■『淫魔』の巻■



 処は異世界、時は戦国。
 日本という島国の僅か百年余りの騒乱の時代で御座います。
 駿河遠江三河の三つの国を治める大名がおりました。

 其の名を忌魔川義元。
 前の国主の妹でありながら忌み子として嫌われ、捨てられた彼女でしたが一人の法師の手によって拾われ育てられ、兄の急死には他の兄弟と争ってその地位を手に入れたそれはそれは運の強い女性でした。
 勿論、女一人で成し遂げられるわけもなく、その地位を築くまでには彼女の育ての親である太原雪斎という魔法師が陰に陽に彼女を支えたのです。彼は霊泉院主七世という古今伝授に通じたそれはそれは由緒正しき力を持った御坊様を師としていて、人を呪い殺す術から、人を護る法力まで備え持った一代の傑物でした。
 彼は軍師という肩書きを持ち、義元の行くところに常に従って口を出したかと思えば、一軍を率い総大将として敵と斬り結ぶことも臆さない忌魔川家に無くてはならない存在であったのです。
 ところが、そんな彼にもたった一つ弱点がありました。
 義元を当主にし、今の地位を築き上げるまで延々と多大な魔力を振るい、それを補うことができなかった為、衰弱し続けていたのです。
 それでも彼は義元の為に働き続け、遂に斃れたのが先日の話で御座いました。

「御爺様」
「御爺さん」
「元気かしら?」
「元気なのかな?」
 似たようで似ていない声が雪斎の自室に木霊しました。
 先ほどまで少しも気配を感じることなく屋敷は静寂に包まれていた筈でしたからいきなりです。
 ですが寝ている当人こと雪斎自身は少しも動じることはありませんでした。
「今にも死に掛けた老人を捕まえて随分な挨拶じゃな」
 そう答える彼の声はしわがれていたが声の調子は意外にも確りとしていました。
 瀕死の病人として彼の屋敷にて横たわる、老いさばらえて痩せ細った老人を見たものは彼が忌魔川義元を支えてきた一代の老軍師であることが、信じられないことでしょう。その彼の枕元には二人の女の子が座っていました。まるで双子のように似たその少女達はそれぞれ好対照な表情でその老人を見下ろしているようです。
「全く無様ですわ。御爺様」
「姉様。いきなりキツいよー、それは」
 姉と呼ばれた方の少女は冷ややかな視線と態度を隠そうともせずに、読んだ方の少女は愉快そうに顔を苦笑に代えながらそれぞれ布団を挟んで病躯の老人の脇に座っていました。
「御主等、相変わらずじゃな。壮健で結構結構」
「そりゃあ、若いから」
「御爺様と違いまして」
 妹の言葉に姉が付け加えます。
 顔は表情こそ違えど瓜二つ。
 違うのは妹が肩の辺りで切り揃えているのに対して姉が腰まで伸ばしているその黒髪の長さと、妹が黒いワンピースを着ているのに対して姉は白いドレスを着ていることぐらいでした。この時代にこういう装束をするものはおらず、異常さが目立つことこの上ないのですが、何故だかそれを不思議に思うものはこの国にはいません。彼女等は最初からそうであったかのように思えてしまうほど、その服装が見事に填まっていました。それぞれ一枚の服から伸びる細い手足が華奢で可愛らしく思える程です。

「人の身でありながら限界を超えて魔力を使い続ければそうなるのは判っていた筈。まだまだ義元様の為に働かなければならないでしょうに、ここで斃れてこれから一体どうするのです」
 姉が責めます。
「でもでも、この国って頼り甲斐ある人っていないからさぁ。御爺さん一人でやることも多いし、仕方なかったんじゃないかな」
「貴女も役立たずだったものね」
「えー、いきなりそんなこと言うかなぁ」
「槍働きしか出来ない淫魔はただの役立たずよ」
「ぶぅぶぅ」
「ははは、元綱は人として生まれれば良かったのにのぅ……余所でも一角の部将、ここでなら重臣の一人に数え上げられる武勇才知を持ち合わせておるわ」
「ほらほら、ねえねえ。聞いた?聞いた? 姉様。御爺さんもこう言ってくれてるじゃん」
「あからさまにフォローしてくれているだけよ」
 喜色を浮かべる妹に、にべもない返事を返しました。
「それに人としての限りの勇武才覚は私達魔のものにとっては並み程度。比べること自体難しいというのに。そりゃあ私達眷属の中では抜きん出ているでしょうけど、上級妖魔の本気に比べれば他愛ないものよ。個としての人では勝てぬようにね」
「ぶぅぶぅ」
「それに御爺様。もうこの子は元綱ではなく元信と名を改めているのですよ。岡部の二綱と呼ばれる時代は終わったのです」
「うむ、そうじゃったな」
「あーあ。名前も元康のお下がりだもんなぁ……何か有り難味がなくて残念」
「それじゃあ、御爺様の余命も僅かですし。本題に入りましょうか」
 おどける妹とは対照的に、あくまれ冷静な仮面を崩さないまま彼女は寝ている雪斎を見下ろし続けます。

「尾張に新たな魔王が生まれておるのは知っておろうな」
「禍々しい気が覆い尽くさんばかりですものね。それにしても魔王、ですか?」
「うむ。今はまだ大した事が無いので実感は沸かぬかも知れぬが、あれは紛れも無く魔王に育つであろうよ。それも厄介なことに第六天魔王の気配を持っておる……」
「第六天魔王……シ、シヴァ!?」
「うげげっー……って え? えーと、何それ?」
 姉と雪斎の会話についてこれず、質問を挟む元信。
「第六天魔王とは別名『他化自在天王』。十界は判るわよね?」
「四聖六道でしょ」
「六道とは?」
「天界、人界、修羅界に、畜生界、餓鬼界、地獄界♪」
 姉の問いに吟じるように返します。
「天界の分類」
「六欲天、十八色天、四無色天の二十八天〜♪」
「三界とは」
「欲界! 色界! 無色界っ♪」
「そう。欲界は欲望の世界、色界は物質世界、無色界は精神世界をそれぞれ指していて、中でも欲界は六道の地獄界から天界の中の欲天までを占めるわけだけど、第六天魔王というのはその欲天の一番上に住んでいて、欲界の支配者なのよ」
「うわー、下っ端淫魔には遥か雲の上の世界だね」
「そうね。だからこの世界に現れない限り永遠に無縁でいられたわけよ」
「なーんだ。じゃあ知らなくても問題ないじゃん」
「お馬鹿さん。現に尾張に出現したって今、御爺様が仰ってたじゃない」
「あ、そうか」
「もうこの子ったら……可愛いんだから」
「あはー」
 二人で笑い合ってパチンと掌を合わせる仕草をしました。この姉妹の癖でした。
「それでだ。儂は彼奴の力が大きくならないうちに潰そうと懸命に力を使った。が、果たせずこの有様じゃ」
 姉妹の会話が終わったのを見計らったように老人が口を挟みます。
「そうでしたか……御爺様の御心も知らず失礼しました」
「そっかー。それで元康を育てたわけか」
「え?」
「ほう、気付いたか」
「うんうん。悪いけど御舘様じゃ役者不足だものね。あの子を魔王への抑えにするんだ……ふーん」
「どういうことですか?」
「元信の言った通りじゃよ。今の世には第六天魔王を斃せる者は人魔共におらぬ。だとすればその可能性を持った者を育てるしかない」
「松平元康……あの者にその力があるでしょうか?」
「ないかも知れぬ。が、あるかも知れぬのだ。少なくてもこの近隣ではあの少年ぐらいしか希望が持てぬ」
「では義元様は……」
「……残念じゃが、あの御方では第六天魔王の最初の贄として喰われるのがせいぜいであろうよ。口惜しいことじゃがな」
「……」
「……となると私達リストラ?」
「失業?」
「第二次公園デビュー?」
「家族崩壊?」
「一家離散?」
「「オーマイゴ!」」
「ほほほ。それも結構じゃて」
 咽喉に引っ掛かったような声で雪斎が笑います。
「せめて失業手当は欲しいなぁ」
「氏真様からいただけるかしら」
「というかすぐには滅ばないだろうけどね」
「でも滅びるでしょうけどね」
「亡国の主君だね」
「凡夫の悲劇と言いなさいな」
「でも、あのさあのさ」
「そうですわ。甲斐の天台座主大僧正ではどうでしょう。あの者の法力は今の世でも抜きん出ていると……」
「あと毘沙門天の御気には?」
「御気に?」
「ほら、あの男前の長尾のお嬢様。もう男だったら惚れそうだよね」
「あの方は美人よね」
「美人だよねー」
「私よりも?」
「私よりもね」
「私よりは?」
「私以下だし……ひたいれしゅねーひゃま」
「おほほほほ。可愛い可愛い」
「ふにゃぁ」

