なので、十年未満の月日は人間にとっての一ヶ月にも満たない。
「暇って……長教。こないだまで最前線の城として勝頼様を迎えていたくせに、それはないんじゃないかしら?」
「姉様姉様。私、今は真幸と名乗っているから」
「そうだったわね」
「そうなのそうなの。だって前のは縁起が悪いんですもの。真田昌幸君にあやかって、心機一転気分転換」
「貴方の長の一字を貰って子供の名前をつけたこっちの身にもなりなさい」
「弥次郎は元気?」
 数年前に正綱は第一子を出産していた。男の精を糧とする淫魔がその精子によって子を孕むということは本来有り得ない話なのだが、その有り得ないことが正綱の身におきていた。彼女の身に放った精の持ち主が尋常な者でなかったとしか考えられないのだが、それが誰なのかは正綱にはわからなかった。
 岡部弥次郎こと後の岡部長盛は今、岡部郷にいてこの母親の城にはいなかった。
 人間の世界の岡部家の正式な跡取りとして育てることにし、その為の教育を受けさせる為に里に預けていた。
「ええ。半妖とは思えないぐらいに華奢で繊細で、凄く可愛いわよ」
「その特徴は、思いっきり姉様の血が入っているからそうなっている気が私はするんだけど」
「かもしれないわね」
「かもしれないよね」
 そう言い合うと、笑い合ったままパチンと互いの掌を合わせる。
 離れて行動を続けていくうちに、昔のようにどちらがどちらともわからないような似たところが抜けていき、仕草から雰囲気、考え方やその行動まで異なった部分が目立つようになり、逆に容姿ぐらいしか似ていなくなってきていた二人だったが、その癖を出す時だけは変わらないままであった。
「でも姉様、本当にいいのかしら」
 元々岡部家は不死原南家の流れを汲む工藤氏の末裔でとしてそれなりに由緒ある家柄だったのだが、彼女達の数代前からいつしか淫魔の家系になっていた。ただその直系こそ人間と違った寿命と生態を持つ彼女達のような存在だったが、傍系や遠い血筋になるにつれ人間と変わりのない岡部の者も多く排出していたのは余所の妖魔の混ざった家系と同じであった。
 彼女達の母、岡部美濃守信綱はそんな淫魔の血の遠い親族を選んで交配の相手とすることで、直系の血を人間に近づけようと考えていたのだが、産まれたのはほぼ純粋の淫魔である正綱、真幸姉妹だった。
 その結果、淫魔である彼女達が信綱の後を継いで岡部党を率いて今に至っていたので、人間の部将によって岡部の家を継がせようという悲願は潰えていた筈だったが、思わぬ男の跡継ぎが生まれたことで再び実現しようとしていた。
「あの子は大丈夫。何かもう皆からちやほやされて母親の私の立場が無いぐらい」
「それを言ったら叔母さんにされてしまった私はもっと立場が無いわ」
 互いに顔を見合わせて苦笑する。
「姉様。やっぱり人の世は人の物なのかしら」
「人の作った世界で人の作った国に人の作った家ですもの。人が住まずしてどうするってことじゃないかしら」
「ひとよひとよに、ひとみごろ」
「一夜ひとよに、夢見ごろ」
「可愛い人よ、離れても」
「愛しい人よ、側に居て」
 歌いながら互いの身体を慈しむように抱き締め合う。
「人でないものが人の世を守るというのも皮肉な話ですわね、姉様」
「でも人の世の中でしか、私達人でないものは生きていけないのよ、真幸」
「例え、助けた人に殺されようとも」
「例え、護った者に裏切られても」
「だから私は」
「私達は」

 遠く京の方向に顔を向ける。
 そこには魔王がいる。
 人の世を潰し、全てを破壊する為に生まれた魔王が。

「……と、言っても手を下すのは私達じゃないけどね」
「……頑張れ、家康ー」
 届くはずの無い声援をしてみせる真幸を、ちょっと遠くを見るような目で見詰める正綱。幼い頃から二人で一人だった姉妹だが、確実に距離は開いてきていた。
『正しき綱と元の綱、その名がそれぞれの行く末を決めておるわ』
 かつて彼女達の師が残した言葉を正綱は心の中だけで反芻していた。
 自分は常に正しき、正道を歩まなくてはならない。
 岡部一族の跡継ぎとしてその一族郎党の為にも。
 いずれはこの世の勝者になる屠狗川家に鞍替えして、岡部の血を護らなくてはならない。それは人の世の為に人が為す行為に近い。その為には自分の淫魔の血さえも邪魔だとするなら死も受け入れる、真っ正直な道だった。
 だが、正綱の妹の元綱は違う。今は真幸と名乗る彼女は、部将として人に似た生き方をしながらも淫魔としての自分を全面に押し出して生きていた。
 それこそ常に妖魔である元の道であり、そこには岡部という枷はない。
 彼女は自らの存在で忌魔川義元に見出され、岡部本家とは別に寵臣として引き立てられた。そして淫魔としての生き方と並んで、自分の好む部将としての生き方も楽しんできた。それは長寿ゆえに退屈を厭い、愉しみを常に追い求める妖魔の生き方そのものであり、その為には何の束縛も受け入れぬ、妖魔の原基に迫る生き方だった。
 真幸はあまりに人間の愚かさよりも賢しさ、大胆さよりも我慢強さを持った人間臭い屠狗川家康に好意を持っていない。気に入らない以上、主の人間性よりも家の繁栄を優先する正綱と違って従うことはないだろうと正綱は考えている。
「だとすれば、人として魔を使うように、あの娘を使うまでになってしまうのかしら」
 妖魔として生きる妹よりも、人として生きる子や郎党を考えるしかない立場の自分に微かに胸を痛めたが、それも一瞬だった。自分の命も重く考えない心境なだけに、目の前の妹の命も同等に軽かった。それは、人でないものだけに。
 正綱が、淫魔が、化け物である彼女が、正しくひとでなしである証拠である。
「姉様?」
「真幸。ひとつ、頼んで良いかしら」
「何々?」
 元々、暇で遊びに来た真幸である。
 一も二も無く食いついてきた。


「それで、お前は越後に入りたいと言うのだな」
「うん」
「他の誰かが知ったらただでは済まぬぞ」
「一応、影は置いてるし、今までもちょくちょく抜け出してるから大丈夫よ」
 あっけからんとした真幸に対して、真田昌幸は眉をひそめる。
 真田昌幸は曾根内匠昌世と並んで信玄の両の眼と言われた名将であり、信州上越を抑えていたので越後にも詳しかった。名前まで勝手にあやかる程にその才知に傾倒していた真幸にとって、越後入りを対して相談するのは格好の相手と言えた。
 真田家の発祥は、信濃の名門滋野家の者でありながら魔の者と交わった為に分家となった海野家の直系の幸隆が、猛田軍に従って真田の土地に移り住んだ際に名乗ったことから来ていた。
 海野家は生まれながらの半魔の一族として古くから知られていたが、魔としての能力が外見にも見えず、これといった特異な能力を発揮することのない種族だった為に、その末裔の真田の者を妖魔の者と考えるものは今は少ない。
 けれども信玄に従って家名を挙げた真田一徳斎こと幸隆の後を継いだ真田信綱、その弟真田昌輝が共に設楽ヶ原の戦で部将として命を落とし、一度は武藤家に入っていたこの昌幸が家を継いでからは、父に劣らない並外れた才知を勝頼の側で発揮していた彼に対して、純粋な人間でない家の身を非難材料にして疎む者が増えたこともあって、その出自を思い出す者も増えてきていたのは皮肉な話であった。
『甲斐の連中は気位だけは高いから……』
 風雅将軍を自称する穴山信君一人ではなく、甲斐出身の者は自国の者以外を認めない傾向が強かった。本当に外様として入った駿河先方衆の真幸らはまだしも、信玄の初期の頃から加わった真田の者などは宿将としてもいい筈なのに、未だにこの扱いである。出自を気にせずに能力主義を貫いている信玄や勝頼ら父子の方が異常なぐらいだった。
「しかし……油断が過ぎるぞ」
「策士としてはそう考えるのもわかるけど、今はまだ本格的には攻めてこないわよ」
「む……」
「万が一留守中に落城したらその時はその時」
「腹を斬るのか?」
「このまま逐電する」
「おい」
 無責任な発言に思わず突っ込みを入れる昌幸。
 真幸が昌幸と同じ発音の名前にしたのは、彼女は彼の知勇にあやかってと公言していたが、昌幸に言わせると嫌がらせだろうと信じて疑っていなかった。そんな間柄だからこそ、歳は一応真幸の方が少し上になるのだが、身分の差や性格もあい重なってため口で話す仲になっていた。
「冗談よ。でもここだけの話だけど……」
「ん?」
「先日の小競り合いの後、御舘様が武器兵糧を私の城に置いていったのは知ってるわよね」
「無論」
「それ、とても高天神城にとって十分な補給とはいえないものだったわ」
 そこで真幸は厳しい顔になる。
 姉と一緒の時には見せない、戦国武将の顔であった。
「何だと?」
「勿論、それを知っているのは担当の者だけできっと御舘様も気付いていないと思う」
 実は口止めされてたんだーと、笑うその顔からはさっきの表情は消えていた。
「担当は跡部勝資殿だったな。甲斐の金山も鉱脈を掘りつくし、猛田の財政状況は相当逼迫してるとは聞いていたが……」
「彼が着服して私腹を肥やしているって噂もあるけど、結局は設楽ヶ原の合戦が全てね。諏訪原城が落ちて二俣城も駄目になった。犬居城も落ちちゃったし、結局のところ高天神城はいつかは落ちるわ。美濃の岩村城にいた秋山様も殺されたし……。昌幸君、猛田は終わるわよ」
「丹波!」
「私、御舘様は嫌いじゃない。昌幸君も昌世君も好きよ。他にも猛田の中には好きな人は一杯いる。でもね……私の好きな人達は皆、力は持っていないの」
「……」
 真幸の言葉に、昌幸は口籠る。
 設楽ヶ原の合戦はあれだけの大敗を喫し殆どの名のある部将が戦死したのに、御親類衆を始め、他国者を阻害する甲斐者達は長篠救援軍を抑える砦に籠もった猛田信実以外は一人も死んでいない。それどころか家臣団の戦死の殆どが退却戦であったことからしても、大将勝頼が退却する以前に勝手に戦場を離脱していたことは明白なのに誰一人罰せられていなかった。勝頼もまた、彼らの命令違反を咎めることができなかった。
「お前は妖魔の者として越後に行くと最初に言ったな」
 暫くの沈黙の後、話を変えてきた。
「ええ。次の西上作戦の前に謙信ちゃんに会わなくちゃいけないのよ」
「……それは猛田にとって利となる行動なのか?」
「どういう結果になるかは判らないけど、どうなっても猛田にとって良いことにはならないと思うわ」
「くっ……」
「昌幸君、御免ね。私が猛田軍にいるのは猛田を天下の主にすることじゃないの。信長を殺す為なの」
 遠くを見るような目で呟く。
「しかし、どうしてそれを俺に話す?」
「君が好きだから、じゃ駄目?」
「淫魔の語る愛を信じるほど愚かではない」
「う〜。昨晩はあんなに愛し合ったのに」
「栄養が足りないようだから補給させてやっただけだ」
「ぶぅぶぅ。がっついてなかなか離さなかったのはどっちよ」
「……そう言えば高坂様には気付かれていないんだろうな?」
「私、あの人苦手。昨日の情事から彼女のことを発想する君も嫌い」
 そう言って、あかんべーと舌を出す。
「同じ女としてか?」
「でもあの人、人間でしょ? それなのにどーして歳取らないのよ」
 高坂弾正昌信は猛田信玄の寵愛を受けた人間で、その出自は明らかではない。噂のひとつには農民の子という話まである。だが彼女はその並外れた容姿で信玄の心を掴んだだけでなく、知友兼備の将として活躍し猛田四天王の一人に数え上げられていた。
 猛田信玄の宿敵である餓杉謙信を信州海津城にてたった一人で抑え、猛田軍総動員の戦となった設楽ヶ原の戦の際も信濃に留まって睨みを効かせ続けた結果、信玄子飼いの重臣の中では唯一の生き残りという格好になっていた。
 三十路を越えてからは容姿の衰えを人に見せたくないと、顔を覆う面頬を付けて過ごしていたが、その素顔を見たものは年齢による衰えなどないと口を揃えて証言していた。だが手足の肌が露出している部分も年不相応の張りや艶であったし、何よりも信玄自身が最後まで寵愛し続けていたのだから彼女は老けることがないのではないかと思われることも、人間ではないのではないかと言われることも信憑性があった。
「何かあの人、臭うのよね。危ない感じよ」
「でも高坂様なら俺よりも越後に詳しいぞ。お前が変な動きをしたらきっとバレる」
「折角、会いに来て旧交温めてるのに他の女の話? ぶぅぶぅぶぅ」
「そろそろ本音を話したらどうだ」
 冗談っぽく言いながらも口を尖らせる真幸に、昌幸は口調を改めて向き直る。
「俺に止めて欲しいんじゃないのか?」
「え?」
「今回の越後行き、どこか躊躇っているように思えるぞ」
「そんなことはないわ」
「まあいい。それでどうするつもりだ?」
「どうやって越後に入ったらいいかな」
「……何?」
「だから、越後にこっそり潜入させてよ」
「もしかして、俺をアテにして来たのか?」
「ええそうよ。嬉しい?」
「呆れてものが言えんな」
「出来れば昌信おばさんに気付かれないように大胆且つ繊細に、そして華麗に侵入できるように計らって欲しいんだけど」
「お前な」
「本当は天野景貫様が手兵貸してくれるって言ってくれたんだけど……」
「ほう、景貫殿が?」
「ええ。あの二股膏薬の食えない爺様。でもやっとこないだ尻尾捕まえたわ」
 天野景貫は遠江犬居城主として長年そこに居続ける存在であった。
 忌魔川の頃もいつの間にかそれなりの地位を持っていたし、猛田の時代になってからも先方衆の中でも常に領土守備に廻されて前線に兵と共に借り出されることのない扱いを受けていたので、同輩にとっては彼の謎に包まれた正体は色々な憶測が流れていた。古くから猛田に誼を通じていたのだと判ずる者、京に逃れた信虎と組んでいたのだと考える者、特別な魔力を持っていてそれを駆使することで今の立場で居られるのだと唱える者とそれぞれが勝手な予想を立てていたが、肝心の景貫は風評に意に介した様子もなく、年齢不評の容姿に飄々として掴み所のない言動をもって、忠勤に励んでいた。彼は決して目立たず、それでいて何の活躍もしないわけでもなく適度に手柄を立てるので忌魔川の頃からこの猛田の時代まで変わらず自領を守り続けてきた。
「小田原の者の手引きでは確かに不安だな」
 へへーんと自慢げにしている真幸の鼻をあっさりへし折る。
「……何で知ってるのよ!?」
「一之瀬の戦の軍監は俺だ。知らいでか」
「あー、狡い。それ最初に言いなさいよ」
「勝手に話を始めておいて何言ってるんだか。なるほどな。景貫殿の眷属の力を借りれば山だらけの越後に入るのはそう難しくないもんな」
 猛田軍が高天神城を落とす以前、まだ信玄死後の混乱から立ち直りきっていない頃に家康側から仕掛けられた一之瀬の戦にて、景貫は屠狗川軍を一度撃退している。
 山岳戦に長けた兵卒を主に抱えていてその利を生かしたことも理由の一つだが、主な勝因は山の何処からか突如として現れた大量の猿が伏兵として退却する屠狗川軍の殿の大久保隊を襲ったことからだった。昌幸は軍監として景貫と天野軍と共に行動を起こしていたので猿の発生については気付いていなかったのだが、偶然の結果とは思わずに独自に調査を続けてきて真相を掴んでいた。
「でもどうして小田原まで辿れたの?」
「土地神でない動物霊なら、泡条と繋がっていない可能性の方が難しいぞ」
 生まれつき妖魔として生まれたわけではなく、長寿の動物などが霊力を増幅させて力を得たという場合は大概、個々として存在し、人や他の魔のように徒党を組むことはない。だが、それを唯一実現しているのが泡条氏だった。山猿が乗じて魔物となった天野景貫が属するのは彼の正体を掴んでいるものからすれば納得できる話だが、逆に知っていなければまず想像できない結びつきだった。
「妖魔の中でも犬居の山神ってことになっているのに……油断ならないわね」
「全くだ」
「君がよ」
「俺かよ」
「姉様だって知らないみたいなのに……」
「俺の諜報網を甘く見るな」
「じゃあ、私の今日の下着の色は?」
「は? 白だろ」
「凄い。恐るべき諜報網ね」
「いや、それは単に履くところ見てるしな……て、そんな話題じゃないだろうが」
「あ、そうそう。つい脱線しちゃったわ」
「猛田軍とは関係ない理由で猛田軍の将軍であるお前は、猛田軍の城を勝手に抜け出して猛田軍の敵国に入り、猛田軍の不利益になる行動をする為に、猛田軍に所属する俺に力を貸せと、お前はそう言うわけだな?」
「うわぁ、その言い方じゃ、もの凄く私が身勝手で無責任な奴みたいじゃない」
「その通りだろうが」
「ぶぅぶぅぶぅ。妖魔には妖魔として人間様には知られぬ事情があるのよ」
「幾らかの魔物が種族や所属を超えて連合を組んでいるのは俺も知っている。他にも知っている人間もいるだろう。今や人も魔も汚堕信長を惧れぬものはおらぬからな」
 設楽ヶ原の戦で発動した汚堕信長の魔力は、筆舌に尽くせぬものがあった。
 その場にいた者ですら、その力を理解できたものは少なかったことであろう。ただはっきりといえるのはその力によって精強無比を誇った猛田騎馬隊の将士の大部分が死滅したことだった。
「今回のお前の行動もそれに関係するのだろう」
 それぞれ妖魔ごとにも事情はあるが、全ての妖魔にとって大事なのは人間のこの世の中を護ることだった。人がいなければ妖魔も存在できない。そしてその為の手段を選ぶことはない。人間が躊躇うことも平気でやるだろうし、人間のモラルや枠組みに遠慮することもないだろう。昌幸はさっきの真幸の猛田にとって不利益な行動になるだろうと言った言葉の意味はまさしくその通りなのだろうと納得する。
 そこまでは理解していたが、真幸がその行動を躊躇う理由を思いつかないでいた。
 今更、猛田に忠義を誓っている昌幸に気を使っているということではないのであれば、困難が予想されるからなのか彼女の嫌いな行動を求められているからなのかぐらいしか考えられないが、そのどっちでもないような気がしていた。
 どこか納得していない、腑に落ちない部分が彼女の根っこにある――昨晩、身体を重ねつつそんな思いを抱いていた。だから猛田に不利になると臭わせることで、昌幸に自分の行動を阻止させようとしているのかと勘ぐったのだった。
「正直、口惜しいがお前の行動があの魔王を倒すことに繋がるのであれば、止め立てしようとは思わん」
 設楽ヶ原の戦の際、本陣で勝頼の側にいた昌幸はその圧倒的な魔力に遭って震えが止まらなかった。人間がどうこうできる域ではないとさえ感じられた。
「じゃあ協力してくれる?」
「知り合いを一人呼ぶ。あの御仁ならば国境は勿論、越後に入ってからもお前の安全は保障してくれる筈だ」
「へーえ、そんなに凄いの」
「あの御仁一人いれば百万の敵の壁も無人の平野の如し。間違いはない」
「君がそんなに言うぐらいなら間違いなさそうね。で、いつぐらいになる?」
「何処にいるかにもよるが……早ければ数日のうちにでも迎えにくるだろう。それまでこの城で待っていれば良い」
「うん。じゃあそうする。お任せするわ」
 素早く決断したものの、どこか快活を繕ったような表情が気になって昌幸はもう一度彼女に聞いた。
「本当にいいんだな?」
「……ええ」
 今度は不安を隠さなかった。
 そして昌幸が連絡を取るべく立ち上がるのを見届けてから、真幸は胡坐をかいたまま身体を傾けるとそのままの姿勢を維持して横に倒れた。
『心はざわめくが、身体は意のままにならずということか』
 謀士らしく彼女のそんな行動にも理由をつけながらも、昌幸は自分の知る中で一番頼りになる男を呼びよせる為の文面を思案しつつその場を後にしかけて……戸口で立ち止まる。
「どうしたの?」
 振り向かず、気配だけで察した真幸が尋ねる。
「ところで、お前はどうやって景貫殿の真の正体を見抜いたのだ?」
「味。彼の精液、神霊な存在にあるようなものを感じなかったのよ。獣特有の味と臭いしかしなかったから、そこから推測したんだけど……」
「……もういい。聞いた俺が馬鹿だった」
「ぶぅぶぅ。何よ、それ〜」
 僅かに空気を軽くしてから、今度こそ昌幸はその場を後にした。
 例えどのようなことになろうとも、自分を頼ってきた彼女を放って置くことは出来なかった。

