―― 遙 ――
土岐遙の日常は早朝訓練から始まる。 夜が明けきらない前から基礎鍛錬の為に町内を走り、柔軟で躰を十分にほぐしてから素振り用の剣を握る。 鉛を溶かし込んで重さを調節した木刀を基本の型から、自分で戦いの中で身に付けた応用までを一つ一つ丁寧に剣を振るう。 彼女がそれまでいた那古教団、そして今いる悪司組には稽古用の刀はなく、それは彼女が抜刀術の道場に通ってきた時から使っている愛用の刀で、柄にあたる部分は彼女の掌の形に凹んでいて他の誰も使うことはできないほどに使い込まれていた。 剣を握った時から続いている習性だった。もう暫くは変わることは無いだろう。 彼女もそれなりの結婚願望はあった。 剣士である以前に一人のニホンの乙女であった。 良き夫を見つけ、夫を支え、夫に尽くす。 両親にそう躾られ、子供の頃から染み付いた観念はウイミィ占拠下の今でもそう簡単に拭い取ることはできない。 彼女が結婚に憧れているという一面も大きいのだが。 だが、今の彼女は自分のことなど少しも考えていなかった。 自分以外の人の為、一人でも多くの人の平和と安らぎの為に尽くすのだと心に誓っていた。 だからこそ、その為には剣を取り、人に刃を向けることも厭わない。 自分のあがり症を解消するために始めた剣術だが、その事で自分が人の役に立つのであれば躊躇わなかった。 そしてその為にも自分の腕を磨くことを怠ってはいなかかった。 素振りだけで済ませることもあれば、同じように稽古に励んでいる誰かと組んで手合いをすることもある。 「遙さん、お手合わせお願いできるかしら」 「あ、はいっ」 二百本ほど素振りを終えた所で、声を掛けてきたのは甲子園熱子であった。 彼女はこの悪司組の中でもかなり古参の幹部で、遙が那古教で敵として戦っていた時から前線にいた女性である。見た目は普通の主婦だが、その実力はかなりのものだった。 彼女は元々、格闘コロシアムのあるコウシエン出身の女性で、幼い頃から格闘大会を見続けのが高じて自らも戦いの中に身を投じたと言うだけあって、その鍛え方も戦い方も半端ではない。 稽古熱心な者同士、何度か話す機会も多くて今では組の中でも仲の良い人の一人だった。年齢は熱子の方が上で、世間の細々としたところは経験もあって師事することも少なくない。遙にとってはちょっとしたお姉さんのような存在の一人だった。 「そう言えば熱子さん、得物変えたんですね?」 彼女の得物は元主婦らしくフライパンであった。 それが今、手にしているのは使い込まれて黒光りする鉄の平鍋ではなく大きな戦斧だった。 それほど肉厚なものではないが、それでも相当の重量はありそうだ。 「うーん、そのね。最近ただのフライパンじゃ物足りなさを感じてきたから、ちょっと変えてみようかなぁって」 他の人との区別もつかないからと笑いながら、戦斧を軽々と片手で振り回す彼女の実力は伊達ではない。組の幹部の一人として名を連ねているだけのことはある。 「そんな話を愛ちゃんとしてたんだけど、島本さんが長いこと慣れ親しんだ武器を変えるのは危険だからって、これを勧めてくれたの。打撃に拘るなら金棒もあるって言ってくれたんだけど、やっぱり見た目がねぇ……」 口元に手を当ててホホホと笑う仕草は悪司組の管理下に住むそこらの若い主婦そのものだが、その会話の内容は物騒極まりない。わかっていても引いてしまう。 「これならまあ、中華包丁みたいなものかなって」 「は、はぁ……」 斧を軽く一閃する。一見すると華奢な体つきに見える彼女の身体はその動きに振り回されることは無い。筋肉が引き締まった無駄の無い戦う為だけに鍛え抜かれた躰だった。 