「どちらも天運が無い。恐らく魔王を揺さぶることは出来ても倒すことはできまい」

「つまり、御爺様は私達にどうしろと?」
「決まっているじゃない。姉様」
「なあに元信」
「元康君のバックアップ」
「律儀で頑固で吝嗇な三河者を救え!ってことかしら」
「「かしらかしら、そうなのかしら?」」

「まあ、どうにでもすれば良い」
「うわっ、投げやり」
「どうせ私達では大した御力にはなれないでしょうけど……」
「儂にもわからぬのだよ。実際のところ」
「あちゃー、人ならざるものは人ではわからないということなんだね」
「でも、それでしたらどうせいて私達に?」
「決まっておるではないか。ただの愚痴じゃよ」
「あらあら」
「最後までひねくれた御爺様」

 東海一の弓取りとまで呼ばれた忌魔川義元の懐刀、太原雪斎の臨終に立ち会ったのは、この二人でした。
 改めて紹介致しましょう。

 姓は岡部。
 名は姉は正綱に、妹は元綱。でも今は元信。



 この二人は実は、淫魔だったのです。




■『淫魔』の巻 ■




「あら。ねぇねぇ、姉様姉様。何を読んでいるの」
「伊勢物語」
 柱に背中を預けながら書物を読んでいる正綱に、やってきたばかりの元信が興味を示して近寄ってきた。部屋には忌魔川家の家臣団が揃って各々話し合っていたが、正綱は彼らから遠く離れた隅っこ座っていた。
「あー、『業平一代エロエロ記』かぁ」
「『俺の女は俺のもの、お前の女も俺のもの』よ」
「頭中将と性を競ったお話だったっけ?」
「それは光源氏」
「似たり寄ったり」
「あっちは架空。こっちは実在」
「本当本当?」
「さあ、でもわからないならそう考えた方が面白いじゃない」
「そっかー」
「貴女は実は業平子孫」
「貴女も実は業平子孫」
 互いを指差す。
「そこの貴方も」
 ふらふらと徘徊する元信は、目に付いた部将を指差す。
「道行く君も」
 遅れてやってきた家臣を、座ったままの姿勢で正綱が指差す。
「宿直の番卒君も」
 主君の座に控える前髪のついた少年を元信が指差す。
「今夜の御伽なあの若公達君も」
 大奥の方へまるで全て見通しているかのように正綱が指差す。
「みんなみんな」
「業平子孫」
「「子孫繁栄万々歳」」
 最後にパシンと互いの掌を合わせて鳴らす。

「ええぃ、五月蝿いっ!」
 苦りきった一同を代表するように朝比奈泰朝が二人に怒鳴りつける。
 父が死去して後を継いだばかりの彼は、まだ忌魔川家の重臣に当然のように混ざっているこの姉妹に慣れていなかった。慣れていたとしても受け入れているわけではなかったが。
「怒られちゃった」
「怒られました」
「「備中守に叱られてビッチュリ仰天」」

「………」
「泰朝殿! 堪えて! 堪えてっ!!」
 殴りかかろうとする泰朝を周りが必死に止める。

「ねえねえ姉様。泰朝様って短気だね」
「短気みたいね」
 わざとらしく口元に手をかざしながら聞こえるように声の調子を少しだけ落としてつつ、目でチラチラと泰朝を見ながら話し出す二人。
「御父上の泰能様はそうじゃなかったのにね」
「私達のやることなんて笑って見ていらしたのにね」
「短気ってことはやっぱりアレも早いのかな」
「早いんじゃないかしら。泰能様は早かったし」
「早かったんだー」
「でも回数は重ねられていましたわ。流石は歴戦の古強者と感心しきり」
「だから早死しちゃったんじゃないかなー」
「私は味方をヤり殺したりはしないわよ」
「長照様の御父上は?」
「長持様は腎虚。何度も寝たけど偶然偶然」
「戸部の政直様は?」
「やったの貴女でしょ?」
「あれ? そうだっけ?」
「確りしなさい。義元様に命じられたの貴女だったじゃない」
「あ、そうだったそうだった」
「私達は其の為に義元様に飼われているんだから確りしなさいな」
「私は性の殺し屋さん♪」
「私も性の殺し屋さん♪」
「逆らうものも」
「手向かうものも」
「刃向かうものも」
「逃げ出すものも」
「男も女も」
「老いも若きも」
「敵たるものは」

「「みなみな余さず犯り殺し〜♪」」

「あ、でもねでもね。政直様は槍で討ったんだからちょっと違うよ」
「元信ったら、淫魔の風上にもおけないわね」
「あー、私は姉様と違って一軍の部将としても働かねばならないのですよ」
「人手不足だからかしら」
「うーん。単に私の鎧武者ぶりが可愛いからじゃないかなぁ」
「言うわね、妹」
「言ったよ、姉様」

「あんたたちいい加減になさい」

 気を飲まれた格好で誰も口を挟めないでいた状況を変えたのは一人の婦人だった。
 婦人と言っても女房衆でも女中でもない。彼女もまた一族を率い、一城を預かる忌魔川家の部将の一人であった。
「あ、親永様」
「親永様。こんにちわー」
 関口親永と呼ばれたその婦人は挨拶する姉妹の首根っこをそれぞれまるで買い物袋でも持ち上げるように軽々と持ち上げると、
「このお馬鹿さんが」
「「にぎゃっ!」」
 互いの頭をぶつけた。