 そして真田本城の客として逗留していた真幸の元に、迎えが来たのは数日後のことであった。
「殿、例の御仁が参りましたぞ」
 昌幸の叔父で沼田城主矢沢頼綱の子、頼貞が報告にあがった時、二人は碁を打っていた。
「うむ」
「……」
「殿?」
 待ち侘びていた筈の報告に対して、生返事を返す主君に怪訝な表情を向ける。
 碁に熱中しているのかと思って見ると、盤上はまだ序盤で没頭するような展開には至っていなかっただけに首を傾げる。
「丹波守様、迎えの者が参りましたぞ」
「ええ」
 扇子を顎に当てて考え込む真幸も、盤上に目を釘付けにしたまま顔も上げなかった。
「……じゃあ、行くわ」
「そうか」
 それから僅かな間、固まっていた二人だったが真幸のその一言で固まっていた空気が溶ける。雰囲気が和らいだ。

「待たせて済まぬな」
「うむ。勝手にやらせていただいておるぞ」
 客間に招かれていたその男は銚子を傾けて手酌で酒を飲んでいたが、入ってきた昌幸に対して軽く手を挙げて会釈する。
 鎧を着込んでいるその大男の隣には何故かもう一領鎧が積んであった。その脇には長槍が置かれていたが、大男の脇にも彼愛用の槍が置かれていたので、昌幸は内心で小首をかしげた。
「? 呼び立てて申し訳ない。が、貴殿にしか頼めぬと思ったのでな。詳しくは手紙で知らせたとおりだが……」
「あ――――っ!!」
 言いかける昌幸の言葉を遮るように、甲高い声があがった。
「岡部のおねーさん!」
 その声と共に、男の横の鎧が動いた。
 いや、大鎧に着込まれている格好で不釣合いの子供が立ち上がって叫んでいた。
「……え? え? あ、ああああああああぁっ!!」
「……な、何だ?」
 驚愕する真幸と、冑の奥から満面の笑みを浮かべる子供、そしてニヤリと笑う大男の顔をそれぞれ見て、事情のわからない昌幸は慌てる。
「慶次郎殿。こ、この子は一体……」
「ボク、子供じゃないもん!!」
「ははは、実はな……」
「違うもん!違うもん!違うもん!」
「喧しぃっ!!」
 昌幸が叫ぶ横で、真幸は目の前の二人組を頭痛と共に思い出していた。


 今の主君の先代、猛田天台座主大僧正信玄一世一代の東上の時、まだ真幸が、岡部五郎兵衛長教と名乗っていた時のことだった。
 遠江の屠狗川勢を駆逐していよいよ三河入りの準備をしている頃、駿河先方衆として動員されていた長教は、猛田に降った豪族の三河の城の受け取りを済ませて本陣に引きあげる途中だった。
「私たちは御留守番〜♪ 寂しい♪ 寂しい♪ 御留守番〜♪」
「全然寂しそうに聴こえませんが」
「そお?」
 鼻歌交じりの表情で振り返る主に、彼女の副将たる岡部帯刀が冷ややかな目で頷く。
「いくら穴山様と別行動になったとはいえ、こんな部署では何もできないではありませぬか」
「えー、だって。どうせ無駄だもん」
「は? 無駄と言いますと、手柄を立てる機会がないということですか?」
「もう、帯刀ったらわかってないわね。姉様に聞いてないの?」
「正綱様は御舘様の信頼を置かれ、前線に出ていらっしゃいますので我々には……」
「私付きにして悪かったわね」
 ブゥと頬を膨らませてみせると、帯刀は慌てる。
「い、いえ……そんなことは」
「もう、冗談よ冗談。でもどうせ姉様の側にいても大した活躍はできないわよ」
 その狼狽した顔だけで満足したのか、不貞腐れていた表情を瞬時に改めてニカっと笑ってみせる。その悪戯っぷりに振り回されることはたびたびらしく、帯刀は大きくため息をつく。そして戒めるように表情を引き締める。尚更自分が確りしないとという自覚が芽生えるらしい。
「今回の戦は上洛戦ということもあってかいつになく家臣団は勿論、親類衆も総動員という戦ですからね。今までのように我ら先方衆が……って何しているんですか!」
 長教は馬を寄せると、スルリと身体を滑らせるようにして副将の帯刀の馬に乗る。
 長教の馬の手綱は彼女付きの徒歩の兵が握っていたので、主を失った彼女の馬が暴れることは無かった。逆に、帯刀の馬の方が急にもう一人乗り手が増えたことで抗議するように嘶いた。
「先方衆がなぁに?」
 帯刀の背中にしがみ付くと、腕を廻して尋ねてくる。
 互いに鎧を着込んでいるのでそれほど密着しているという気はしなかったが、それで平常心でいられるわけも無い。
「で、ですから……」
「ですから?」
 首を曲げて抗おうとする帯刀に対して、長教は目だけで続けるように促す。
「わ、我々、駿河先方衆は地盤を固める程度の裏方に……た、丹波様っ!」
「あんまり暴れると落ちるわよ」
「で、ですから……そ、そこは……」
「気にしない気にしない」
「気にしないって……や、止めてくださいっ」
「ここはそう言ってないようだけど」
「でーすーかーらーっ!!」
 行軍の先頭でじゃれ合う二人に対して、将兵は呆れているのか慣れているのか、誰も気に止めてはいないようだった。
 長教の馬を曳く兵でさえも、隣のやり取りに目を向けることはなく黙々と歩いていた。
「や、やめっ……あ、ああぁぁっ!」
「あれ? あ、ああっ! 勿体無いっ」
「………」
「………」
「………」
「……貴重な蛋白質を無駄にしちゃ駄目よ」
「だ、誰のせいですかっ!」
 半泣きで抗議する帯刀を「まあ、慣れればもう少し頑張れるから。一緒に頑張ろう」と何の慰めにもならない言葉で宥めようとするも、「頑張りたくありませんっ!」と下帯を握り締めつつ俯かれると、流石に悪いと思ったのかそれ以上はちょっかいをかけずに小姓が寄せて来てくれた自分の馬に跨って行軍を続けた。
「まぁ、無駄な理由はもう少ししたらわかるわよ」
「?」
 そんな独り言を最後に、それ以上は無駄口を叩かずに本陣に向って馬を向ける。
 彼女らの帰還する場所は猛田天台座主大僧正信玄ら、三河侵攻を続ける本隊ではなく、駿河方面の仕置きを江尻城の馬場信房と共に任されている猛田御親類衆の筆頭、穴山信君の軍である。尤も信君自身は己の城である興津城の将兵を率いて本隊と共に三河の国境に出向いているのではあるが。

