『さらば初恋』
ある日、例によってバイトまでの微妙な隙間時間ができてしまった俺は、何気なく足を屋上に向けた。
風が好きだった。
理由もなく、好きだった。
風フェチなのかも知れない。
……んなわけあるか。
とにかく、好きだった。
司「おー、いい風……」
さらに高い場所がある。
貯水槽だ。
巨大なタンクが据えられている出っ張りによじ登る。
そこでは、
準「……」
司「……」
準がカニをパクついていた。
五分後。
俺と準は、タラバの食べ方を研究していた。
司「だから、ガーっと甲羅まで割らないと駄目なんじゃないか」
準「……でも、それだと垂れる」
司「一気に割ったら垂れないんだ、きっと」
準「でもゆっくり割って垂れるものが、急いでやって垂れないなんて……ない」
司「うーん」
カニ味噌を口にしてみる。
準「ごほっ」
司「げほっ」
準「けほこほっ」
司「ごほがほっ」
司「駄目だ」
準「……何処が美味しいんだろう、これ」
司「さあ……口に合う合わないがあるのかもな」
準「タラコ、みたいなもの?」
司「ああ、俺辛子明太子は苦手」
準「……わたしも」
司「俺には必要ないな、これは」
準「……わたしも」
揃ってタラバを捨て、揃って足で踏み潰した。
そのとき、ふと準の指に痣を見つけた。
司「それ、何の痣?」
準「あ……これは……ちょっと……」
準はさっと痣を隠したが、俺はそれが挟圧によってできた傷だとわかった。
司「何かで挟んだのか?」
問うと、準はかすかに身をすくませた。
準「ちょっと……もめて……」
司「誰と」
いつもは口にしない類の問い。
準「商売相手」
司「……」
司「なんの商売?」
準「……ザリガニ釣り」
司「ふ、ふーん」
準が、そういう行商をやっているという噂は知っていた。
そうか、今日はザリガニの代わりにカニを釣り上げてしまったというわけか。
そっちの方がいいんじゃないのか?
そう思ったが口には出さなかった。
準「……あ、これ返さないと」
と美○しんぼを差し出す。
司「も、持ち歩いてたのか?」
準「……まさか」
平然と言った。
準「暇つぶし」
やっぱ持ち歩いていたんじゃねえか。
準「……伊勢海老って、凄いね」
何がだ……。
内心忸怩たる思いで、それを受け取る。
司「まいったな」
準「……男の子は、やっぱり興味あるもの?」
司「え?」
準「こういう……美食的なこと」
司「そりゃ、まあ、ないっつったら嘘になるよな……」
いや男とか女とか関係ないし。
準「沢村くんも?」
司「お、俺っ?」
準「こういうこと、興味あるの?」
司「そりゃ、まあ、ないっつったら嘘になるよな……」
美味しいものを食べたいという欲求は不詳この沢村司にもある。
準は思案した。
準「どれくらい、興味あるの?」
司「え? どれくらいって?」
準「日本円で換算すると……どれくらい?」
司「なに言ってんだかわかんないんだけど」
伊勢海老の値段が知りたいなら、魚屋に聞くべきではないだろうか。
準「……答えて」
俺の裾をつかんで問いかけてくる。
潤んだ瞳。
不意に意識させられる、異性の香り。体。物腰。
途端、平常ではいられなくなる。
司「俺は……」
準「ねえ」
かすかに震えた声で、懇願するように準は言った。
準「……ねえ、わたしのこと、買ってくれない?」
とくん
心臓が、自己主張をするように強く瞬いた。
何を考えていたのか。
どうかしていた。
まともじゃなかった。
まさかカニバリストな展開に?
俺は準を買った。
好奇心か、食欲か、その両方か。
とにかく俺は準を買った。
景「その嘘思い出話とこの準姉さんの女体盛りとの関係にどう繋がるんですか!」
司「まあ、その、なんだ。甲殻類の素晴らしさを身をもって体現しようとする……」
準「……マグロは甲殻類じゃない」
景「…………」
景は無言で二人を叩いた。
これ以上なく濁りきった目で。
<おしまい>