「泰朝様、本当に申し訳ありませぬ」
「い、いや……刑部少輔様が謝ってくださるには及びませぬ」
 頭を押さえる二人を掴んだまま泰朝の前に行くと、そう言って深々と謝罪する。泰朝も彼女のその並外れた怪力に気圧されたのか、ごもごもと口籠る。他の家臣もどこか引いたような空気が流れていた。
「ごめんね、泰朝様」
「騒ぎすぎましたわ、泰朝様」
「……う、うむ」
「今度サービスするからね」
「子供が出来やすい性技とか、持続するテクニックなどお教えしますわ」
「なっ!」
「あんた達!!」
「「にぎゃっ!」」
 再び互いの頭をぶつけられる。
「見ての通り餓鬼の放言で我慢できないことも多いでしょうけど、殿の為にも堪忍してくださいませ」
「は、はぁ……」
「親永様。酷いですわ」
「そうだよー、姉様はこれでもじゅうな……んぐっ」
「歳の話は禁句ですわ」
「でもでも!」
「黙れ。喋るな」
「「はい」」
 親永のドスの効いた声に大人しくする二人。雪斎が死んで以降、この姉妹に関わるのは彼女など数少なく、姉妹も判っていたのでそれほど彼女の前で無茶はしないように心がけているようであった。その限度に差はあるようではあったが。
 それから数刻後、場が白けかかっていた頃に漸く場の主人である忌魔川義元が現れて本来の会議が行なわれた。

「あんた達、待たせたね! これから尾張の小僧をブチ殺しに向うわよ!」
「ははっ!!」
 化粧の濃い女性が集まった家臣一堂に向って吼え、それに家臣団が呼応する。
 いつもの光景。
 出陣に際しては毎回このようなやりとりが行なわれるのだが、今回は大きく違うことがあった。彼女の隣に太原雪斎という老魔法師がいないことと、松平元康という人質として扱われていた少年が一武者として参加していたことであった。

 この忌魔川家では義元の代になって以降、重臣達が集まる場では軍議であろうと政の話し合いだろうと、義元が中心となって賑やかで華やかに行なわれていた。その軍議と酒宴が合わさった場で正綱は、最初そうしていたように隅っこで柱に寄りかかりながら、冷ややかな目でその騒ぎを眺めていた。
 いつも着ている白い服は生地も薄いわりに彼女の身体には少し大きいので、少しずれると彼女の肢体が覗くことになる。親永の手から開放された後、柱に寄りかかってから座り込んだ為に背中の生地が少し引っ張られていて、身体に張り付くようになっていた為、小ぶりの乳房がくっきりと形が判るように見えていた。

「この中で生き延びるのは幾人かしら……」
 正綱はそう一人ごち、列席者の顔を一人一人眺める。
 酒宴の中心になっている大柄な女性、彼女が仕えている主でもある忌魔川義元。
 顔には刺青のような特殊な文様の化粧が施され、その額にはもう一つの目のように真っ赤な宝玉が埋め込まれていた。彼女が魔を遣う者であることの証である。これにより何の力も無い筈の彼女が魔法を使うことができる。その宝玉は雪斎が持っていたもので、彼女を拾った頃に埋め込んだのだと言う。
 その宝玉は埋め込んだ相手に魔の力を与える代わりに、その相手から生命力を吸い取って魔として溜め込むものだという。これによりその者が生きている限り、魔力を補給し続けることが出来るという仕組みだ。
「無論、力の無い者が扱うには相当危険な代物らしいけれど……」
 正綱は元々、宝玉へ魔力を溜め込む為の生餌として義元を拾ったのだと告白したあの老人を思い出す。荼毘に附され、寺に祭られた大恩人も相当の極悪人だったと言えよう。思わぬ素質があったのと、彼女の生家がこの名門大名だったということからのたまたまの結果であった。
 そんな雪斎にとって偶然の産物の義元が、雪斎が懼れ自分の寿命を削ってまで抗おうとして適わなかった魔王を討つという。物の道理を少しは弁えていれば笑わないではいられない。
 生前雪斎が第六天魔王こと汚堕信長を警戒するように幾度も義元に警告したのが逆に仇になった。却って義元は小僧なにするものぞと余計に突っかかる素振りを見せるようになり、そして今日の尾張併呑の決定である。
 信長の父信秀は手強い敵であったが既に死に、息子の信長には良い噂が一つとして流れてこなかったのが、義元の驕りを増させた原因でもある。だが目端の利く者は彼が家の内紛を上手く押さえていることを知っていたし、鼻が効く魔の者は尾張の隣国の美濃に巣食っていた蝮という妖魔と彼が手を組んだ事実を知っていた。蝮と呼ばれる妖魔は、寄生虫に近い生き物である。その生まれは遥か遥か昔のことで、はっきりと正体を知っているものはいなかった。狙った獲物の体内に侵入し、その力を全て奪い尽くしてから腹を食い破ってその獲物に成り代わる化け物である。食い破る際、獲物の姿形になっていて、記憶能力も取り込んでいるので、入れ替わったことに少なくても人間では気付く者はいない。魔物でも嗅ぎ分ける能力を持っていないと蝮であることが判らないほどである。それが今、美濃御前こと帰蝶として信長の妻に扮して第六天魔王に従っている。たかが淫魔如きでは永き時を生き抜いてきた蝮一匹にすら太刀打ちは出来ない。勿論、刃向かう気はないのだが、向こうが滅する気があるのであれば別である。自分の命の為にも戦わねばならない。だが、その戦は今日の義元の下での戦ではない。


「今日は正綱殿は壁の花かのう」
「景貫様」
 無礼講の乱痴気騒ぎになってもなお放って置かれていた正綱に、酒宴から抜けてきたのか徳利と盃を持った天野景貫が近づいてきて声をかける。
「御相手しましょうか?」
「いやいや、この年寄りには貴殿の相手は少々身体に堪える。遠慮しておこう」
 腰を上げ、裾を持ち上げてみせる正綱に、景貫は軽く手を振った。正綱も今はその気分でなかったので、それ以上言わずに座り直した。すると盃が差し出される。
 正綱が盃を受け取ると、景貫が酒を注いでくれた。
「また元信殿も出陣されるし、正綱殿も寂しくなるのう」
 彼女の妹の元信は、忌魔川家の武将達と肩を並べて酒を酌み交わし、笑いあい、話に興じている。淫行の時だけ加わる正綱よりも自然と近い距離を置けているようだった。それは彼女が部将として数々の手柄を立ててきたことが大きい。彼らに認められるだけの存在になっていた。
「元信は最近では尾張を抑えるべく鳴海の城に詰めておりますし、仕方がありませんわ。今日、久方に顔を見られて安心したところです」
 正綱はこの景貫を苦手としていた。年齢不詳を地で行くこの男は心を読み取らせず、人を油断させる術を備えていた。駿河と三河の間の国、遠江の犬居に居を構えるこの部将はいつ頃から今川家に仕えているのか義元をはじめ、誰も知らなかった。朝比奈や鵜殿のような譜代の臣でもなく、葛山、松平のように同盟、もしくは従属した小大名というわけでもなく、伊丹、大沢のように新参でもない。いつの間にか臣として連なっていたというのがピッタリくる表現である。
 彼の領地、犬居にはこれといった町もなければ大層な城もない。見渡すことも難しい生い茂った草原と草木に囲まれた天然の山が彼の本拠であることから、正綱は彼を土着した神が転じた魔のものと見ていたが、尻尾をつかませてはくれなかった。無論だからといって敵対する理由はないので、結局のところ関わらないことにしている。
「此度の戦。我等は暇じゃ」
「いえいえいえ。私は漢字書き取りに計算ドリル、単語帳の覚えと親永様に課せられた宿題を片付けなくてはいけないのでとても忙しいのです」
 見た目の歳相応を演じて見せるが、相手は苦笑しただけだった。
「正綱殿は何やらそれがしを誤解なさっているのではないか」
「ゴカイムカデにクモミミズ。夏場は虫が多くて困ります。私は単に私を愛しても憎んでもくれない殿方は気をつけるようにと、母よりキツク言い渡された遺言に従っているだけで、そんないやいや」
 露骨に避ける正綱だったが、景貫は気分を害したような素振り一つ見せずに微笑んでみせると、
「信虎入道殿が貴殿達に会いたがっておられる。宜しければ渡って下さらぬか」
 そう耳打ちしてから、去っていった。