 忌魔川義元が死んで十二年の月日が経っていた。
 この十二年の間、この世を破滅へと追いやる厄災神、第六天魔王を憂える存在達――それには人も妖魔も神も加わっていた――による抹殺の手段は悉く失敗していた。
 これが平和な世の中であれば一致団結してまだ完全に進化を遂げていない魔王の討伐、もしくは封印は成し遂げることが出来たかもしれない。
 が、この世は兵乱に満ちていた。人が人同士争い、僅かな領国の寸土を奪い合う有様では人に紛れた魔王を倒すのは難しかった。
 僅かに危機を感じ取った妖魔達のみが他の妖魔、もしくは人間について魔王と魔王に付き従う妖魔を潰すべく手を打っているだけの状態であった。
 岡部正綱、長教姉妹もその戦乱の世に逆らうことは出来ず、四年前に忌魔川領に侵攻してきた猛田に駿河城に籠城して下った後、その力を認められて家臣として収まっていた。
 養父にあたる太原雪斎が忌魔川義元に仕えていたからこその忌魔川家家臣だっただけに、彼の死後まで忌魔川に殉じる気も無かった姉妹にとってみれば、この降伏も取り合えずの状態であったようだったが、彼女等に付き従う将兵にしても猛田にしても知る由は無い。
 尤も今後の方針については姉妹で微妙に意見が分かれていた。
 あくまで雪斎の遺言に従って討魔の力を持つ松平元康、今の屠狗川家康を立てて方策を練るべきだと考える姉の正綱に対して、妹の長教は魔王こと汚堕信長に絡め取られた屠狗川家康では太刀打ちは出来ないのではと、下手に近づくことを不安視していた。
『屠狗川信康少年如きが、あの宝玉を使いこなせるとは思えないんだけどね……』
 義元公死後、正綱が手を廻して母と共に忌魔家の人質だった屠狗川信康の額に埋め込んだ、亡き雪斎和尚秘蔵の宝玉には第六天魔王を滅ぼす力があると聞いていた。
 だが、それで本当に滅ぼせるのかどうかということに関しては長教は疑問に感じていた。
『だいたい、あの家康君……目つきがあんまり好きじゃないのよねぇ』
 第六天魔王こと汚堕信長と同盟を結んでいる家康がその魔王を滅ぼす存在であることは、彼女達が関わっている妖魔のグループでも、その話は知られていない秘中の秘であった。

「どうかしましたか?」
「え? ううん、なんでもない」
 長教を気遣うように帯刀が声を掛けてくる。
 同じ岡部姓ではあるものの、彼は先祖代々の所領に住む岡部党として土着しているので、その力は人間と変わりはない。
 彼が長教の副将として仕えているのは部将としての能力に拠るものであって、特に異能を持っている訳ではなく、無論汚堕信長が第六天魔王の生まれ変わりであることも、世界が滅亡の危機に瀕する運命も知らない。
「今どのくらい……っ」
 距離を聞こうとした瞬間、地響きがした。
「あいたー、舌噛んだわ……地震?」
「もしかしてこれが丹波様の仰られたもう少ししたらわかるという……」
「え? うーん、ちょっと違うような……」
 長教が指差す先、砂煙の舞う遥か前方を二人して見据えた。
「早馬、ですかね?」
「人がいないみたいだけど……放れ駒かしら?」
「でも、一直線にこっちに向ってきますよ」
「うーん」
「何か背中に乗ってますね」
「あ、本当……って、ちょっと危ないわよ!」
「わ、わ、本当に来るっ!?」
「行ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ――――――――っくよ〜ん♪」
「「はい?」」
 主従の声が重なる。
 鹿の角の冑と黒糸威の鎧が物凄い勢いで突進してくる。
 いやそれら鎧兜に身を固めた武者の駆る馬が土埃をたてて襲い掛かってきた。
「げっ、小さいからわからなかったわ」
 長教の言葉が届いたわけではないだろうが、
「うきーっ! 小っちゃいって言うな――っ!」
 そう言いながらその騎馬武者は飛び込んできた。
「暴れ馬だ!」
「鎧が乗った馬が岡部様の方へ!」
「槍も鞍に引っ掛かってて危険だ!」
「誰ぞ、あの馬を止めろ!」
 この突然の事態に弓を射る準備をする間もなく、距離を詰められた将士はおっとり刀で各々の得物を取って立ちふさがる。
「きーっ! きーっ! きーっ! ボクがいるもん! ボクが乗ってるんだもん!」
 顔を赤くしてその武者は長さ2丈程の柄に青貝をちりばめた槍を振り回す。
 その瞬間、彼の回りにいた騎馬武者や徒歩の足軽達が真っ赤な鮮血を撒き散らして斃れていく。
 そのまま鎧触一蹴の勢いで、立ちふさがる大勢の人馬を薙ぎ払いながら一直線に長教の方へ馬を走らせてくる。
「……え"?」
 その光景が信じられず、呆けていた長教のすぐ近くまでやってきて初めて声を掛けられる。
「そこのお武家さん、かぁぁぁぁぁくごぉぉぉぉぉぉ!!」
 全身に返り血を浴びながら、間延びした声で向ってくる相手に虚を突かれた格好になった。
「ちょ、ちょっとぉぉぉぉ!?」
 慌てて、馬上で槍を構えて迎え撃つ。
 が、その子供の槍捌きの前には何の意味も成さなかった。
「――――――っっっっっっっ!!」
 僅か打ち合うこと三合で、その子供の槍が彼女の脇腹を貫いていた。
 生まれは淫魔の身でありながらも、人間は勿論、そこいらの妖魔にも武才で勝てる長教をまるで相手にしなかった。
 その敵によって軍列を真っ直ぐに切り裂かれた彼女の軍の将士が、その光景を見て衝撃が走った。
「ぐ……あ"ぁぁぅ…っっ、ぐぅぅぅぅぅっ」
 必死に己の身体を突き刺している槍の柄を握り締めて堪えるものの、相手は焦った様子もなく楽しげに声を掛けてくる。
「おー、一撃で討てなかったのって久々だよー。ねえねえ、お姉さんの名前は何ていうの? 猛田軍の人でしょ? ひょっとして四天王クラス?」
 脂汗を流しながらその暢気な声の主の顔を覗き込む長教。
 そして自分を貫いている槍を見た瞬間、彼女の頭に思い浮かんだ名前があった。
「……ちょ、ちょっと待って!」
「え、何なに?」
 顔を蒼白にさせながらも必死で呼びかけると、あっさりと応じてくる。
 周りが敵で囲まれているということを少しも気にした様子がない。
 尤も気にしているのであれば、一騎で奇襲をかけたりはしないのだろうが。
「キ、キミってもしかして……本多平八郎君?」
 恐る恐る、長教は聞いてみる。
「うん!」
 元気よくそう答える相手とは対照的に、長教と彼女らを遠巻きにする将士は絶句する。
 本多平八郎忠勝。
 猛田軍の将士でこの名前を知らない者はいない。
 屠狗川家康の家臣の中で一番の勇士と言われれば、誰もがまず彼の名前が挙がるぐらいの無双の猛将であった。
 だが、こんなにちんまい体つきということは実際に目のあたりにしたものでさえ信じられないだけに、初めて見る者にとってはなかなか信じがたかった。
「な、な……」
「でもお姉さん、どうしてボクのこと知ってるの?」
「知ってるわよ! この槍、蜻蛉切じゃな……ごぼっ」
 言いながら、吐血する。
 内臓が破れて血が噴出しているらしく更に、口の中から血の泡が零れ出る。
「なぁんだ、槍でか。てっきり、ボクの顔を知ってるのかと思ったよ」
「だ、だって実物見たことなんか一度もないもの……」
「うーうーうー。ボクって有名人だって殿からも皆からもいっぱい言われたのにぃ。槍に負けるなんてぇ、槍に負けるなんてぇ〜」
「ん!んぁ!んぁぁぁっ! 言いながら押し込まないでっ!!」
「あ、ごめん」
 忠勝が腕を振り回した結果、その蜻蛉切の穂先が長教の背から突き出ていた。
「岡部様!」
 血をゴホゴホ吐く主君に周囲の将兵が色めき立つものの、手が出せない。
「――て、別にいいんじゃん! ボク達敵同士なんだから!」
「んぐっ!」
 気を取り直したように蜻蛉切を握る手に力を込める。
「えーと、お姉さん。岡部って呼ばれたよね? ということは、あの岡部五郎兵衛ちゃん?」
「ちゃ、ちゃん言うな……キミと違ってあのってほどじゃないけどね」
「よっしゃー。めっけものの大将首だーっ」
 槍を握っていない方の手で軽くガッツポーズをする忠勝。
「め、めっけものって……」
「あのねあのね、ボクねボクね、あまりにも一方的にこっちの所領を蹂躙され続けて悔しかったからね、殿に言ってきたんだ。名のある大将の首を一つ持ってきてこのまま篭城するにしろしないにしろ、慰めにするって」
「くっ……」
「猛田譜代じゃないけど、お姉さんなら忌魔川家臣にその人ありと言われた人だし、殿からもきっと誉めて貰えるよ」
「かっ、ごほっ」
 長教は勝手言わないでと言おうとするが、込み上げてきた血の塊を吐き出すだけで声が出なかった。
「岡部様を守れっ!」
 歯噛みする長教を助けようと、周囲の兵が慌てて間合いを詰める。
「いいよ♪ 機嫌がいいからボク、まとめて相手してあげちゃうもんね」
「ゴホッ 駄目よ! あんた達じゃ適わない! 構わないから逃げて!」
 余裕綽々の忠勝と、槍で脇腹を抉られ苦しみながらも止めようとする長教を一気に包み込もうとする瞬間、

「待たれよっ!!」
 と、遠くから野獣が咆哮するかのように一喝される。

「!?」
 意表を疲れた全員がその声のほうを向くと、
「!?」
 更にもう一度、驚かされる。
 金の兜巾を冠らせた、褐色で背中に鰻線が筋のように伸びている河原毛の異形の化け物のように大きい馬に乗った、黒い具足に猩々緋の陣羽織を着て、金の瓢箪を腰に提げて殊更煌びやかに魅せた派手な衣装の偉丈夫がそこに立っていた。
 だが異常なのはそれだけではない。
 その三寸計りの巨馬も、その巨漢もあるべきものがなかった。
 首から上が消失していたのである。

「ば、化け物……」
「怨霊かっ!?」
 周りの岡部軍の兵士達が恐慌をきたしはじめるが、当の長教と忠勝は虚を突かれたまま固まっていた。
「ゾンビか、グールってところかな?」
「でもそれにしては圧迫感が……ごほっ」
 周りにもそんな二人にも頓着せずに、その首無しの馬に乗った首無しの部将は攻囲に近づいていくと再び吼えた。

「孤軍奮闘する武者を大勢で嬲り殺しとは……いくさ人の風上にも置けぬ奴らよ!」

「へ?」
「あー、いや」
 どうやら敵味方を間違えているらしく、長教を皆で寄ってたかって襲っていると勘違いしているようだった。
「うむ、よかろう。拙者、今、この場にいるもの全てと喧嘩いたす! 喧嘩に身分の上下無し、喧嘩無礼講と参ろう!!」
「ところで、どこから声を出して……」
「ちょっと待って、それ私の部……」
「行くぞ!!」
 それぞれの言葉に聴く耳を持たなかったらしく、その武者は一気に駆け寄せてくると槍を振り回しながら飛び込んでいった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――――――――――っ!!」
 その武者の強さは半端ではなかった。
 竜巻に巻き込まれたかのように、長教の配下達がまとめて弾き飛ばされ、薙ぎ倒されていく。
「や、止めっ!」
「問答無用!」
 長教の静止の声も振り払い、大群を叩き潰していく。見る見るうちに立っている将士の数が減っていく。
「んぐぁっっっ」
「すごい!すごい! ボクと勝負勝負!」
「お主が大将だな! 来いっ!」
 長教の脇腹を貫いていた蜻蛉切を引き抜くと、忠勝はそのまま首無し武者に向けて穂先を突きつける。
 その槍に応じるようにその首無しの武者も朱塗りの槍を振るう。
 激しい金属音と共に火花が散った。
『あの槍、どこかで見覚えが……』
 脇腹に刺さった槍を引き抜かれた反動で、そのまま滑り落ちるように落馬した長教の記憶が残っていたのはそこまでだった。

 次に目が覚めた時は城の中で、大勢の傷ついた将兵に涙ながらに囲まれていた。
 二人の一騎打ちの混乱に乗じて、一斉に逃げ出してきたらしい。
 勘違いしたままだったのでその首無し武者に主将を見捨てて逃げるのかと一喝されたものの、一騎討ちで身動きが取れなかったらしく追撃は無かった。
 だがそれでも兵の損害は尋常ではなかった。
「たった二人の敵にやられました……って言って信じてくれるかしら?」
「無理だと思います」
 折れた腕を吊った状態の帯刀ともども、寝込みながらどう報告していいのか頭を抱えた記憶がまざまざと思い出される。
 その後、正綱から真幸に伝えられていた予想通りに信玄が陣営で倒れ、それぞれの所領に帰還命令が出たお陰で有耶無耶になったのがせめてもの救いではあったが。