「じゃあ、いきますね」 遙は余計なことを考えない方がいいと雑念を追い払って、稽古に集中する。 「ええ。お願い」 そう言うと、熱子も表情を引き締めて下段に斧を構えた。戦いを楽しむ彼女だが、今は真剣そのものだった。例え練習でも気を抜いていると死に繋がりかねない。戦いというものを知っている者だからこその仕草だった。 一方で遙は訓練用の模造刀ではなく、素振り用の鉄の棒を手にしてその熱子の前に立っていた。 マトモに打ち合ったら模造刀は勿論、遙の腰の刀でも折れてしまうかも知れない。決して質の悪いものではないが、名刀ではない。鋼をも断ち切ることが出来るのは遙自身の腕であって刀の力ではない。彼女のような相手と実戦で対する時には体勢を崩さずかわす事が大事になってくる。 彼女がパワーに拘る戦闘スタイルであるのに対して、自分はスピードだけで戦うタイプである。鍛えてはいるけれども非力さはどうしようもない。同じ女性である熱子なら何とかなる部分もあるが、彼女の数倍もあるような体格の大男をも相手にしなくてはならない時に、まともにぶつかるようなことになっては致命傷になる。 「いざっ」 「はぁぁっ!」 遙の鉄棒が熱子の喉元を狙い、戦斧で払う。 「くっ…」 「たぁっ!」 それぞれ動作は大きくなく、共に次の動きへと繋げていく。 彼女達の訓練は、いつも死闘同然の真剣勝負になる。 周りで訓練していたもの達もいつしか、彼女達の戦いに見とれてしまっていた。 「お疲れ様でした」 「お疲れー」 朝の調練が終わると他の人への挨拶もそこそこに、遙は仕事に戻るべく空き地から足早に管理組合事務所へと向う。 その道筋、さっきの熱子とのやりとりを思い出していた。 争い事は止むを得ないと思う。 それでも安易に人の命を奪うのはどうかと思う。 当たり所が悪ければ死ぬという程度のフライパンから、人の命を奪うことを前提に作られた戦斧。 熱子の腕からすれば、刃に当たればそこを断ち切るだけの威力はあるだろう。 フライパンの時よりも死人が多く出るのは間違いなかった。 「効率良く……ですか」 熱子に薦めた島本の言い分はわかるが、納得しきれないのが遙であった。 確かに抗争をしている人たちは命の奪い合いさえも厭わない。 遙自身、考えたくない事だが沢山の人を傷つけている。 この剣によって目の前で人を殺した事こそないが、この剣の傷で死んだ人もいなかったと断言できる自信はないし、自分が率いてきた信者達や今の部下達の手で命を落とした人も少なくない。そして勿論、こちらが相手に殺されることも多い。 人の命が非常に軽い。 陽子さんや寧々さんも沢山の人の命を奪った。 自分だけ綺麗な身でいるつもりはない。 それは那古教さまだけでよかった。 その意思を継ごうと決めている自分には関係がない。 信念は固い。 が、時折不安になるのだ。 本当に自分は正しい事をしているのだろうかと。 自分の行いが、人々を助ける事に繋がっているのかを。 不安になるのだ。 山本悪司が本当にそれを実現してくれるのかどうかと。 「遙様。おはようございます」 事務所近くの道を急いでいると、仮面を被ったアフロヘアの集団が遙に気づいて声をかけてくる。 「おはようございます。もう、立場は変わらないんですから様というのは……」 そんな他愛のない会話を交わしながら、遙は彼らと共に事務所に向かう。 彼らに名前は無い。 彼らはかつて属していた道場を飛び出して、那古教に入信した信者仲間だった。 その元いた道場が高名な空手道場で、彼らもそれに見合うだけの腕前を持っていたことで、剣の腕が認められた遙と同様に警護役などを一緒に任されていたことが少なくなかった。