「はて、あの暴虐御隠居様が私達淫魔如きに如何なる用か?」
「九日十日」
 入れ替わりに、甲冑姿の元信がやってくる。普通の部将と変わらない作りの大鎧を着込んでいるのでこうして見ると小柄な若武者にしか見えない。事実、前線に立って指揮を執る一軍の部将としての側面も元信は持っていた。正綱も母から受け継いだ岡部党の郎党を率いて初陣は済ませていたが、義元からは雪斎子飼いの妖魔としての役割しか期待されていないし、正綱自身もそう思っていた。けれども今は元信の方も頬を高潮させて酔ったような媚を含んだ瞳に、覚束無い足取りで淫魔としての姿を覗かせていた。肌着から着物から全て着崩れしているところを見ると、無礼講をそれなりに楽しんできたらしい。景貫に捕まるぐらいなら、自分も加われば良かったかなと正綱は少し後悔する。
「姉様姉様。景貫様は猛田の者なのかしら?」
 鎧を着込んだ元信はいつもやるように正綱の膝の上に乗って甘えるような仕草は取らなかった。鎧が重いからである。
「さあ、ただ信虎様は晴信様とは断絶なさっている筈ですし……」
「まあ、行ってみましょうか」
「私は今日は用無しだからいいけど、貴女はいいの?」
 そう言って、正綱は元信の口の端にこびり付いていた白く濁った液体を指で拭って自分の口に運ぶ。
「あらかた予約した相手はしちゃったし……あとは人間の娘とまぐわう方が彼らも良いんじゃない」
 元信が着崩れた自分の装束を直しながら答える。見ると、女中衆も加わって乱痴気騒ぎはいよいよ増してきていた。いつも夜通しで行なわれているので、今日もまだまだ続きそうだった。
「そうね。じゃあ無礼講の今のうちにいきましょうか」
「うんうん。義元様にも気付かれないようにね」
 上座で複数の男達の相手をして上機嫌の義元の様子を窺いながら、二人して場を後にした。
「あ、そうだ。姉様」
「なあに?」
「泰朝様だけど……泰能様より早かった」
「あらまあ」
 さっき口に運んだ雫が随分淡白な味だった事を思い出しながら、正綱は肩を竦めて笑って見せると、元信も微笑み返した。


 猛田信虎。今や甲斐の虎と呼ばれる猛田信玄の父親である。
 彼は妖魔と人との混血で、外見はより人に近く、性質はより魔に近かった。
 なので戦には無類の強さを発揮しながらも、普段の行いは非道悪辣が続き、手に負えなくなった甲斐の彼の家臣団は、彼に嫌われていた嫡子晴信を押し立てて彼を追放した。その彼が落ち着いたのが彼の娘婿にあたる義元の館であった。娘婿と言っても実際は義元は女なので、子を為すことはない。しかも義元は女を愛すことは滅多にないので、主に己を高める餌とし道具として使われることが多く、彼の娘も正室という立場でありながら、その扱いは他の娘達と変わりが無かった。信虎もそれを承知で娘を送ったのだからこの世は無情である。虐げられているといっても問題が無いほどの扱いを受けている娘を肴に一杯やろうとノコノコとやってきた信虎だからこそ、追放されたとも言えるが。
「遅い!」
 隠居舘と言う名の牢獄に囚われている信虎は岡部姉妹が来ると真っ先に怒鳴りつけた。その声は頑強な牢獄全体を震わせるほどの音量であり、力の弱いものはそれだけで命を落としかねない。
「そんないきなり呼びつけておいて、それはないんじゃないかなあ」
「そうですわ。ご隠居様。いきなり怒鳴るのは我侭ですわよ」
 身体中を鎖で縛られ、または杭で打たれ、術符やら結界やらで幾重にも厳重に封じられているというのに、こうして平然と喋っている。彼も紛れも無く一代の魔人であった。
「フンッ! 貴様等如きの戯言に付き合う程余は暇ではない」
 釘で打たれた目を向けて、十文字に割かれている咽喉で喋る信虎。これほどの彼を捕えることが出来ていることの方が驚く。恐らく相当の魔物であろう。生前の雪斎に聞いたところによると、山本道鬼入道という遣い手らしい。今は信玄の軍師として甲斐にいるらしいのだが、姉妹はその者に会ったことも見たことも無かった。できれば会いたくないというのが姉妹の共通した認識である。
「それで御用といのは何でしょうか?」
「手短に」
「簡略に」
「そそくさと」
「とっとと」
「「言ってくださいな」」
「喧しいわっ!!」
 そう一声、吼える。結界が張られていなければ、声に込められた魔力で沢山の人が狂死しかねない迫力だった。
「まあ良いわ。貴様等を呼びつけたのは他でもない。義元後のことについてだ」
「……」
「……」
 信虎の物言いに対して、互いの顔を見合う二人。アイコンタクト。
「貴様等も感づいておろう。此度の戦であの阿婆擦れがくたばることぐらいは」
「何を仰ることやら」
「それでは私達はこの辺で」
「フン。この儂が根拠のない話でもすると思うか。他でもない、そうなるように仕向けたのには儂も一枚噛んでおるぞ」
 信虎の言葉に出て行こうとした足を止める二人。
「あ奴の佩いておる太刀。あれは左文字という持ち主を祟る魔刀じゃよ」
 筑前国隠岐島の左衛門尉安吉作、宗三左文字。
 三好宗三政長から信虎に贈られ、義元との婚儀の際に引き出物の一つとして贈られて、義元の佩刀になっている由来有る二尺六寸の業物である。
「聞きました? 姉様。この御方、お祝いに呪いの品々を贈ったんですって」
「売られたのと同然の娘さんといい、その品々といいロクなものじゃないですわね」
「酷い人だね」
「酷い人よね」
「フン。このような細工、生易し過ぎて欠伸が出るわい」
 本当に馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「それにあの刀で呪うは義元ずれではない。あれはついでのオマケじゃ」
「といいますと……」
「義元を討つのは誰じゃ?」
「汚堕様ですね」
「汚堕様かぁ」
「そうじゃ。あれが育てば手に負えなくなる魔王になるという。嘘か真かは知らぬが災いの芽は早めに積んで置いて損はない」
「杜撰な計画だね」
「行き当たりばったりとも言うわね」
「これじゃあ図られて囚われの身になるのも仕方ないよね」
「自業自得よね」
「でだ」
「無視されちゃった」
「そりゃあ、御隠居様ですもの。小鳥の囀りに耳を傾ける雅さは持ち合わせておりませぬわ」
「御前等、儂がここを出たら真っ先に殺してやるが構わぬな」
「「御免なさい。許してください」」
 声を揃えて謝った。この魔人に本気で睨まれたらかなりやばい。
「フン。だったら最初から人の話を邪魔するでないわ。でだ、義元が死ねばこの国は終わったも同然じゃ。何せ雪斎がおらぬのだからな。あれは傑物じゃ。人の身でありながら、人を超えた魔力を持っておった。それに比べれば義元なんぞ奇抜な玩具を持たされただけの姥桜に過ぎん」
「まあ、否定はできないかな」
「忌魔川家臣として辛いところですわ」
「息子の氏真などはあ奴の女陰にこびり付いた恥垢に過ぎん。一族も鵜殿に浅井に……あとは誰だったかな? 蒲原もそうか。まあ関口あたりはマシだが、到底この世を生き延びるだけの才覚もない奴等ばかりだ。よくもまあ、あんな無能ばかりを揃えたと逆に感心するぐらいだ」
「否定できませんわね」
「忌魔川家臣として辛いところだよね」
「それでだ、貴様等は魔物としてちょっとは力を持っている。しかも義元に忠誠を誓っているわけでもない。決まりだ。儂と組んでこの三国を統べるのに力を貸せ」
「決められちゃいましたよ」
「決められちゃいましたね」
「ふん。どうせ放っておいても晴信か氏康に奪われるだけの地じゃ。だったら儂が治めて何処が悪い」
「いや、貴方様が治めたからこそこうして甲斐から追放されたわけですし……」
「駄目だよ、姉様。この人聞いてない」
「ふっふっふ……晴信めが。この儂に楯突いた罪、殺すことなく念入りにいたぶってやるわい……」
 甲斐の国の方を向きながら腹の底から哄笑する信虎に、姉妹は互いの顔を見合わせて肩をすくめて見せた。
「ところで御隠居様」
「なんじゃ?」
「景貫様は御隠居様と結んでおられるのですか?」
「あ奴はここの番もろくに果たせぬただの儂の使い走りじゃ。臭いからして晴信あたりと組んでいるようじゃが、なあにその計を逆手にとってやるだけのことじゃ。儂が暴れれば勝てるものなどおらぬわ! はっはっは」
 どうやら信虎は腹芸は持ち合わせていない人のようだった。
 勿論、姉妹が鄭重にその申し出を断ったことは言うまでも無い。