「一瞥以来だな」
「あそこまで勝っていてボクが止めを刺せなかったのは、お姉さんが初めてだよ」
「そ、その貴方達がどうして仲良く揃っているのよ?」
 和気藹々としている首無し武者と忠勝に向って頭を抱えながら尋ねる。
「いや、丁度知らせが届いた時にこやつが一緒に居てな」
「うんうん。ボクもちょっと暇だったから面白そうだしついてきたんだよ」
「……」
「昌幸君……」
「いや、俺も何が何だか」
 困った視線を向ける真幸に、昌幸は慌てて首を横に振った。
「改めて自己紹介しよう、前田慶次郎利益だ」
「本多平八郎忠勝だよ」
 この二人と共に、旅をすることになる。
 その事に対して、計り知れない不安を真幸が覚えたのは仕方がないだろう。




「会心の一撃ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ! えい!えい!えい!」
「退けぃ退けぃ退けぃ」
「……」
 鼠の大群を悉く薙ぎ払い、須く塵殺しにしていく二人組の先導の元、真幸は地下坑道を歩いていた。
「うにぃ!うにぃ!うにぃ!」
「ほれほれほれ」
「……」
 昌幸の居城、真田本城を出た真幸一行は信州北部の寂れた山村の麓を通り、山を削って作られたという秘密通路を通って越後入りを目指していた。
「あー、もう、しつこい!」
「仕方あるまい」
「……」
 この坑道が作られた由来は誰も知らなかったが、猛田信玄の侵略の前に破れ命からがら逃げ出した村上軍の一部将が、先に越後に逃げ込んだ主君を追ってここから越後に入ったのだと昌幸から聞いていたが、眉唾ものだと真幸は思っていた。
「雑魚ばっかりでつまんない!つまんない!つまんない!」
「雑魚って野鼠に雑魚も大物も……」
「鼠といえば泡条殿の眷属。ひょっとすれば縁に繋がるものもおるかも知れぬぞ」
 そう言いながらも、傍目には二人して弱いもの虐めをしているようにしか見えなかった。
 掛け声こそ大仰なものの、やっていることは害獣駆除でしかない。
「じゃあじゃあ氏照ぐらいに強い奴いる?」
「かも知れぬ」
「おっし! 出って、来ぉぉぉぉぉいっ!」
「響く! 崩れる! 止めなさい!」
「えぇぇぇぇぇぇ? 何ぁにぃぃぃぃぃ?」
「だ!か!ら!……はぁ」
 真幸は何度目か判らない、ため息をついた。
「確かにキミ達は無茶苦茶強いわよ。多分この世界の中でも指折って十本……もしかしたら五本の指に入るかも知れない。人間人外含めてね。でももう少し常識とか落ち着きとか聞き分けの良い耳とか持って欲しいと思うのは私の我侭?」
「我侭だな」
「もー、駄目じゃん! 岡部のお姉さん」
 平然と言う二人。しかも忠勝に至ってはポンポンと真幸の身体を叩いていた。肩か背中を叩いている仕草のつもりらしいが、上背の問題で手はお尻の辺りだった。
「……はぁ。何で二人ともそんなに妙に興奮状態なわけ?」
「はっはっは。冗談でござるよ、真幸殿」
 その忠勝の仕草に笑いながら、真幸の肩を叩くのは大柄の鎧武者の方だった。
 身の丈六尺に首一つ足りないぐらいの巨体にも関わらず笑い声の発生する場所は低い。
 それもその筈、笑い声は彼が小脇に抱えている生首から発せられていたからだ。

 前田慶次郎利益。
 彼の正体はデュラハンである。
 道中の慰みにと彼自身が語った話によれば、人の死を予測し、告知するという妖精としての己の役割に嫌気がさして、身一つで飛び出して諸国を漫遊する日々を過ごしているのだそうで、趣味は自分が死ぬと気付いた相手を助け出してみせることだそうだ。
「運命とやらに胡坐をかいて全てを委ねるような真似が拙者は一番嫌いでな」
「もしかしてあの時、私は死ぬ運命だった?」
 否定も肯定もしないのは、利益なりの主義らしいが、面倒臭がりなだけかもしれない。
「じゃあもしかしてボクが?」
「いや、あの時キミが死ぬような可能性は限りなく低かったような……」
「でもでも、慶次の槍技って凄いんだよ。ボクじゃなきゃ死んでるよ」
「はっはっは」
 誰よりも自分自身で沢山の人の命を奪う傾奇デュラハンは、その問題を哄笑一つで片付ける。傍迷惑だった。
「でも、誰かに仕えようとか思わなかったの?」
 同じように武者として人間に混ざっているのに、自分とは違って気侭に旅を続けている利益を不思議そうに尋ねる真幸。
「うんうん。家康様が会ったらきっと欲しがると思うなぁ」
「御免でござるよ。拙者、青空に広がる雲の如く自由気侭に生きるのが本望にござる」
「ふぅん……なんか、その生き方いいわね」
「今はお空は見えないけどねー」
 忠勝の言葉に、苦笑いで応じる真幸と利益。地下坑道では仕方がない。
「しかし貴殿があの本多平八郎忠勝殿だったとは……人は見掛けによらぬものよ」
「そうよね……」
「あー、また言う。皆言うんだもんなあ」
 不貞腐れる忠勝に、苦笑する真幸と利益。
「キミ、本当に人間?」
「もう、そうだって何度言わせるんだよぅ! もう!」
「でもねえ……」
「まあなあ」
 懐疑的な真幸の言葉に利益が頷く。
「どこをどう見たって人間だって!」
「……どこを?」
「……どう見ても?」
「ぶぅぶぅぶぅ! 家康様に言いつけてやる!」
「いや、言いつけられても……」
「家康殿も困ると思うぞ」
「でもでももう立派な大人なのに……」
「因みに幾つ?」
「三十ぃち…」
「…嘘」
 忠勝の言葉にポロリと真幸が漏らす。
「違うもん!違うもん! ボク嘘なんか言ってないもん!」
「その容姿で?」
 真幸が忠勝の顔を指差す。
「そのタッパで?」
 続いて利益が忠勝の頭の高さに手をかざす。
「ちょっと変よ」
「ちょっと変だぞ」
「変じゃないやい!」
 ハモる二人にキれて、蜻蛉切を振り回す。
「きゃっ! 危ない!」
「槍を振り回すな!」
「もう妻も子供もいるんだから舐めるな!」
「……」
「……」
 今度こそ絶句する二人。
「な、何だよぅ!」
「神秘だわ」
「神秘だな」
 忠勝の頭のてっぺんからつま先まで見た二人が唖然として言うと、
「くき――っ!!」
 両腕を突き上げて吼えた。
「いいもん。いいもん。もう慶次にもお姉さんにも何も言わないから」
「まあまあ」
「……」
 半べそをかいて不貞腐れる忠勝とその肩を宥めるように叩く利益から視線を外した真幸は、忠勝の言葉から姉正綱のことを思い返していた。
『妻も子供も、ね……』
 妖魔が子孫を残すことがないわけではない。
 だがその場合は、人間のように親と子を作り出すわけではなく、その妖魔としての種を残す為だけに他ならない。人間と幾たびも交わり、人間の血を多く取り入れた種族など例外は除くが、殆どの妖魔はその長い寿命と引き換えに、新たな生を産み出すことがなかなかできない。後継種の誕生は即ち、それまでの種の終焉に繋がる。子を産むことは、己の存在の役目の終わりを意味する。
 簡単に言ってしまえば、どれほど長生きする種であっても、子供という自分とほぼ同じ存在を産み出してしまえば、長生きする理由が無くなり消えていくことになる。
 人は何代何十代と血筋を続けることが出来るが、妖魔は常に一代限りというのはこういうところからきていた。理由はない。自然の摂理だった。
「まあそう、怒るな」
「でも!でも!でも!」
「そんなに喚くように喋るな」
 考え事に没頭して足が遅れていく真幸は自然、先を歩く二人の後をついていくようになる。
「……」
 淫魔である岡部姉妹も数多くの妖魔の一匹でしかなく、その命の楔から逃れ出る運命はない筈だった。岡部家自体は由緒正しき人間の家系であったのだが、淫魔の血は他の魔と人間が混ざるように、人間の血と混ざることがなかった。その種族の性質ゆえなのかも知れないが、真幸は詳しい事情は知らなかった。
「あ、そうだ。昌幸のお兄さんからお土産に貰った干し柿、慶次も食べる?」
「むぅ、がつがつと貪るな」
 淫魔の子は常に淫魔である筈だったが、彼女等の母親である岡部信綱は嘗ての武家の名門岡部家の為に人間の血筋に拘っていた部分があり、人間としての跡継ぎに拘っていた部分がある。だからこそ、己の命を削ってまで子供を産み落とし続けたのだろう。生き延びたのは純粋な淫魔である正綱と真幸の二人のみという結果であったが。
「やっと道が……ああぁぁぁ、そ、外だ! 急げ――――っ! んがぐっ!?」
「焦るな。ゆっくり歩け」
 その淫魔である筈の正綱が予定外の子を孕み、産み落とした。これにより正綱の寿命は大きく削られたことになる。しかもその子は殆ど人間と変わらない性質を持っていて、岡部家としては念願の男児だった。同じものだからこそ命のリレーが行なわれる筈が、違うものに受け継がれるということに、悲願達成に喜ぶ岡部譜代の者達とは別に真幸は違和感を覚えていた。
 ただそれは淫魔として、種の存続に対して気にかかったというわけではない。
 それまで自分と変わりなかった筈の正綱が、自分とは大きくかけ離れた存在になってしまったような気分になっていたのだった。
 別に暮らすことが長くなって来ていたこともあって、それまでも物事の受け止め方や価値観など意見の食い違うところも少なくはなかったが、人間の親となって母の意志を次ぐことを受け入れた正綱と、今も変わらず淫魔としての生を続ける真幸はまるで別の生き物となっていっているような気が真幸はしていた。
「ぐぅぅぅ、躓いて挫いた足が痛い〜」
「ほらほら、しっかり歩け」
 露骨に言えば人間の側に正綱が立って、淫魔であり続ける真幸と距離を置いて接するようになっていたのが不満であり、意思の疎通が昔のように効かなくなっていっていることに不安であった。
「ねえ?」
「ん?」
 さっきからの二人のやりとりを聞きながら真幸が尋ねる。
「あんたらわざと?」
「んにゃ?」
「何がだ?」
 未来の俳人に対して何も自覚がないのか、真幸に対して二人して首を傾げる。
 そこで真幸は初めて自分たちが坑道を出て山道を歩いていることに気が付いた。
「あれ、いつの間に?」
「随分前だぞ。景色も空気も変わっていただろうに気づかなかったのか?」
「ちょっと考え事をしていてから」
「平八郎の正体か?」
「ええ、うん。そう」
 実際は違うのだが、説明する気もなかったので頷いておく。
「むむむ、例え足が折れても疾るべし!駈けるべし!」
「いや、そこまで気張って焦ることもないわよ」
「突撃ぃぃぃぃぃぃ!」
「だから人の話を……」
 先を駈けていく忠勝の背を見送ることしかできなかった。
「本当にあの子、落ち着きないわね」
「そうそなたと変わらぬだろう?」
「その筈なんだけどね」
 利益の言葉に真幸は肩を竦めて見せる。尤も彼女は淫魔なので、人の年齢をそのまま当て嵌めても意味のないことは共にわかってはいた。
「――しかし、やっと外に出て山道になったのに、思ったよりまっすぐな道でさみしいな」
「やっぱりわざとね?」
「判るそなたもどうかと思うぞ」
「コホン……今晩は野営になるけど、いいかしら?」
 日が沈んでいく様を見ながら、二人に尋ねる。
 人工的に作られた坑道の出口からは特に道もなく、都合よく山小屋が見つかる可能性もなさそうだった。
「えー、日帰りじゃないの?」
 先を走っていた筈の忠勝が口を尖らせる。ずっと立ち止まって待っていたらしい。
「いや、片道でもそれは無理」
 今回の旅の目的も、大義名分は納得できるものの、それが本当の目的なのか姉の真意を疑いだしているのが、今の真幸であった。