その仮面は道場を出る時に掟によって自ら焼いたのだという。彼らの素顔は遙も見たことがないが、その忠誠心は本物だった。今、こうして同じ悪司組にいるのも遙と同じように、那古教の理想を継ぐ為にいるのだと遙は信じていた。 「でも……」 何で一様にあんな頭をしているのだろうという疑問は聞けないまま今に至っていた。 「悪司さん。おはようございますっ!」 「ん? あ、おーす」 青年奉仕団という自警団があった粗末な事務所をそのまま使っている今の悪司組事務所に入ると、起きたばかりらしい眠そうな顔をしている悪司に遙は挨拶した。 土岐遙の一日がまた、始まった。 「それじゃあ、ちょっくらその辺を廻ってくるわ」 いつものように殺や大杉、島本らと共に夕子の朝食を食べると、楊枝を口に咥えながら悪司は元青年奉仕団の事務所を出た。 わかめ組を追い出され、青年奉仕団を乗っ取って以来悪司はずっと裏番に徹している。これは元々ニホンを占領するウィミィの政策によって組織のTOPは女が努めなくてはならないというものもあってのことだが、実際自由奔放な性質の悪司は表向きの業務に囚われることのない今の立場は気にいっているようだ。その分、実際のTOPである彼の叔母の殺や情報収集から運営までを引き受ける島本らの苦労が多いのも事実なのだが、今のところは上手くいっていた。 だからこそ悪司も他の組員と変わりなくこうして散歩がてらに巡察に出掛けることも珍しくない。彼に付くのは大概彼の手下のチンピラ共ばかりで、そんな彼の姿を見ているとオオサカの半分を支配下に収めている管理組合の裏番とは誰も思わない。 が、彼の正体を知らないものが殆どいないというのも一方では事実であった。 「今日はちょっくら足を伸ばしてナンバ辺りまで行くとすっか」 「いいッスね」 ナンバには馴染みの食い物屋が多くある。 悪司がそこに寄れば、一緒に歩く取り巻き連中は大概相伴に預かれるので手下らは一も二も無く賛同する。 そんな気侭な見回りと称する散歩を始めようとしていると、何処からか視線を感じて足を止める。 「どうしやした」 「いや……」 怪訝そうなチンピラの声を無視して振り向くと、少し離れた電柱の陰からこっちを見ている人物に気付く。 「ん? 何やってるんだオメエ」 「そ、その……」 「今週は確か仕事はないんだろ。帰らねーのか?」 支配地域も増えたが、人員もかなり増えていて一人あたりの仕事も以前ほどは多くなくなってきている。基本的に組員や幹部は島本から与えられる仕事をそれぞれこなすことになるのだが、人が多いだけに仕事のないものも増え、その場合は休み扱いになる。今週の遙がまさにそうだった。 その彼女が電柱の陰で悪司の後をつけているのは不可解な行動だった。 隠れて様子を窺っているとすれば不自然だし、単に踏み出せなくて物怖じしているだけならそこまで隠れる事もない。 そんな不信な目で悪司らに見られ、暫く俯いて何やら言い澱んでいた遙だったが、何か決意したような眼差しで顔を上げると、その物腰に多少怯むチンピラには目もくれず小走りに悪司に近寄ると、 「え、え、ええと、ご、護衛してもいいですか?」 必死な顔でそう言ってきた。 「はぁ?」 「その、悪司さんって命を狙われるほどの人じゃないですか」 怪訝そうな表情になる悪司に遙はまた俯いてしまいながらも、続ける。 「まあな」 「だから、その……」 遙の声が徐々に弱まってくる。 「アンタの気持ちは判らないが、別に俺に護衛なんかいらねーぜ」 「でも……」 何とか食い下がろうとするものの小声で俯いたままなので勢いがない。そんな遙に悪司は畳み掛けるように言い捨てる。 