 忌魔川義元公出陣。
 東海を統べ、三国一の弓取りと呼ばれるだけのことはあって、彼女の軍勢は近隣の諸国も羨むような大軍勢だった。
 隣接国で最大の難敵である猛田、そして泡条と同盟を結び、姻戚関係を持っていただけに背後の憂いがない行軍である。
 このまま遠く西の都を目指しても決して笑われないだけの勢いがあった。
 無論、実際そこまで上手く進むことはありえないし、準備もしていない。
 今回はあくまで尾張の汚堕を討つ為だけの戦であった。東海を完全に押さえ、西上へ更なる道を開く為の足がかりを得る為の戦いであった。
 忌魔川義元はこの時代に覇を唱えるに相応しい存在であったが、自分が猛田信玄のような大名としての風格を備えていないことも、泡条氏康のような大名としての気質を未だに持ち合わせていないことも知っていた。何より実戦の経験は二人に比べて乏しい。忌魔川家の戦は殆ど雪斎が行なっていた。尤も梃子摺った汚堕信秀との幾度の合戦でも彼女が行なったのは後方からの呪詛や魔術による支援程度であった。内政に関しては自信があるものの、外征に関してはまだ磐石の自信を持つまでには至らなかった。そうした目で見るとこの大軍も威容を誇るものではなく、不安の表れと思ったほうが正しいのかもしれない。

「それでも人間、死ぬ時は死んじゃうんだよね」
 忌魔川軍の最前線に当たる尾張鳴海城には岡部元信が城代として軍を連れて籠もっていた。尾張の汚堕、それに三河の松平、水野ら諸族を監視し、押さえつける役目に彼女はついていた。元々、ここを護っていた山口教継を笠寺で軍監として監視していた彼女だったが、反逆の証拠を掴んで義元に報告し、彼の処分まで果たしたことを評価されての起用だった。義元は自分と同じ女である元信を高く買っていたようで、岡部姉妹を部将格に引き上げたのは元信が義元に可愛がられたのが大きい。次女である彼女が長女の正綱を差し置いて偏名である元の字を賜ったことからもわかる。それまで岡部は御噺衆として裏方に徹し、低い地位で甘んじていたのだ。ただ、戸部一族、山口父子の謀反は敵方の信長の策略であった。それを知っていた上で騙されたふりをして扱いが邪魔な元汚堕家臣だった彼らを誅したのか、それとも本当に騙されただけなのかは元信と義元しか知らないことであった。
 結局、それによってあくまで子飼いの妖魔として汚い仕事ばかりやらされていたのが、今や座敷で譜代の部将達を弄ぶことも気侭に出来るようになっていた。快く思わない者から、奸臣と思われるのも仕方がない。元信は殊更、部将としての一面を見せることで岡部衆への風当たりを弱めるべく苦心していた。彼女らこそれっきとした純粋の淫魔の家系だが、その配下達は岡部の土地に土着し地元の人間と交わりを幾世代も続けた結果、そう人間と変わらなくなってきている。となると彼らにとって岡部姉妹はただの淫魔であっては困ることになるのだ。厄介な話だが。
 ただ、それとは全く別に元信自身が一軍を率いる侍大将、一城を預かる部将として槍を持って戦うことを好んでいたこともある。その性格も姉と異なって豪傑に似たところもあり、彼女と個人的に仲の良い部将も少なくない。特に共に戦った者は皆、元信の武勇に感心し、その態度に好意を持つ。元信も人を嫌う素振りも見せなければ、横柄なところも見せないので、相手の気持ちに素直に答える。人間と変わらぬ、そう思わせてしまうだけのものを持っていた。自ら戦う姿勢だけではないだろうが、兵卒にも評判は悪くない。その一方で、彼女に食われたものの数ももの凄い勢いに登っているのではあるが。淫魔としての食生活もなかなか大変らしい。

「ふわぁ……もう終わりかしら」
「はあ」
 元信は身なりこそ完全武装だったが、副将相手に欠伸交じりに愚痴を零すぐらいに気が抜けていた。
「それよりもこんなことをしていて良いのでしょうか?」
「貴方も留守番の方が良かった?」
「いえ、そういことではなくてですね……」
 この鳴海城に対して汚堕側が築いていた善照寺砦、丹下砦、中島砦にはこれといって目立った動きは無かったのだが、先ほど遂に善照寺砦からおよそ三百の兵が、攻め懸けてきたので討ち払ったばかりだった。鳴海城には元信率いる三千の兵が籠もっていたので無謀極まりない攻勢だった。元信らは深追いはせずに押し寄せた敵を散々討ち払った後は逃げるに任せて追撃はかけなかった。用心深さもあるがそれ以上に、面倒臭いという気があったようだった。どうせ追撃をかけても砦に逃げ込まれるまでの間しかないし、追い過ぎると反撃を食らう怖れも有る。しかもこの兵力で砦を制圧するのも不可能ではないが、鳴海城の守りが手薄になる真似は出来ない。元信達が出来るのはここまでだった。一方で、同じく尾張侵攻の拠点として鵜殿長照が籠もる大高城への備えの汚堕側の鷲津砦や丸根砦に対しては、義元本軍から先陣を言い渡された朝比奈と松平の両軍がそれぞれ攻略していた。このまま義元率いる本隊が大高城に入れば、あとはそこから敵の本拠である清洲城攻めに入ることになるので、この鳴海城は重要な拠点ではなくなる。この戦にもう自分達の出番は無い。そう感じている元信主従なだけにイマイチ緊張感が薄れつつあった。しかし出番が無い理由についてはそれぞれ違った結果を想定してのものであったが。