 餓杉謙信。
 東国で彼を知らぬものはよっぽどの山奥で他界と交流をしない存在だろう。
 力で越後を支配していた父狎我尾為景が死ぬと、彼に押さえつけられていた豪族、国人や実権を奪われていた越後守護の残党らが後を継いだ謙信の兄、狎我尾晴景に一斉に襲い掛かり荒れかけた国内を治めたのが妹の狎我尾阿虎という一人の少女だった。
 阿虎は元服して狎我尾景虎と名乗り、惰弱な兄にとって代わって国主となり国内を平定すると、その力を知った関東管領餓杉憲政が彼女を頼り、その家督と職を譲り受けたことで彼の代わりに勤めを果たそうと関東の泡条氏と戦ったり、京で将軍に助けを求められると兵を連れて上洛したり、猛田信玄に追われた村上義清が援助を求めると、信濃に入って信玄と戦ったりと、この時代には珍しい義の為に戦い続け、その悉くを勝利で飾った神将としての評価が高い。だが情に厚く頑固で融通の利かない性格が災いして、相手側の政略一つで行動を左右されることも多く、戦の勝利がそのまま目的の成就に結びつくことの少ない、ただの戦上手なだけな大将という側面もあった。
 一つだけ間違いないことは謙信率いる餓杉軍は東国最強の軍隊であり、誰もが打算無く躊躇無く容赦の無い彼女の敵になることを恐れていた。
「確かに越後の兵は強い。でも、今の餓杉軍……彼女の軍の強さは彼女自身の強さにも繋がっている」
「ええ」
 焚き火を挟んで、真幸が利益に今回の旅の目的を話していた。既に忠勝は草叢の上に大の字になって小さく鼾を立てている。
 今更特に聞かれたわけではなかったが、これから行動する上で話しておかなくてはならないことであった。
「だが、何故謙信殿を? そなた達は第六魔王を滅ぼす事が目的なのであろう?」
「ええ」
「だとすれば汚堕討伐という今度の謙信殿の出兵計画はまさに応援こそすれ邪魔するものではあるまい」
「ええ」
「拙者にはわからぬな。もしや自分達の計画通りに全ての事が進まないと困るとか申すような狭い視野によるものか?」
「そんな御立派な計画はないわ。多分だけど」
 真幸が立案をしたこともないし、しようと思ったこともなかった。考えるのは姉の正綱で、行動するのが主に真幸と自然に役割分担ができていた。
「なら、何故だ?」
「謙信ちゃんがただの戦国武将なら問題なかったの。今の御舘様……猛田勝頼様ぐらいの普通の猛将ぐらいならね」
 猛田信玄でも大丈夫だった。彼は魔人の混血児で、しかも天台座主大僧正としての法力も得ていたが、その力は略奪して得た力であって行使するのにも限界があった。
 だからこそ戦働きのみで勝ち負けを決することができたのだが、様々な力を得過ぎて身体が耐え切れず自滅した。
「だが、勝頼殿は負けた。完膚なきまでに。逆に謙信殿ぐらいでなければあの魔王に対抗など出来ぬと拙者は思うのだが」
 勝頼は諏訪大明神こと建御名方富命の力のみを受け継いでいてその力に身体が負けることこそないが、神の力を借り受けている者と神そのものの力量差は歴然としていた。そして遂に戦の場に己の徐々に開放されつつある膨大な魔力を躊躇いなく注ぎ込んだ信長の前に彼の手足となる将兵は文字通り殲滅を受け、その傷は今も猛田を蝕んでいる。
「それは間違ってない。きっと皆そう思っていると思うし。だから困るの」
「何故だ? 汚堕が更に何かやってくるとか申すのか?」
 設楽ヶ原の合戦以上の地獄があるのかと、流石の利益も顔を強張らせる。
「……謙信ちゃんの強さの由来は何?」
「それは無論、毘沙門て……む! もしや……」
 何か思い当たったように利益は言葉を止めた。
「そう。謙信ちゃんが毘沙門天の力を持っているのが困るのよ。ただの武者大名としてなら、魔王の力による一方的な殲滅を受けるか、もしくは奇策でも計略でも強力でも猛勇でも何でも人の力で魔王の魔力を突破して打倒してくれるかどっちかだから困らない。でも困ったことに彼女の力も神の力になることがある。それが困るの」
 人間の世を滅ぼす魔王を滅ぼす為に紡ぎ出される神の力は、どんなに弱くても人の世を潰せるだけの力はある。そんな力同士がぶつかり合えば、その場を滅ぼすだけではすまない。互いの力を極限まで引き摺り出し合って、結果この世の滅亡を促進させる結果になるという可能性があった。必ずそうなるとは限らないが、そうならない可能性も絶対ではない。となると人の世を破壊する魔王の力を滅ぼす目的で、人の世を破壊してしまうことは避けねばならない。
 これが正綱の意見であり、真幸が越後に向う目的であった。
「毘沙門天ってどれぐらい強いのか判らないけどね」
 毘沙門天とは、古代インドの神が仏に帰依した中の一神で元をクーベラと言う。
 元々は財宝富貴をも守る神であり、仏教の神となってからは仏のいる須弥山を守護する四天王の一尊として北方を守護し、密教においては十二天の一尊とされ、また持国天とともに二天王の一尊として数えられることも多く、役職も使命も多い忙しい神として祀られていた。
 その毘沙門天を謙信は強く信仰し、春日山城に毘沙門堂を建てて毎日祈念しているのだが、いつの間にか信者である筈の彼女は今では誰もが認める毘沙門天の化身とされていた。今までは毘沙門天の力で勝利したという戦は聞いていない。だが彼女自身が毘沙門天の化身であれば、そんなのは慰めにもならない。勝頼は神の力を借り受けることができるだけだが、謙信は神そのものになれる可能性が高い。
 神同士の全力での衝突は避けたかった。しかも謙信の持つ神の力はあの猛田信玄が幾重もの神や魔の力を無理矢理奪って己の身体の中に固めあげて何とか対抗できる程のものだ。しかもそれですら謙信の真の力とぶつかったことはない。真の力が発揮されるとすれば、汚堕信長が第六魔王としての力を存分にぶつけてくるその時であることは想像に難くない。
「確かに、二つがぶつかり合えばこの国は滅ぶかも知れぬ」
「利益様もそう思うでしょ」
「うむ……だが、どうやってそなたらはあの魔王を倒そうというのだ?」
「亡きお爺様によると……信長に勝てるのは屠狗川家康唯一人なんですって」
「太原雪斎殿が?」
「ええ。理由は知らないけど」
「ふうむ……」
 自然、屠狗川家康の家臣である忠勝の寝顔を二人して眺める。
「変な縁よね」
「うむ、奇縁よの」
 真幸自身も偶然にも忠勝の主君である屠狗川家康とは駿河の人質時代に幾度か実際に会った事もあり、利益の主君だったこともある前田利家とは戦場で一度、臥所で一度矛を交えていたという縁がある。因みに今、利益が手にしている槍は利家のもので彼の元を出る時にくすねてきたものなのだそうだ。
「でも、どうして貴方達は意気投合してるの?」
 忠勝に討たれそうになった真幸を利益に助けた時がこの二人の最初の出会いならば、互いに槍を取り戦っていたこの二人が仲良く馬を並べて現れるというのは意外である。
「別に命のやり取りをするのは憎しみからではない。それに元々はそなたの命が懸かったやりとりであった。問題のそなたがいなくなれば争う必要もあるまい」
「まあ、そうなんだけど……じゃあこの子、もしかしてまだ私の命を狙ってる?」
「そう思うか?」
「全然」
 無防備に寝ている忠勝の寝顔を見ていると、殺す殺されるのやりとりがあったことなど忘れてしまう。
 真幸は着物をはだけさせて自分の脇腹を見た。
 そこにはまだ痛々しい傷痕が残っていた。
 治癒力が高い彼女でも、その跡が完全に消えるのにはまだ時間が必要だった。
「むにゃむにゃ。まだ食べられるよう……」
「この子がねぇ……」
 あの猛将本多平八郎とは誰が信じよう。
 槍の代わりに木の枝を持ち、野原を駆け回る方がよっぽど似合っている。
 しかも年は既に三十を越え、妻子もいるというのだから信じられない。
「少なくても人間じゃないわ」
「……まだ言うのか」
 利益は少し、真幸が人間と人間でないものの区別に拘り過ぎているように思っていた。それは正綱が人と変わらぬ子を産んで以降の真幸の癖なのだが、以前の真幸を知っているわけではないのでそこまでは気づかなかった。ただ、それが彼女にとって負の感情に繋がっていると気づいているだけである。
「多分だけど」
「ん?」
「この子、先祖がえりね」
「なるほど」
 両親が人間でも、遠い祖先に混ざっていた人間以外の血が突如発現することが稀にある。それを指した言葉だった。
「恐らくは、ホビット種……」
 真幸はそう判断するが、利益にはどうでも良かった。
「そろそろ拙者達も寝るとしよう」
「そうね。この子、早起きしそうな感じだし」
「すっかり保護者だな」
「う"……」
 その言葉は相当、真幸には堪えたらしい。顔を顰める彼女に背を向けて笑いながら利益は横になった。
 星が綺麗な夜だった。

 その晩、真幸は夢を見た。
 姉、正綱の初陣を見送っている夢だった。
 母の常慶こと信綱が忌魔川氏親の勘気を被り蟄居を余儀なくされていて、後を継いだ義元が女ということで、色で誘えないことから武者働きによって家の名誉を挽回する為の出陣だった。
 正綱は首級2つを取って武名をあげて母の蟄居を解かれることになったのだが、真幸には姉が戦場ではあまり似つかわしくない存在のように漠然と思っていた。
 元々、部将として戦うことを望んでいた真幸はその時から眉を顰める母を余所に、更に武芸に励むこととなった。
 懐かしい、夢だった。


「うっきゃぁぁ〜寝坊だよ寝坊だよ!」
 そして騒がしい声で、一日が始まった。
「ゆ、夢……」
「え? 真幸ちゃん夢見たの? どんなどんなどんな? 面白い夢? 楽しい夢? ボクねボクね、食べ物の夢見てたんだけどね!」
「う、うるさい……」
 耳を抑えながら顔を顰めるが、忠勝は気にしたそぶりもなくまくし立てる。
「だが、それがいい」
「良くないっ!」
 勝手なボケを入れる利益に、真幸が吼えるように突っ込む。お陰ですっかり目が覚めたようだった。
「私ボケ属性だったのに、あんた達のお陰ですっかりツッコミ型になっちゃったわ」
「良いではないか」
「良いではないか♪良いではないか♪」
 良くないと言いかけて、真幸は何とか堪えた。
 言えば言うほど泥沼に填まると今頃になって気付いたからであったが、その我慢がこれからも続けられる自信はなかった。
「ところであんた、頭は何処に置いてきたのよ」
「あっはっは。寝惚けたこやつに蹴飛ばされてあっちの茂みに転がっておる」
「うにゃにゃ?」
「良ければ拾ってくれぬか?」
「はいはーい」
「全くこいつらは」
 デュラハンである利益は首から上は着脱式だ。
 昨日は寝る時に留め金を外して冑から開放した首を身体の脇に転がしていたようだったが、今は利益の指差す先に転がっていた。
「今日は最初に改めて説明するわ」
 このまま歩けば、夜までには春日山の城下街に辿り着く。
 特に目立つ同行者二人の為にも言っておかなければならないことが沢山あった。


 同時刻、春日山城で一人の少女が目覚めていた。
「……くっ」
 少女の両目からは涙が零れている。
 一晩中泣き続けていたように目蓋が腫れていて赤くなっていた。
「くぅぅ……」
 欠けるぐらいの力で歯を食いしばると、枕元に用意してあった濡れた手拭いで涙と共に顔を拭う。
 毎度のことなので、予め早朝から一時間おきに手拭を濡らしたものを用意させているので、特に問題はなかった。
 彼女はここのところ毎晩のように夢を見る。
 それもどれもが悪夢と呼べるようなものばかりで、何度見ても慣れることのない夢だった。
 どれだけ見続けようとも、一度も泣かずにはいられない夢だった。
 夢はいつも彼女を苛み、心を束縛してきた。

『おはよう、阿虎。今日も愉快で素敵で清々しいこの世の一日の始まりだ』

「……くそっ!」
 顔を拭い終わると手拭いを投げつけ、虚空を睨んで毒づく。
 これもまたいつもの日課。
 一日の終わりから始まり。
 穏やかで変わらない日常に、刻々と変わりゆく年月。
 その時の流れの中、餓杉謙信という少女は夢と現を行き交うことを繰り返していた。

 彼女の中に彼女でないものが取り憑いている。
 全てはこの一つのことから始まっている。
 狎我尾阿虎と呼ばれた一人の小娘が兄姉を押しのけ国主となったのも、度重なる戦場で陣頭指揮をとり連戦連勝を重ねたのも、餓杉謙信としての全てはこの一つの出来事から始まっていた。
 彼女の中の声はいつも彼女を支配し、彼女を操った。

『こやつでは駄目ぞ、阿虎殿。御主が、御主が弾正少弼の跡取りとなるのが良かろう』
 声。
 父の葬儀の際、憔悴した姿を見せる兄の目の前で囁かれた揶揄する声。

『牝の嫉妬は醜いのう。頭の弱い牝犬程、身の程も弁えず吠えまくるものよ。近くに置いておくとやかましくていかん。そうだ、良い案を授けよう』
 声。
 兄に代わって国主となった自分に不平を鳴らした姉を輿入れさせるべく囁く声。

『逃げたところで、何も変わらぬよ。ほうら、新五郎が追いかけてくる。誰よりも御主が嫌いな新五郎が、御主が譲った家督を投げ返そうと馬を駆け寄るわ』
 声。
 隠遁し、御仏の救いに縋ろうと国を出た際に聞こえた嘲笑う声。

『気付かぬのか? 新五郎政景殿、遂に謀反に御座るよ。誅すべく、宇佐美にでも命令をするがいい。なあにあの似非軍学師、身を以って謀となしてくれようぞ』
 声。
 義兄へのでっち上げられた証拠の山を前にし、采配を振るうかのような声。

『晴景は死んだのう……ひゃは。それはもう良い頃合で。邪魔も入らぬ良い頃合でひゃははははは』
 声。
 兄の死を伝える早馬の使者の報告の後、哄笑し続けた声。

『魔王に魅入られた和泉守は敵ぞ。殺せ! 殺せ! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ』
 声。
 重臣の謀反の噂を嗅ぎ付け、取り憑かれたかのように繰り返された声。


――じぶんのなかに、だれかがいた。


 だが彼女はそれを人に語ることも、救いを求めることもできなかった。
 また、家臣に向けても仕方の無いことでもあった。
 対処のしようがないこともあるが、彼らにとって今の自分は国を強くし、誇りをもたらした偉大なる主である。
 そんな主を小娘一人の身と引き換えに失うことを是とはしないだろう。
 越後は餓杉謙信を必要とし、狎我尾阿虎は必要としていない。
 その事実を改めて突きつけられることが怖かった。
 だが、それも限界に近づいてきていた。
 声の存在に戸惑い、悩み、苦しんだ後に慣れ、諦めの境地に立っていた筈の彼女も、最近再び悩まされようになってきていた。
 それがここ一年近く見続ける悪夢の存在であった。