「今までだって特に危なかったことはないしな」 敵に狙撃されたり、斬りかかられたりされることは悪司にとって、危ないことではないらしい。車に轢かれそうになったことも別に事件という認識もなく、ろくに報告もしないぐらいだった。 「で、でも万が一ってことがあるじゃないですか」 体中に傷を作りながらも平然としている悪司に対して、必死で食い下がる遙はやっとの思いで顔を上げる。 「そりゃそーだが、その時はその時だ。運が悪かったと諦めることだ」 「そんな! そんなんじゃ困りますっ! お願いです、邪魔はしませんから……」 そんな懇願せんばかりに必死の遙に悪司はこれ以上言うのも面倒になって、言葉を遮るように手を振った。 「わかったわかった。じゃあ好きにするといい」 「は、はいっ」 お手上げだとばかりな表情の悪司だったが遙は気にした素振りもなく、喜色さえ浮かべて頷いてみせた。 そんな問答の末、漸く悪司とチンピラは巡回を再開させるが、遙は一緒に行かず悪司達から数歩離れた後方をついていく。 「………」 「あ、き、気にしないで下さい」 悪司や取り巻きに振り向かれるとその度に慌てて手を振ってそう言ってくる。 「気にするなって言ってもなぁ……」 一応遠目から周りを警戒するように見ているようだが、背中を見張られているようでイマイチ落ち着かない。 取り巻きのチンピラも同様らしく、母親に監視されながら勉強をする小学生みたいに、身体を縮こまらせながら悪司について廻っていた。 その日限りかと思えば、それからというもの悪司が外に出る時は必ずといって良いほど、遙がついて回るようになった。 「悪司さん。あの娘…」 「ああ、あの剣術ねーちゃんか。好きにさせてやりな」 持ち前の鷹揚さで、行動を共にする配下のチンピラ達ほど彼女の存在を気にしなくなった悪司だったが見回り途中の地区で出会う部下、出会う部下に不思議そうに聞かれるのにはいい加減に面倒になってきた。 悪司も呆れたように、 「面倒だから一緒に歩け」 「あ、で、でも……」 「いい加減、鬱陶しいんだわ。落ち着かないしな」 「す、すみません……」 「だから謝るぐらいなら……」 「………」 「ああ、わかったから。な? 一緒に来るなら横を歩け。でなけりゃ帰れ」 「はい…………っ!?」 問答中、不意に周囲から沸いた殺気に反応して遙の表情が変わる。 銃撃音と剣撃音がほぼ同時に重なり合う。 民家からの狙撃に呻き声をあげたのは数名のチンピラだけだった。 悪司は誰よりも早く身を伏せていたし、遙は居合いで自分と悪司に向けられた銃弾を斬り落していた。 他のチンピラも勘の良い者は即座に伏せていたし、そうでない者も一瞬後はおのおの身構えたり、隠れたりと反応良く動いていた。 そして悪司の判断を待たずに狙撃現場の民家に気づくやいなや、それぞれ得物を持って向かって行った。悪司と遙とその二人を守るように囲んだ数名だけがその場に残る。 「どこの連中だ?」 「恐らくピーチマウンテンの連中かと」 立ち上がって服の埃を叩く悪司の問いに、取り巻きの一人が答える。 「んじゃ、そいつらを」 「へい!」 顔も上げずに負傷者を指差すと、取り巻きの一人が搬送の人員を呼びに事務所に向かう。 「あ、あの、大丈夫、でしたか?」 「ああ。おかげさんでな」 「あの……」 「ん、どうした?」 「い、いえ……その……」 「だからもっとはっきり言えって」 呆れ口調の悪司にますます萎縮するが、一度深呼吸してからゆっくりと尋ねる。 「このまま、本当に平和が来るんでしょうか」 「平和、ね」 遙の不安げな表情も見ず、悪司は大あくびをして、 「そのうち、なんとかなるんじゃねーの」 あまり興味なさそうな口調で答える。 