『でも御舘様ってばどう殺されちゃうのかしら?』
 彼女が殺されるのは間違いない。
 数年前に今際の雪斎が予言し、今回の出陣前に牢獄内の信虎が明言し、自分達もそうなるだろうと漠然と感じていたことだ。今更変わるとは元信には思えない。
 だが、義元も彼女の息子や譜代の家臣団と違って馬鹿ではない。
 彼女の乗る輿にはあらゆる魔や術、呪い、災いから身を護る仕置きが為されていたし、彼女が入城していた沓掛城、そして次に向う大高城でも物々しい儀式の祭器が運び込まれ、悪鬼調伏怨霊退散の陣が張ってある。雪斎直伝の方陣である。たとえ信長が第六魔王であろうとも、生半可なことで破れる事は無い筈だった。元信程度の魔では触れたら最後、決して癒える事の無い火傷を負うことになる。数秒触れ続けたら身体の全てがバラバラになって死滅する。近寄るだけでも危険なぐらいだ。だからこそ義元は自分を鳴海城に留め置いているのかも知れないが。
「兎に角、私の役目はただひとつ」
 姉に言われている通り、義元の額に埋め込まれた宝玉の回収。それも出来れば程度の話だった。義元の死で彼女の命を極限まで吸い込んだその宝玉を奪い取ること。そんなものに頼る必要が無い魔王信長にとっては不要なものなだけに、奪える確率は低くない。恐いのは価値のわからない味方に奪われたりしないかという点だけだった。
「まあ、御爺さんに恩があるのは判るけどね……」
 姉、正綱はその宝玉を駿河の城に留め置かれている松平元康の妻に託すつもりだそうだ。どう使うのかは元信には判らなかったが、彼女の判断は常に正しい。少なくても元信はそう信じているので特に異を唱えるつもりは無かった。生半可な魔物であればその宝玉の力を己にと思うところだが、分は弁えていた。淫魔如きが余計な力を手に入れたところで何の役にも立たない。半端な力は破滅しか生み出さないことを知っている。使いこなせる力量と素養があるものに任せれば良い。それが元康自身なのか元康に連なるものなのかはわからない。初めは今の自分の名前である元信、そして今は元康と名乗る少年の顔を思い浮かべながら、これから先のことを考えていた。
 実を言えば先ほどの善照寺砦からの無謀とも思える攻撃の隙に、砦から一軍が移動していたことに気付いていた。同時にこの一見無謀な鳴海城攻めは、その軍兵を隠すための囮だと察していた。だがそれでも精々どれだけ多く見積もっても千か二千の兵なだけに、どう動かしたところで義元本軍を襲うのは難しいと判断する。
「岡部様!」
「なあに?」
 城の周囲を見回らせていた物見の兵が一人、戦況見聞と称して先ほどの戦場で早めの昼食を洒落込んでいた元信達の元に駆けて来た。
「北の山間に野武士か山賊と思われる連中が隠れ、城の様子を窺っているようです」
「はあ?」
 最初はさっきの戦で砦から離脱した一軍のことかと思ったが、そうではないらしかった。
 すると変な話だった。
 もし野武士や山賊、もしくは武装した農民達であるならば勝ち組につく。
 まだ決着はついていないが、この戦、どう見ても忌魔川に分がある。
 それにこの鳴海の城を執拗に襲うことに利があるとも思えない。
「もしや信長が自暴自棄になって……」
 先ほどの囮の一軍のことを知らない副将が脇から口を挟む。こういうことを嫌がらない元信の気質を知っていたからこその差し出口だった。
「それは……困るわね」
「ですが、手柄の機会になるやも知れませぬぞ」
 いや、困る。元信は口の中で繰り返した。
 信長が勝つと知っている身からすれば、信長の軍に戦いを挑むというのはかなり危険な行為である。義元が討たれるのとばっちりで死ぬのは御免だった。火種がこの鳴海でないことを祈りたかった。
「かと言ってこれで兵を引くのは不自然だしね……」
「へ?」
「何でもないわ。じゃあ準備だけはさせておいて」
 城に残している軍兵と連絡を取って合流させる指示を出そうとしたその瞬間、不意に鬨の声が挙がった。報告の通り、北の山間からパラパラと粗雑な身なりをした足軽が視界で確認できるだけで十数人余りが飛び出し、こちらに向ってくるのが判った。
 対するのはこの付近で早めのランチを取っていた元信主従数百騎。残りは城の守護と砦への備えにあてていた。
「もう、お昼ぐらいゆっくり食べさせなさいって。ねえ?」
「あ、あのっ」
「もう騒がない騒がない」
 元信は苦笑してその慌てて立ち上がった副将の手首を掴むと、その指についていた御飯粒を舐め取った。この先彼女が予定していたデザートはお預けのようだったのはその副将にとっては幸いだったかも知れない。
「退るなっ! 固まって追い討ちなさいっ!!」
 主よりもよっぽど確りしているのか、数十名の親衛隊は既に馬に乗り、小脇に槍を抱え込んで命令を出す元信達と敵との間に馬を進めた。
 ほぼ同時に小姓達が元信に彼女の槍と馬を連れて側に控える。
「備えあれば憂いなし」
「普通、そういう人はこんな真似しません!」
「ぶぅぶぅ」
 副将の言葉に頬を膨らませつつも、彼と共に馬に跨る。
 それとほぼ同時に先陣同士がぶつかりあい、二人はそれに加わるべく馬を奔らせた。
「こっちが足並み揃わないうちに攻め懸けるのはいいけど……あまりにあんまりじゃない?」
「はっ、敵は小勢です。陽動でしょうか?」
「伏兵ならさっきの攻勢と共に仕掛けているわよ」
 副将と馬を並べて槍を振るう元信は、謎の敵を攻勢をあしらいながらもその不可解さに首を傾げていた。
 少数による不意をついた斬り込み。
 その行動は理解しつつも、理由が判らなかった。
「まあ、こっちも足並みは見事に乱れているから、狙いは悪くないけどね」
 元信は相手の必死さを感じ取って、どうやら連中はここで死ぬぐらいの覚悟があると推測した。
 それでもすぐに人数の優位さから押されていた戦況を立て直す。
 後は囲い込んで一人一人討ち果たせばそれで終わる。
 元信はその指示を出しながら、出来れば一番手強そうな相手とぶつかってみたくなって戦況を見渡した。