『そろそろ御主もお仕舞いかのう』

「巫山戯るでない! よ、余は……ああはならぬぞ!」
 彼女を意のままに操る彼女の中の声の力は、彼女以前にはとある旅法師に憑いていた。
 その法師はどこからか流れ着いたかのように越後に住み着いていたが、気狂い者であったのは一目瞭然だった。都の高名な寺からの紹介状を持っていなければ、越後に入ることも許されなかったことだろう。
 そしてその紹介状の宛先こそが、阿虎が預けられていた林泉寺であった。
 天室光育の目を盗み、幽閉されていた筈のその法師が子供だった自分に圧し掛かってきた時の恐怖を思い出す。
 どんなに戦に出て陣頭で斬り結ぼうとも、命の危険に晒されようとも、あの時の恐怖に勝るものはなかった。

『なあに、次の器は用意してある。安心して狂うが良い』

「くっ!」
 気など、とっくに狂っていた。
 とっくの昔に、彼女は発狂していた。
 気狂いで赦されなかっただけだった。
 そう吠えたくなるが、必死で堪える。
 小姓や近習達が時折暴れる自分をそう見ているのは間違いなかった。
 自分の内も外も全てが八方塞りになっていて、それこそ戦をしている時ぐらいしか心が休まることの無い状態だった。
 戦場では無敗の越後の戦巫女は、日々磨耗し壊れようとしていた。


 一方、越後入りを果たした真幸一行は着々と春日山の城下町を目指していた。
 越後は一度入ってしまえば、意外にも動き回ることは楽だった。間者の存在など気にしない剛腹かつ鷹揚な主の影響なのかもしれない。
「暗殺者は悉く返り討ちらしいからねー」
「……そうね」
 楽しげに言う忠勝に苦笑いで応じる真幸。自分たちの目的を覚えているのか相当怪しかった。
「ところでこの霧はなんなのかしらね。山を降りてもこんなに濃いなんて」
 真幸の言う通り、一行は朝からずっと霧に包まれてた道を歩いていた。彼女たちは見通しの悪い道に戸惑っていたが国人にとっては慣れているのか、特にこの霧に対して反応を見せない。
「本当はちょっと聞いてみたいところなんだけど……」
 下手に人に霧のことを聞いて、最近越後に来た者ということを悟られたくない。その考えが、予想外の霧に対して戸惑いを増幅させていた。
「妙な霧だと思わぬか」
「利益ー。今頃そんなわかりきったこと言わなくたって」
 忠勝の言葉を無視して、利益が逆に尋ねる。
「普通、霧の中にいるとどう思う?」
「どうって……前が見辛いだけじゃん」
「気分が優れなくなる?」
 真幸も考えて答える。
「それは何故だ?」
「身体が重くなったり、空気が……あ!」
 真幸は自分の手足の露出したところを指で触れてみる。
「何、何?」
 忠勝がその真幸の突如の行動に戸惑っていると、
「左様。湿ったものがないのだよ」
「あ、おもらし?」
「違う!」
 忠勝の答えに、真幸は拳で応える。
「あ痛――っ」
「この霧よ。全然霧らしくないってこと」
「霧らしくないって……え?」
 理解できていない忠勝を放っておいて、利益と話し合う。
「どういうことかしら」
「どれだけ続いているかわからぬが、これは尋常な手並みではない」
「この霧に包まれて受けた影響ってあるかしら」
「今の季節ではわからぬが、この霧が作物などに害になった様子も無い」
 今まで行き違った農民の姿表情を思い出す限り、凶作で苦しんだ素振りは見えなかった。
「となると精神面とか人体そのものに及ぼすものかしら……」
「えーと、何の話?」
「自然の霧らしくないのなら、誰かがやった術ってことよ。絶対とは言えないけど、そう考えて行動した方がいいでしょ」
「そうなの?」
「いいから黙ってなさい」
「ぶーぶー」
「拙者が以前この辺に足を伸ばした時はこんな霧などなかった」
「そりゃそうよね。昔からなら、他国にも知れ渡っているでしょうし」
「最近のことか……それとも私たちに向けたものか」
「それはないな。だとすればもっと周りが霧に対して動揺する」
「あ、そうだったわね」
「国の防衛策の一環か、それとも逆に越後に対する攻撃か」
「越後入りしてから何か変わったことはない?」
「特にないように思うが……」
「何か無い?」
「ふーんだふーんだ。ボクはのけ者だもん。知らないよー」
 わざとらしく拗ねて足元の小石を蹴る忠勝。
「またこの子は……」
「なかなか扱いの難しい年頃よのう」
「ぶー。ボク大人大人」
「寝顔はあんなに可愛いのに」
「そんな子供に向けるような言葉でボクを評価するな!」
「おほほほほ。可愛い可愛い」
「ぶー!ぶー!ぶー!」
 頬を膨らませて抗議する忠勝を揶揄する真幸。そんな二人を愉快そうに見守っていた利益は一つのことに思い当たる。
「そう言えば真幸殿。忠勝殿」
「え?」
「へ?」
 頭を押さえつけていた真幸と押さえつけられ暴れていた忠勝が二人揃って振り向く。
「昨晩、夢を見なかったか?」

「「は?」」

 二人の声が重なった。


「海道妖魔衆の手のものかよ……にしては大物を従えてきたもんじゃん」
 視界全てに薄白い靄がかかった濃霧の中でありながら、はっきりと真幸一行の姿を目で捉えて追っているものがいた。
 彼こそがこの霧を作り出している張本人―――夢魔であった。
 夢魔とは男性型をインキュバス、女性型をサキュバス、それ以外にもインクブスなどの名で呼ばれる人の夢の中でその相手の精気を吸う魔物で、その多くは人に淫らな夢を見せて精気を吸う淫魔を指しているのだが、それとは別にナイトメアなどと呼ばれる悪夢を見せ続けることで対象を衰弱死させる悪魔も存在する。大雑把に分類すれば人の精を糧とするのではなく人の魂を糧とする種族である。
 彼こそ、そのナイトメアの一族である。
「まあいいじゃん。俺っちとしては楽ができればそれでいいわけだし」
 越後一帯に結界を張り巡らせ、結界内全ての生き物に夢を見せることでその夢から力を奪い、強力な一つの夢を作り出して相手にぶつける。
 仕組みは単純だが、その対象が強力な力を持つ存在なだけに仕掛けが越後の国人全ての力を借りなければ果たせない大仕事だった。
 彼は夢を意のままに操ることができるが、彼以上の力を持つものには夢を見せることも出来ず、当然通用しない。だからこその結界であり、仕掛けであった。
 張るまでが難しいが、一度結界を張ってしまえばそう容易く破ることはできない。
 張り巡らせるまでにどれだけの妨害があるかと緊張していたのだが、高を括っているのか、遂に何も向こう側からの行動はなかった。
 気付いていない筈は無いと思ったが、こちらの存在を意にも介していないのだろうと解釈し、迷うことなく仕掛けを働かせて今日に至っている。
 今では相当苦しんでいるようだが、それでも彼に対しての攻撃は一度もない。
 この事から彼は、彼の抹殺対象である彼女が自分のことを何も知らないのだと判断していた。
 つまりそれは、
「彼女の中のアレが話していない、ということかい」
 あっちはあっちで別の思惑があるということに他ならない。
 だが、それはそれで構わない。
 彼もまた、ただの雇われの身である。
 課せられた仕事をこなしてさえしまえば、その後どうなったところで知ったことではなかった。
「お姫様に味方はいてくれないわけだ」
 働かされ奉仕され、そして最後には見捨てられた哀れで滑稽な越後の戦巫女。
 彼女の命を絡め取るのは最早時間の問題だと、彼は確信した。
「となると問題はあいつらだけじゃん」
 先を行く一行を追いながら、手を出すべきかどうか彼は思考することにした。


「いい加減、余を開放してくれてもよかろう……」
 謙信は日々の勤めを果たしながら、口にするのも空しくなるほど繰り返された言葉を繰り返す。
 時には激しく激昂し、時には必死に宥めすかし、時には哀願し涙まで流したこともあったが彼女の中に寄生している存在は嘲笑い以外の返答を返したことは無かった。
 謙信の方も諦めてその言葉は口にしなくなっていたのだが、悪夢が日常の中の一部となり、衰弱が激しくなった頃になってまた思い出したように口に出すようになっていた。
『別に吾のやっていることではない』
「だが、汝がせいであろう!」
『ひゃはっ。御主が越後国主という立場になったからこそ狙われているという理屈からすればそうよのう。だが御主のお陰で多くの民草が救われているのだ。だとすれば御主の力となっている吾に感謝こそすれ恨むのは……』
「詭弁を弄すでないわっ」
『まだその程度の判断力はあるようじゃ。ひゃひゃひゃ、大丈夫大丈夫』
「くっ!」
 目にクマを作り、食も進まず窶れが見えるせいか、語気も激しさが日々失われてきている。
『矢張り、御主も潮時かの』
「もう喋るでない……」
 心底疲れ果てた声を漏らすと無理矢理政務に集中を向けた。長らく一人で全てを片付けてきたせいで、彼女の代わりを務めるものはこの国にはいなかった。


「夢魔?」
「うむ、恐らく……」
 それぞれが違う夢を見たという話をすると、利益は自分も夢を見たという話をした後で、この霧を作った者の正体を夢魔ではないかと打ち明けた。
「でも全然悪夢とかじゃなかったよ」
「私もただの昔の夢よ」
「夢魔は己以上の存在に対して自分の望む夢を見させるにはかなりの力が要るのだそうだ。それでこの霧を使って越後一国の人間の夢から力を吸い取り、目標の相手に夢を見させている……これが拙者の推測だ」
 毘沙門天の化身に夢を見させる為の霧だということの説明は納得がいかなかったが、他に反論する理由も無かった。
「つまり、その夢魔がボクたちより先に喧嘩を売っているってことかな」
「確かに夢魔は夢で人を殺す力を持っているって聞くけど、そう上手くいくかしら。それにこれだけ長引いていて、返り討ちにも合わずに何も起きていないというのも変じゃない?」
「いや、むしろ夢魔は謙信殿の為に善き夢を見せて力を与えているのかも知れぬぞ。毘沙門天ともなれば直接の繋がりは無いが、機会があれば夢魔程度の悪魔は使役として使えるだろう」
「どちらかといえば、使われる側に近い立場の私達とすれば悲しい話ね」
「ボクは違うよ」
「あんたは家康の家臣でしょうが」
「あ、そっか。家康様に仕えているのも入るのか」
「入らなくてどうするのよ!」
「えー、でも、人間と神や悪魔とは違うし」
「……」
 その忠勝の何気ない言葉は真幸の胸奥に突き刺さる。
「で、どうする。夢魔を探すか? それとも構わず乗り込むか?」
 真幸の表情の変化を察したのか、利益が話題を無理に戻す。
「ボクは夢魔退治がいいなぁ。だって元々ボクはそれが役目でもあるし」
 通常の武者働きとは別に家康に直接妖魔退治の赦免状を貰っているのだという。家康が妖魔を警戒しているのは天野景貫からの情報で知っていた。彼が将来描いている人の世の為に、妖魔は不要な存在なのだろう。真幸や一部の妖魔は、このことからも家康が天下を取ることに不安を抱いている。第六魔王に人間ごと滅ぼされる道を避けても、人間に滅ぼされるのでは割に合わないという考えである。その一方で、人間に殉じる覚悟の妖魔も少なくなく、それぞれの思惑から牽制しあっているところもある。
「余計な手間は避けたいわね。ただでさえ難事だっていうのに……」
「交渉してみるか」
「捕まえられるの?」
「こちらがその気になれば向こうから接触してくるであろう」
「うーん……」
 真幸の疑問に利益は、夢の中でなと付け加える。
「でもさー、化け物退治が仕事のボクが化け物達と旅行だなんて、運命も白粉物だよね」
「白粉物?」
「面白いもの、か?」
「あー、それそれ」
「うわ、全然間違えそうもないことを」
「えー、煮えてるじゃん」
「似てない!」
「むー。お姉さん、口煩い。酒井のおじさんっぽい」
「うわ最悪」
「知っているのか?」
「ううん。でも見聞している限りは好きじゃなさそう」
 酒井忠次は二股膏薬という認識が猛田家臣団の間では罷り通っている。間者の報告から聞く限り信長の走狗と呼んでもいいぐらいに肩入れしている様は、いずれ家康にとって代わるのではないかというぐらいのものがあった。同じ敵とは言え、こういう存在は嫌われるのは武将として当然の成り行きであった。しかももう一人の重臣石川数正が何処か浮世離れした言動が目立つだけに、その俗っぽさが際立っていた。
「うん。ボクはあのおじさんは苦手」
 ニコニコと同意する忠勝に邪気はまるでない。その一言で済む程度ではない筈だが、彼が心からそう思っているようで真幸は下手に口には出せなかった。
「……本当にこの子があの猛田信虎の片腕を叩き斬ったとは思えないわ」
 義元の死後、氏真を信玄が襲った時の混乱に乗じて戒めを逃れ、遠江で暴れていた彼を斬ったのがこの甲冑に着られたようなちんまい身体をした忠勝だった。
 信虎は腕と共に大量の魔力を失い、京都に逃れてそのまま隠居生活を送っているという。
 例外もあるが、人間と比べて魔物は寿命が長い。
 彼らはそれぞれが持つ魔力という生命力で生きているので、それを大量に損ねた信虎の余命はかなり微妙なところだった。
 京で会ったことのあるという利益の話ではすっかり老け込んでいるらしい。
 寿命が長くても、この戦乱の世の中で天寿をまっとうできる魔物はそう多くない。特殊な生命力に頼る魔物の方が人よりも早死にすることも珍しくないぐらいだった。
「性格が無邪気で最強の武将……始末に終えないわ」
「え? なになに? そんなボクのことじっと見て……ひょっとして惚れちゃった?」
「姉様。もう挫けそうです」
「超能力? そんな力も持ってるんだ」
「悪かったわね! 持ってません!」

――為せば成る為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき。

 今は亡き主君、猛田信玄の言葉だ。
 真幸はそんな心境だった。人ではなかったが。


『貴様はそこまでして吾を望むか。愚か、愚かよの』
 夢魔が越後国中に張り巡らせた霧の結界の正体は勿論、謙信の中のものも知っていたし、農作物に被害を及ぼさないこの謎の自然現象を重臣との協議の結果、放置することに決めていた謙信は知らなかった。
 彼女の中のものは全てを知った上で笑う。

 人の身で自分を宿すには、身が清くなければならない。
 幾多もの男に身を委ねてきた、穢れた存在には望むべくもない。
 それを知らないからこそ、ちょっかいを出し続ける。
 その滑稽さに彼は笑わずにはいられない。

 そんな女の雇われ夢魔にしては良くやっていると思う。
 面白いので放置していたが、ここまで阿虎を追い詰めるとは思っても居なかった。今のところ向こうの狙い通りになっている。
 だが、次の器はもう既に用意してあった。

 餓杉景虎。
 阿虎が一時期名乗っていた名前を踏襲した若者がいる。
 泡条氏康の子で、人質として越後に送られ、そのまま養子の一人になっていた。
 そう決めたのは他でもない、謙信のなかにいる彼だった。

 次の器に入った自分を知ったらあの女はどう思うだろうか。
 それを思えば、今の小賢しさなど笑うしかない。

 今の磨耗しきったこの身体であの魔王と戦うことは出来ない。
 次なる新しい器でこそ、太刀打ちできる。
 自分にとっても今度のことは丁度良かったのだ。

『ひゃははははは。ばーかばーか!』
「煩い! 笑うな!」
 謙信こと阿虎が吼えるが彼は気にしなかった。
 短い付き合いだったが、阿虎は彼にとってはそんな嫌いな女ではなかった。
 少なくても自分の力を欲するあの田舎娘に比べれば断然、居心地の良い宿主であった。
「不識庵様。如何なされましたか」
「与六か。な、何でもない……下がれ」
「はっ」
 寝起き後の怒声に駆けつけた近習の一人樋口与六を下がらせると、謙信は歯が折れるぐらいに強く噛み締めて怒りを堪えた。良くて癇癪持ち、悪くて気狂い扱いされている彼女の近習はもうこれぐらいのことでは駆けつけることはない。今のように追い払われるか、そのヒステリーをぶつけられるかのどっちかで割に合わないからだ。
 彼女もそんな自分への風評を知っているからこそ、なるべく彼らを近づけるようなことをしない。
『まあ近習共も猛田信虎のように、問答無用で刀で斬りつけられないだけマシと思ってくれんとのう。ひゃははははは』
「……黙れ」
 だが、樋口与六だけは律儀に毎回駆けつける。自然、彼が自分担当の小姓として一番手に近い位置に立つようになっていた。
 樋口与六は狎我尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれ、狎我尾政景の妻で餓杉謙信の姉仙洞院にその非凡な才能が見込まれて、その子景勝の近習に取り立てられていたのだが、その仙洞院の指示で今は謙信付きの小姓の一人として春日山城で働いていた。謙信の養子となった景勝を後継者にさせる為の下準備の一つなのだろうが、謙信の中の存在はその行為を嘲笑っている。
『無駄なことを』
 彼は既に餓杉景虎に自分を移し変えて、彼として餓杉を従えようと決めている。
 そして自分の判断こそがこの国では最優先される。
 この国は最早、自分のものであると思っている彼にとってはそれは当たり前の事であり、仙洞院らの策動は滑稽でしかなかった。
『女というものはどいつもこいつも小賢しいものよの』
 自分の寄生主である謙信の方が女としては珍しいのだ、そう彼は長い経験で学んでいた。
「ふんっ」
 鼻息を荒くした謙信は周りの者を全て置いて一人、建立されて久しい毘沙門堂に篭もる。
 これは毎朝の日課で、毘沙門天に祈願をするのだと周囲のものに言い聞かせているが、実際はその毘沙門天が彼女に主な指示を出したりする為の時間であった。謙信は全てのことを一人で決めているとされているが、実のところは全てのことを決めているのは彼女の中の毘沙門天そのものであって謙信はその代行者でしかない。謙信が幾ら抗おうとも、餓杉の全てを支えているのは紛れも無くこの忌々しい神様の力であり、彼女の力ではなかった。
「ところでこの夢、本当に汝が見せているわけじゃないのだろうな」
『吾がそんなまどろっこしい真似をすると思うのか?』
「思わぬから不可思議なのじゃ!」
『だったら何かしら原因があるのであろう』
「それがわからぬから!」
『朝から喚きたてるでないわ。今朝はいつもほどには魘されなんだ吉日ではないか。そんなんじゃ、汚堕征伐なんぞ夢のまた夢だな』
 それを実現するのは彼女ではないという考えは漏らさず、意地悪く答える。
「もしや奴の仕業ということは……」
『自意識過剰よのう』
「むっ……」
 そんないつも通りの嘲りで片付けられた瞬間、謙信の表情が一変する。
「……何奴」
 広く暗い御堂の中に、澄んだ女の声だけ響く。
 その手には既に床に置かれていたはずの太刀があり、いつでも抜けるように構えられていた。
「お初にお目にかかる。拙者、前田慶次郎利益と申す者」
「痴れ者め。余の命を狙いに来たか!」
 いつの間にか御堂の中にいた利益に向かって、そう言いながら太刀を鞘から抜き放つ。その一振りは紛れも無く謙信が上洛を果たした時に当時の後奈羅天皇から賜って以降常に愛用している豊国瓜実の御剣三尺一分。天皇を国の主として崇め奉った歴史の中、敵たる人を殺す為の由緒ある業物。
 一人きりになる機会の多い謙信に刺客が襲ってくるのは珍しくは無い。この毘沙門堂でも襲われたことがあるが、彼女は毎回当然のように撃退してきた。怖れはなかった。
「いや……」
 睨みつける謙信に対して、利益は初めて口元を歪めた。
「ただ、少しばかり遊んでもらおうと思って参っただけよ」
「破―――っ!」
 そう言い終わった瞬間、謙信は一気に踏み込んで利益の首を斬り飛ばした。
「っ!?」
『愚か者! 奴の首は元々……』
 斬り飛ばした勢いで駆け抜けた利益の背から、突如槍の穂先が襲ってくる。
「えーと、本多平八郎忠勝だよ」
『避けろ!』
「煩いっ!」
 その肉体に力を与え、能力を授けているのは毘沙門天であっても、それを動かすのも、それを判断するのも、謙信自身であった。
「んぁっ!」
 一閃。
 二つ目の太刀が忠勝の槍を弾き返した。宿敵であった猛田信玄より彼女の義を称えし甲斐猛田家重宝、正宗の弟子越中松倉の郷義弘が作、僅かに銘として「弘」一字を刻するのみの無称の黒太刀二尺七寸三分。地に世に蔓延る妖魔を打ち破るべく鉄を鍛えに鍛えた肉厚で大反りの目立つ豪壮な無銘の一振り。
『何と!』
 二振りの太刀をそれぞれ片手で操る力こそ毘沙門天から得ていたが、その力を正確に使いこなし、剣術として行使する能力は彼女のものであり、そしてそれは毘沙門天をも凌駕していた。
「に、二刀流!?」
 忠勝が驚く間もなく、そのままお互いに太刀と槍の応酬が始まった。
「くっ、うぁっ」
 まともに当たれば肉も骨も寸時に断ち切られるような激しい剣圧が、それぞれの腕から繰り出される。忠勝だからこそ槍一本で防げているが、他のものでは対処する間もなく討たれていることだろう。
 距離も刀の距離を取り続けられていて、最初の一撃に賭けた格好の忠勝の槍では思うように振るうことを阻止されていた。
「わわっ」
 強力を生かし、一方の刀の背で槍の柄を跳ね上げる。
 それまでもう一刀の方で槍の穂先を抑えていたのだが、その攻撃と同時に離していたことで忠勝の力を霧散させることに成功していた。
「破―――っ!」
『待てっ。来るぞ!』
「たぁ―――」
 毘沙門天の警告通り、それまで距離を取っていた利益が忠勝を救うべく横槍を入れてきた。
「判っておる!」
 それも折込み済みだと謙信は一喝すると、忠勝に向けていた刀を最初からそれが目的であったように利益の槍にぶつけて軌跡を変える。
「うぬぅっ!」
「や、やるぅ……」
 同時に柄を跳ね上げた方の太刀で忠勝を襲うが、少しの遅れが間に合ったらしく、身体を転がすようにして距離を取って逃げる。
『こやつら、並みの腕ではないぞ。助けを、助けを呼ぶが良い』
「黙れと言っておる!」
「え?」
「忠勝殿。あれは拙者達に向けてではない」
 利益は謙信が毘沙門天と揉めているのだと察して、怪訝な顔をする忠勝に教える。
『格好つけるな! 一対一ならまだしも……』
「黙れ黙れ黙れ。今、余は久々に充実しておる! こんな愉快な状態に水をさせるか」
『しかしだな』
「困るのは汝であって余ではあるまい」
『そっちがその気ならこちらにも……』
「この状況下で打つ手があると申すのか」
『……っ』
 利益と忠勝の槍を凌いでいるのは毘沙門天としての力以上に、謙信の剣才によるものであり今、少しでも謙信の精神に乱れが走ると致命的な状況に陥りかねない。毘沙門天としてもこのまま謙信にただ死なれたのでは、自分も共倒れにあるので必死である。
 今まではどんなに困難な状況下にあっても、謙信が自分の手以外で死ぬようなことはないと思っていたしその認識は間違ってはいなかった。だからこそ自若泰然としていられたのだが、彼女が衰弱している今回だけは危機のように思われた。
 が、そんな心配をよそに謙信の刀は冴え渡っていた。精神疲労が逆に病的な集中力を生み出しているのではないかと錯覚してしまうほどに、普段以上のものを見せていて二人に対して一歩も引けを取ることが無かった。
 左右それぞれの太刀一振りで、この二人のそれぞれの槍をあしらう事など今の謙信以外には到底できそうもない。だが流石にそこまでで謙信が攻勢に出られることは殆ど無くなり、防戦一方になってきていた。
 そんな果ての無い剣撃に、決着を見せたのは利益が体勢を崩した瞬間であった。
 それを罠と判断した謙信だったが、膠着状態を打開すべく誘いに乗って忠勝に牽制をしたまま利益の方に大きく踏み込み、斬り裂くように大きく太刀を横に振るう。
「シャァ―――ッ!」
「ちょいやっ」
 その不用意な一撃を待っていた忠勝が、彼女の脚を払おうとする。
 が、足の開きほど体重を乗せていなかった謙信はその動きを読むと、伸びてくる槍を踏みつけ、そのまま一気に忠勝の懐へ飛び込む。
「!?」
 引きつける筈の利益は体勢を崩した振りをして後方へと素早く下がっていて援護が出来ない。不用意な忠勝の槍は踏みつけられて謙信の足の下にあって対処が出来ない。
 逆に謀られたことに気付いた忠勝は、躊躇うことなく槍を捨てるが間に合わない。
「貰っ……」
 そのまま忠勝の胸元へ刀を突きたてようとするが、そうする前に独楽鼠のようなすばしっこさで背後に回り込まれ、抱きつかれた。
「んひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――っ!?」
 手が触れた瞬間、まるで電気を全身が走ったかのように謙信は仰け反り、身体を震わせた。
 辛うじて刀を取り落とさなかった彼女の身体を、背後から羽交い絞めにするように更に抱え込む。
 一人刀も槍も持たず、その場に初めから鎮座していたかのように生気すら発さずに控えていた若者。
 樋口与六。
 後の直江兼続と呼ばれる賢将であった。