「あれが大将ね。格好は野武士だけど武家っぽいし。いいこと。あれは私の獲物だから邪魔しないこと」
「はっ」
 徒歩で足軽の様相に不釣合いな朱塗りの大槍を振るいつつ、敵の中でも一際目立つ活躍を見せている武士の元に元信は馬を駆けさせた。副将らは彼女から距離を置いて続く。彼女が余所から襲われない為の支援だった。
「そこな君! 何が目的かは知らないけどもうお止めなさいな」
「ぁあん!?」
 戦場とは思えない巫山戯た口上で馬を寄せてきた大将に対して、その若者は思い切り胡散げな顔を向けた。
「忌魔川の部将は主に似て皆公家の出来損ないみたいな奴ばかりというのは本当のようだな! 女みたいな顔と身体しやがって。それでこの俺様を討とうとでもいうのかよ!」
 若者は反抗的な目つきで馬上の元信に対して槍を構える。
 元信は慣れた動きで素早く馬を下りた。
「はンっ!」
 その行動を愚かと受け止めたようで、その若者は元信に向って槍を突き出した。
「きゃっ!? こら! 折角合わせて馬を下りてあげたのに……せめて名乗りぐらいあげさせなさいよ!!」
「そんなに名乗りたければ、だったら源平の世にでも生まれていろってんだ!!」
 慌てて防いだ元信は槍を交わしながら抗議するが、構わず若者は槍を繰り出す。
「もうっ、後で酷いわよ……」
「後なんてあるかよ!」
 口を尖らせて抗議する元信を若者がせせら笑う。
「ていやっ!!」
 そしてそのまま掛け声と共に若者は朱塗りの槍を元信に向って突き出すが、
「わっととっ」
 元信は身を躱しつつ、手甲で槍を跳ね上げるようにして攻撃を防ぐ。
「っ!?」
 見た目に相応しくない力を見せられて面食らいつつも、若者は崩れた身体のバランスを立て直して再度突きかかってくる。
「ぅりゃぁぁぁっ!!」
 自信を持って繰り出す槍の攻撃を幾度と無く躱され、または受け流され、防がれ続けることに焦燥感を感じながらも攻撃の手は休めない。
 たまに仕掛けてくる反撃をあしらいつつ、槍を振り回し足技も駆使しながらせめてこの斬り合っている敵将だけはと、必死に力を込めるものの効果無く槍は虚空ばかりを突く。それどころか逆に相手の槍の攻撃を肩をかすめ、勢いで倒れ込んでしまう。
「くっ」
 尻餅をついた体勢から、槍を支えに素早く立ち上がろうとするが距離を詰められ、そのまま押し倒されるようにして押さえ込まれる。
「もう、云わぬこっちゃない」
「この、舐めるなっ」
 言いざま若者は槍を捨て、鎧通しに手を掛けようとするがその手首を掴まれ、捩じ上げられる。
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!」
「わ、滅茶苦茶我慢してる。えっと……折れるよ、折れちゃうよ?」
「ぬぐわぁぁぁぁぁぁっ!!」
 手首を犠牲にして這い上がろうとするも通じなかった。
「……御免ね。火事場の馬鹿力でもビクともしなくて」
「こ、このぅっ!!」
 手首を捻られ、馬乗りにさせられた状態になりながら必死に挽回を図る若者に、申し訳なさそうに謝る元信。
「このっ、見た目は脆弱な癖してっ……化け物め!」
「はい、正解」
「なっ、じゃ、じゃあ……」
「知らなかったんだ? じゃあ改めて自己紹介。岡部美濃守信綱が子、鳴海城代岡部五郎兵衛元信。こっちじゃ初陣から摘み食いまで結構色々やってるし、尾張の人なら名前ぐらいは聞き及んでいると思うけど、自惚れかしら?」
「なっ!? お、お、お前がぁ!?」
「ふっふーん。そゆこと」
 ちょっと自慢げに鼻を鳴らす。
「てめえのようなのが岡部だなんて聞いてねえぞ!」
「ぶーぶー。だって君が名乗らせてくれなかったんじゃない」
「あの、敵は全て追い払いましたが如何致しましょうか?」
 馬乗りの元信と彼女の身体の下でジタバタともがく若者を困ったように見ながら、副将が声をかける。見ると既に敵の姿は無く、周りは味方の騎兵だけだった。
「それじゃあ、各砦へ備えた兵を残して、私達は城に戻って御舘様の指示を待ちましょう」
「最初からそうしていれば……」
「もう。口煩いんだから。ねえ、君もそう思うわよね?」
「うがーっ! くがぁーっ!!」
 その会話中にも若者は必死に脱出しようとしていたらしく、吼えながらもがき続けていた。
「もー、聞いててよー」
「知るかっ! ……もう、いい。殺せ!」
 元信の身体の下で散々もがいていたものの、諦めたように手足を投げ出して抵抗をやめた。
「それで君、お名前は?」
「はぁ?」
「ほら、まだ名乗ってないじゃない」
「……」
「ほれほれ。言えないような恥ずかしい名前?」
「……前田又左衛門利家!」
 元信の挑発に、吐き捨てるように名乗る若者。
「前田……ああ、確か信長の小姓してた子よね?」
「殿の勘気を被ったまま死ぬのは無念だが止む無しっ」
「なるほどなるほど」
 馬乗りの姿勢のまま納得したように幾度と無く頷く元信は、組み敷いた利家の顔を改めて見詰める。
 前田利家。寵愛を受けていたことで図に乗っていた信長の側近に幾度と無く無礼を受け、怒りに任せて斬り捨てた為に信長の逆鱗に触れて追放されていた。
 流浪生活をしていたものの旧主の苦境とにいても経ってもいられずに兵を集めて、この鳴海城に押し寄せたのだと理解した。勿論一手柄を立てて汚堕家への帰参を果たそうとしての行為だろうが、それでも勝ち目の低い汚堕に組しようとするその心根は評価したかった。
「そうかー、あれが噂の又左の槍ね」
 先ほどの利家の奮戦振りを思い出しながら、納得する。
「嬲るな。急く急くこの首討て!」
「ふ、ふ、ふ。最初に言ったじゃない」
 身体を傾け、利家に顔を近づけて笑いかける。
「後で酷いわよ、って」
 そう言って、元信は利家の唇に自分の唇を重ねた。
「……っ!?」
 この瞬間、驚愕する利家が目にしたものは彼女の背後で頭を抱えてため息をついている彼女の副将の姿と、口を離して赤い舌を出す元信の顔だけで、すぐに天地がひっくり返るような眩暈と濁流に飲み込まれるような睡魔に引っ張られて気を失った。


 鳴海城の本丸の一番奥の元信の部屋で延べさせた夜具の上に裸の若者が寝ていた。
 身体の数箇所に治療が施されていたが、怪我をして介抱されているわけではない。
 身体が痺れて動かせないだけだった。

「このっ、この恥辱っ……うぬぬぬぬっ」
「やっぱり若いっていいよねー」
 既に湯浴みを済ませ、身繕いを始めていた元信が、満足そうに目を細める。
「身体中に力が漲ったわ……くぅぅ、生き返る程の心地よさとはこのことね」
「こ、この淫魔っ!!」
「いや、その通りだし」
 辛うじて自由が利く口で罵る利家に対して、元信は平然と既に用意してあった着替えに袖を通す。
「いや、本当に凄かったわ、又左衛門君。槍の又左の名は伊達じゃなかったわぁ」
「手前、俺より年少の癖に!」
「一応ね。でも身分はずっと上だし、いいじゃん」
「これがその身分のある者のすることかよっ!!」
「稚児遊びは偉い人の特権……って、睨まない睨まない。冗談だってば。もう……」
 元信は腰を下ろすと、寝ている利家に甘えるように頭を擦り付ける。
「や、止めろっ」
 手で払いのけようとするが、力が入らないらしく好き勝手されていた。
「お互い、こんな仲になったわけだし。仲良くしようよ」
「出来るかっ! お前が無理矢理……」
「戦とは女を殺し、男を犯すものだって死んだ母様が……」
「それは逆だ!」
「まあまあ、これを縁にひとつ……れろれろ」
「鼻を舐めるな!」
「むぅ……あんなに喘ぎ声上げて悦んでくれたのにつれないなぁ」
「そ、それは……」
「お松ちゃんだってきっと、こんなことしてくれないよ」
 利家の耳たぶを齧りながら、耳の穴に息を吹きかえる。
「や、止めろ! な、何故あいつの名前を……」
「よがってた時、最初に奥さんの名前だしたの君じゃん。他の女の名前を出すって失礼なことだよ。知ってる?」
「き、聞いてたのか……手前だって喘ぎ狂ってた癖に」
「もう、気持ち良かったんだもん♪ 良い滋養補給になりました。感謝感謝」
「………」
 元信は笑顔で押し黙る利家の肩をポンポンと叩く。
「でもまだその娘、初潮迎えたばかりなんでしょ? あんまり無理しちゃ駄目よ?」
「言うなっ!」
「キャッ♪」
 振り回す腕を避けるようにして身体を離すと、
「乱暴者ー」
 おちゃらけた声で抗議する。
「るさいっ!」
「……あ、そうだ。又左衛門君。もし子供が出来たら名前は何にしましょうか」
 ふと思いついたように、悪戯っぽく微笑む。
「なっ!?」
「あれだけ出したんだからそりゃあ……ねぇ?」
 両手の指を折って回数をわざとらしく利家の目の前で数えてみせる。
「そうねー、前田家の偏名は『利』でしょ? 私の方は『綱』だからやっぱり男の子なら『前田利綱』が妥当かしら」
「そ、そんな勝手に!」
「まあまあ、その子が元服の折にはちゃんと父様の希望も聞いてあげるから。でも、悪くない名前でしょ? ああ、きっと野性味溢れる粗野で軽率でそそっかしい猛将になるに違いないわ……」
「ま、待てぇっ!」
 何とか身体を起こそうとするが、果たせず手だけ元信の方に必死に伸ばす。
「うふふふ、なぁに? パパ♪」
「み、認めんぞ。そんな妖魔如きに前田家の……」
「もう、嘘よ。嘘嘘! 嘘だってば。そんな必死になっちゃって……大丈夫。滅多なことじゃ私達が孕むことなんて無いから安心していいわよ」
 笑いながら部屋の隅に移動すると、鎧櫃に仕舞うことも無く投げ出されたままだった具足を再び付け始める。
「でも、ちょっとだけ精力吸っちゃったら、影響はあるかも知れないわ」
「はんっ、俺の運命は衰弱死か腹上死ってところか?」
「そこまでしないわよ。ただ君の力が気に入ったから吸っただけよ。君自身にはそれ程影響は無いから安心して。ほら、若いし」
「じゃあ、何に影響があるって言うんだよ」
「子孫繁栄能力……って、子供ができなくなるってわけじゃないわよ。ただ前田利家としての武の力を私がちょっと貰っちゃったから、生まれてくる子供にはそれが引き継がれないってことだけ」
「ちょっと待てコラ!!」
「君自身は今のままだからいいじゃない。君の子の時代までには槍働きが不要の治世の情勢になってればいいんだし。その為にも君らが頑張れば万事OK♪」
「何か騙されているような……まあ、いい。で、手前は俺をどうするんだ。殺さないのなら、飼うつもりか?」
「ううん。それも魅力的だけど……」
 元信は脛当を付け、籠手の紐を結び、上帯を締めなおすとほぼ外で戦ったままの姿に戻った。
「おい、もしかして出るのか?」
「ううん。もう戦はお終い。ただ兵卒も不安でしょうから、主従固まって完全防備で一夜を明かすのよ」
「そうだ! おい、戦は一体……」
「忌魔川治部大輔、田楽狭間にて討ち死」
 動かない身体を鞭打って立ち上がりかけた利家の唇に人差し指を押し付けて、元信が封じる。
「しっかし、やるわよねー。まさかあんな有利な地に連れ込むだなんて、どんな裏技使ったんだか……」
「な、に……?」
「だからこの戦は忌魔川の負け。私達の負けなの。お分かり?」
「じゃ、じゃあ信長様は……」
「今頃清洲を凱旋してるんじゃないの?」
 気楽な口調でそう説明する元信に、利家は不審を抱いて
「お前、もしかして汚堕家に気脈を通じて……」
「違うわよ」
「じゃあ何でそんなに落ち着き払ってやがるんだよ!」
「まあ、何とかなるわよ」
「ならねーよっ! このままだとこの城襲われるだろうがっ!」
「大丈夫大丈夫。その時は城を枕に討ち死にするだけだから」
「それは全然大丈夫じゃねえっ!」
「あ、心配してくれるの? ちょっと感激」
「違うわいっ!」
「まあ、信長公の出方は予想できるから君が心配しなくても大丈夫よ」
「だったら主君を討たされたりしないだろーがっ」
「もう、信用ないなあ」
「手前、今の今まで信用されるような真似一つたりともしてないだろうが」
「そんなたった数時間の付き合いで全てを知ったような……」
「ああ、もういいっ! 煩い! で、どうするんだよ、お前は! どうなるんだよ、俺は!」
 ウンザリといったポーズを作ってから、裸のまま寝ている利家は武装した元信を見上げる。
「前田又左衛門利家殿」
「んあ?」
「取り合えず君はすぐ落としてあげるから心配しなくてもいいわよ」
「はぁ?」
「そろそろ腰……は兎も角身体は動くでしょ? そこらに脱ぎ散らかしてあるから自分のものに着替えて用意できたら、この城から出てっていいわよ」
「お前はどーすんだよ」
「私はまだ一つ大きな仕事が残っていますから」
「ふうん……」
「さっき言ったでしょ? 明日まで待機」
「へ?」
「もうじき軍使が来るでしょうから、それにこう伝えるのよ」
 コホンとわざとらしく咳払いをして、元信は真面目ぶった顔を作る。


「この城が欲しければ御舘様の首級と引き換えにって」



 駿河、遠江、三河の三つの国の太守忌魔川義元は様々な者の思惑の元、大軍を率いて尾張併呑の野望を果たす道中、汚堕信長の奇襲によって雷雨の中、田楽狭間にて討ち果たされました。
 義元に付き従った将士の討たれた者は数知れず、難を逃れた者もその殆どは雪崩をうって領国に引き上げていく有様でございます。
 僅かに逃げることなく踏み止まった忌魔川の将は只二人。


――忌魔川に見るべき者が二人あり。三河の舎弟に岡部元信。


 信長がそう評した一人、松平元康はこれを機に三河の本拠岡崎城を奪還することで忌魔川から独立を選び、後に第六天魔王を斃しての天下取りへの第一歩を踏み出すことになりました。
 そして岡部元信。
 彼女は信長に請い受けた義元の首を奉じ、敵将水野信近を討つ奇功を稼ぎつつ、忌魔川軍で唯一、悠々とした行軍で駿河に帰還致しました。
 その時、出向かえた姉と彼女は掌を合わせ、高らかに鳴らした手の音は深く駿河の人の心に残ったと伝えられております。


 処は異世界、時は戦国。
 これは日本という島国の僅か百年余りの騒乱の時代の物語で御座います。



                                  <完>