「は、離せ! 馬鹿、離さぬか!」
 必死になって振り解こうとするが、一度腕を脇の下に廻して身体を密着させる与六はしがみ付いたまま離れない。
「ここへは何事があろうと誰も入るなと、いや余に触れるなと……うぐぐぐぅっ」
 脂汗を流す謙信に対して、与六は表情一つ出さずに抱きしめ続ける。
「止せ……止さぬか……」
『離れろ! 離れろ!』
「えーと、お取り込み中申し訳ないけど……」
『離れろ! 離れろ!』
「くっ……まだいたか。何奴だ!」
「どうも初めまして。猛田軍駿河先方衆の岡部丹波守真幸と申します」
 まるで拝謁を受けるかのように真幸は恭しく膝を揃えて座って頭を下げる。
「もう、遅いよ! 危うく討たれるところだったってばぁ」
「強き者と切り結ぶのは貴殿の宿願ではなかったか」
「それは戦場での話だし、あれこれ制約を受けて戦うのはまた違うって」
「戦場であろうとなかろうと……」
「でも!でも!でも!」
「まあ、あちらは放っておいて……」
「ぶーぶーぶー」
 最初に飛ばされたまま転がっていた首を拾い上げている利益と、冷や汗を拭う忠勝を横目に真幸は続ける。
「猛田の手の……き、貴様……ぐばっ」
『離れろ! 離れろ! 離れろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』
 激しく暴れる謙信だったが、次第に抵抗が弱まっていく。
「別に御舘様は全然これっぽっちも関係ないんですけどね。一応、所属だけは借りてると言うか――」
『何故だ! 何故だ! 何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だなぜだぁぁぁぁ!』
「うるさっ……ぐっ……ぁっ……ぁっ……ぁぁっ!」
「ふふ、破れかけの器ではもう限界?」
『っ!?』
 挑発するような真幸の笑みに謙信の中の毘沙門天が動揺する。
「器換えには丁度いいと思って放置していたんでしょうけど、弱まったその身体と一緒に……」
『ふ、巫山戯るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
 背中の与六を引き摺ったまま、真幸に襲い掛かる謙信。
「余を『吾を』嘲るな!『侮るな!』」
 手にした双刀がそれぞれ真幸を襲うが、二つの槍によって防がれる。
 利益と忠勝の二人が左右から真幸を守っていた。
「くっ!」
『くそっ!』
「最強の剣将を相手にするのに、最強の武将を二人も連れてこられたのは幸運だったわ」
「最強の大安売りよのう」
「何かボク引き立て役ぅ〜」
「それじゃあ、こちらからも遠慮なく」
「あれ、何をするつもり?」
「更に触って揉んで、神々しさを損なわせて力を殺ぐの」
 歯を食いしばって睨みつける謙信を前に、真幸達の間抜けな問答が続く。
「うむ。樋口殿に抱きつかれた程度でこれほどの能力低下を起こすとはのう……」
「具体的に言えば処女喪失させて、毘沙門天の力を無くさせちゃおうってわけ」
「わ、下劣だよ」
『な、なに!』
「だって私、淫魔ですもの」
 そう言ってペロリと舌で唇を舐めると、着物に手を掛けた。
「っ!?」
『や、止めろ!』
「大丈夫。命まで取ろうとは言わないわ」
『止めろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――――っ!』
 自分の感情を焼き溶かす如く覆い尽くし、身体中から溢れ、零れる自分のなかのものの絶叫に飲み込まれ、謙信は気を失った。

―――いたくないと、いいな。

 そんな間の抜けたことを思いながら。



「……」
「……」
「……」
「おはよう」
「んにゃ?」
「ん……ぅんーん……」
 朝というよりも昼。
 忠勝と利益が目覚めて最初に見たのは、真幸の笑顔だった。
「お・は・よ・う♪」
「むにゃむにゃ……夢か……」
「睡眠がまだ足りておらぬらしい。もう少し寝るとするか……」
「うわ、酷い反応!」
「は、は、は」
 真幸の横で、こざっぱりとした青年が快活に笑う。
「む、貴殿は夢で会ったような……」
「はにゃ……んー、あー?」
「こうしてお会いするのは初めてになりますな。挨拶が遅れました。某、樋口与六と申すもの。不識庵様の近習を務めておるものです」
「ご丁寧に忝い。こちら……」
「前田殿と本多殿ですな。お二方の御高名はかねがね……」
「いまはただの寝ぼすけ二人組だけどね」
「む……」
「はは」
 さっきのお返しとばかり茶化す真幸に、また与六が笑う。
 そこにはまだ何処と無く少年のあどけなさが残っていた。
「こっちはまだ寝てるし。あれだけ寝ててまだ寝たり無いのかしら」
 利益とは別に、忠勝は再び眠りについていた。
「そう言えば、霧が晴れ申したな……」
「もう、必要ないからですな」
 夢魔の結界は越後からは消えていた。
 結界の目的が達せられたから消したのだろうが、これだけの大掛かりのものを作るのも消すのも容易なことではない。例え毘沙門天が無視していたにしろ、相当の力量の持ち主なのは間違いない。
 逆にこれだけの力の持ち主が揃ったからこそ、成し遂げられたことだろう。
 これは本来、成功する筈のない作戦だった。
 少なくても、一人の低俗淫魔がどう足掻こうとも手の届かない次元の話だった。
 それが誰もが想像し得なかった数多くの協力者の支えによって目的を果たすことになったのだ。

 不覚知らずの荒武者本多平八郎忠勝の勇。
 不死身の首無し妖精騎士前田慶次郎利益の義。
 信玄の眼、表裏比興の戦国寝業師真田喜兵衛昌幸の知。
 鬼謀策謀操りし人愛宰相直江与六兼続の才。
 それに、もう一人。

「御礼もろくに言えなかったけど、いいのかしら」
「良いのではないですか。向こうとの利害も一致したわけですし」
「でも……まあ、向こうには向こうの事情もあるでしょうからいっか」
「ええ」
 その名は上条民部少輔政繁。
 謙信の三番目の養子と言われていた彼の正体を知る者は恐らく殆どいないだろうし、これからもそういないことだろう。
「これから一波乱あるでしょうけど、大丈夫?」
「お陰様で先手を打てましたからね。喜平次様も春日山城の本丸に既に詰めて頂いております」
「樋口殿。それでも戦にはなるぞ」
「不識庵様を苦しめたアレの器の為だけに飼われた泡条の小倅に越後が従うことなど有り得ませぬし、そう思うものも要りませぬ」
「でも意地悪く言うと、今の餓杉があるのもそれのお陰よ」
「失礼ながら岡部様は判っておられないようですな。今の越後があるのは、紛れも無く不識庵様個人のお力です。何を内に飼っておられたとしても、全ては不識庵様が戦い抜いた国が我が国です。例え毘沙門天が姿を為して我々に何を言おうとも、我等は不識庵様にのみ従います。それが餓杉の家臣です。毘沙門天というのはあくまで飾りであり法でありせいぜい心の支えでしかありませぬ。決して、主ではないのです」
 確信に満ちた与六の答えに真幸も利益も頷いただけだった。
「恐らくウチと泡条はその小倅に加勢すると思うから気をつけてね」
「金蔵も抑えておりますし、何より亡き直江大和守様の奥方様も御助力下さる事になっております。手早く終わらせる所存」
「それにそなたもおるしな」
 利益の言葉に与六は少し照れたよう顔を赤くする。
「勿論、持てる才知の限りを尽くして」
「……じゃあそっちも忙しくなるでしょうし、こっちも戦乱に巻き込まれると厄介だから帰るわ」
「はい。それでは……言う必要もないでしょうがくれぐれも道中、お気をつけて」
「今日以上の危機はないわよ。餓杉の御当主様の夢に入っての神様退治ですもの。あれだけの神気の力だから、あそこで討たれれば、本当に討たれちゃうし。当然、バレたら向こうも殺されてくれないから駄目だし……」
「ですが、本当に夢の中でしか倒せなかったのですか?」
「それは貴方が一番わかっているんじゃなくて」
「……」
「彼女とアレに気取られず背後を取れる自信があった? 夢だから湧いて出ることができたんじゃなくて?」
「……ですな」
「ま、私も人のこと言えないけど」
 ニヤリと互いに笑って見せた。
 結局、真っ当に謙信達に対抗出来るのは、利益や忠勝のような並外れた力を持つものだけで、彼女達では普通なら不意などつけない。
 夢魔による夢の中という力を借りてこそ、為せた舞台劇だった。
「じゃあ、またね」
「ええ。縁があったら」
 まだ寝ている忠勝を軽々と背負う利益と共に、真幸はそこを後にした。
 春日山城麓の林泉寺。
 何故かその作りは春日山城内の毘沙門堂と瓜二つであった。



「毘沙門天が……謙信と共に滅んだ……ですって」
 茫然自失の体を彼女は隠そうともしなかった。
 そんな余裕はまるでなかった。
 彼女の人生全てをそれに賭けていて、失った。
 これ以上の衝撃はなかった。
「話が違う! あれはそんな容易く滅びるものではないでしょう!」
「まあな。でも、どっちにしろ無理だったんだ。お前さ、酒椿斎の未亡人に騙されてたんだよ」
「夢魔!」
 彼女の自室には彼女一人しかいないのにも関わらず、会話が成立していた。
「女人だから取り付くんじゃねーの。そして決して若返る為の手段でもねえし」
「……何ですって」
「あれは、寄生虫。宿主の身体も心も貪り食うだけの、性質の悪い神でしかねえの」
「で、でも、それでも謙信は若々しく……」
「はっ、お前とは違ってな」
「くっ!」
「言葉通りに外見だけ必死に取り繕っちゃって……」
「き、さ、ま……」
 気がつくと、夢魔は彼女の目の前に控えていた。
 夢か現か幻か。
 初めからそうしていたように、彼はそこにいた。
 海津城の本丸、高坂昌信の目の前に夢魔と呼ばれる男がいた。
 夢現無想の夢使いこと破茸山弥五郎義春。
 謙信の最後の養子として破茸山家から引き取られ、今は上条餓杉家を継いでいる。
 だが本人は謙信の養子という自覚も、餓杉家臣という気構えもない。
 越後守護餓杉氏の庶流である上条家という家自体が今は存在していないのだから、彼の立場も正体も共に謎に包まれていた。
「食えぬ貧民の末の娘として捨てられるか売られるかしかなかった私の苦労が貴様如き化け物にわかってたまるか!」
「わかんねーよ」
 昌信が血走った目で政繁を睨みつけるも、軽く肩を竦めて見せただけだった。
「まあ、あんたの事情はどうでもいいんだけどね。貰えるものさえ貰えれば」
「なっ。この上私から……」
「知らねーよ。だってそうじゃん。俺っちはあんたから俺の力で謙信をぶっ潰すよーに言われて、その通りにしたわけじゃん。まあ邪魔も入ったけど、言われたことは果たしたんだから問題ないじゃん。その結果、あんたが上手く行かなかったのは俺のせいじゃないし」
「ま、待て。それは私が毘沙門天の力を得……」
「いけないなー。約束は約束。果たしてくれないと」
「待って!」
「あ、何か本当にちょっと前に俺っち、今と同じような悲鳴聞いた気がする」
 そう夢魔は呟くが、昌信には届いていないようだった。
 彼の夢の中で滅べば、現実にも滅びる。
 彼自身がそれを阻もうとしない限り。
 対象がそれを跳ね除ける力がない限り。
 夢も現も変わりはない。
「まあ、今のあんたから貰えるものはそうないと思うから……そだな。その仮面でも頂いておくか」
「なっ!? こ、これを外されたら私は!」
 両手で仮面を押さえて抵抗する昌信に向って、夢魔は軽く手を掲げた。
 まるで彼女の全てを制するように。
 何のことはない。
 とっくの昔に、彼女が彼を自分の目の前に存在すると思い込んでいた時点で彼女は彼と共に彼女の夢の中に沈みこんでいた。
 現実っぽい夢から、夢らしい夢へと切り替わるだけだった。
「では、良い夢を」
「や……」
 悲鳴をあげる間もなく、昌信の視界は白濁に塗れていった。

 白。
 そこは白い闇。
 どこまでも白く、果てしなく白い。
 視界の全てが白く濁り、何処かが歪んでいて、自分は立っているのか座っているのかさえわからない。
 そんな感覚のない白いところに夢の中の彼女はいつも震えている。
 打ちのめされ、叩き潰され続ける。
 痛みに耐えることも、涙を堪えることもできずにただ虐げられる。
 無造作に心と身体を弄られる。
 誰とも知らない何者かに、どれともわからない何かによって、彼女は白い夢の中で陵辱され続ける。
 身体中の毛穴に何かを差し込まれ、身体の中から何かが這いずり回り、身体の隅々までに飛び散っては溶け込んでいくような感覚。
 そこに時はない。
 一刻も半刻もわからない。
 終わることのない果てしなく長い月日のようでもあり、寸時のようでもあった。
 そしてそれは、もう彼女には知覚できる程度のものではなかった。

 仮面の力によって封じられていた数十年という老いが、枷が外れたかのに一気に彼女へと襲い掛かってくる。
 だがそれを彼女自身が知る由も無かったのはせめてもの救いだったかもしれなかった。


「ん、ぁ……」
 呆気なく、目が覚める。
 このところ見続けていた悪夢は見なかったようで、汗をかいていなかった。
 それどころか、長い長い一つの夢から覚めたような気が彼女はしていた。
 肩が軽かった。
 身体が軽かった。
 晴れやかな視界。涼やかな風。
 その全ては数十年前に彼女が失ったものだった。
「あ、れ……?」

 何かが、終わり。
 何かが、始まろうとしていたように彼女は思えた。
 だが、それは。
 彼女とは関係のない世界の話になっていた。



 越後の龍、毘沙門天の化身こと関東管領餓杉謙信が厠で昏睡、人事不省の後の崩御して後、越後は謙信の養子、景勝と景虎の二人によって争われました。
 一年の永き戦の末、勝利した景勝の勝因には常に彼の側にあり片腕となって親身に支えた樋口与六と、策を弄して景虎派の総大将北条景広を討ち、城を捨てて逃れる景虎を追い詰めた上条政繁の二人の働きが第一であったと言われております。
 一方、突如として昏睡した高坂昌信が居城海津城で死んだのは、謙信の死後数ヵ月後のことでありました。去年は五十と二つ余り。
 その仮面の下のその顔は年齢不詳の生前の彼女とは掛け離れた妄執に囚われた老婆の貌であったと、看取った者は口々に周りに申したそうに御座います。


――人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり


 処は異世界、時は戦国。
 これは日本という島国の僅か百年余りの騒乱の時代の物語で御座います。



    〜幻獣辞典・銀祇篇〜 ■『毘沙門天――並びに――夢魔』の巻■



                                  <完>