「それじゃあ困ります!」 「うお」 突如、大声を出した遙にのけぞる。 「私は! わ、私は……」 身を乗り出した遙の背後で捕獲に向かったチンピラの一人が戻ってくる。 「悪司さん! 一部は逃がしましたが、捕まえました!」 「おーし、それじゃあタイホだタイホ。とっとと連行しろ」 「へい、そ、それが……」 チンピラは歯切れの悪い返事をして、チラチラと遙の方を見る。 「え、あ、あの私……何か……?」 途中で固まった姿勢のまま、不躾な視線を受けてうろたえる。 「どした?」 「そ、それが連中……」 「ん?」 「那古教の残と――」 「悪司組ぃぃぃぃぃぃ!」 遙から視線を外したチンピラの声に被せるようにして男の叫び声が聞こえてくる。 「暴れるな!」 「こ、こら大人しくしやがれ!」 押さえ込んでいる数人のチンピラを振り解くように、縛られた男が転がるようにして通りの方に飛び出していた。 遙は驚愕の表情を浮かべ、悪司は低く口笛を吹いた。 男は見覚えのある那古教の装束を着ていた。 今も自分の着ている聖女のものとは違い、もっと簡素な作りだったその衣服は一般信者で教団に詰めているものが与えられていたものだ。 上質とは言えないその生地は既にボロボロで、土と血に塗れていた。 それを目にした瞬間、思わず遙は目を閉じる。 まるで由女が血を流しているような錯覚に囚われたのだ。 「おー、おー。まだ頑張ってるヤツがいたんだな」 悪司は変わったものを見るような目で、上から圧し掛かられるようにして取り押さえられている男の前に立った。 「言っとくが、もうウィミィの連中に引き渡したから奪還なんか考えても無駄だぜ」 今頃、あのいけすかない女研究者にバラバラに刻まれたりしているのだろうと思いながらもさすがにそこまでは口にしなかった。 「うるさいっ! 貴様さえ! 貴様達さえいなければっ!」 「そうしたらそうしたでどうせあの女のことだ。市議会を通り越して駐留軍が動いただろうし、そうなったらきっと皆殺しだ。俺たちのお陰で少なくてもお前はこうしてここにいられるってことを忘れてもらっちゃ困る」 両手をポケットに入れたまま、嘲笑いを浮かべながら冷ややかな口調で見下ろす。 「うるさい! この! このっ!」 ぺっぺっと血の混ざった唾を飛ばすが、悪司の靴にも届かなかった。 「いい加減、諦めたらどーだ? その執念深さは買うが、しつこい男は嫌われるぞー」 「ざけるなっ! 俺たちはそこの売女とは違う!」 「っ!」 「そんなことはおめーには関係ねーだろーが」 「うるさいっ! 貴様は引っ込んでろ!」 「人のこと狙っておいて引っ込んでろとは随分身勝手な話だな」 「悪司さん」 「ん?」 茶化す悪司を手で制すようにして遙が前に出ると、下から睨み付けるその元信者の男の視線を逸らさずに受け止める。 「へっ。その男のちんぽがそんなに良かったか?」 「……」 一瞬、感情が揺らぐがすぐに表情を戻した。 「那古神様や他の聖女様が今の薄汚い貴様を見たらなんて思うかな」 「わ、私は……」 「おい。あんまり無理すんなって」 屈み込んだ遙の肩に手を当てるが、遙は視線をその男に向けたまま身動ぎしなかった。 「淫売! 毒婦! 幾らで那古神様を売……」 「貴方とは……違いますから」 「はっ。そうだろうよ。打算で寝返るような……」 「自分の不遇を嘆き、鬱憤を他人にぶつけるだけの今の貴方とは違いますから……」 遙が必死で歯を食いしばっているのを見ると、悪司は軽く肩を竦めて遙の肩を掴んでいた手を離し、彼女の気が済むようにと数歩下がった。 「私は那古教の理念である平和な世の中を作るため……」 「口ではなんだって言えるわな!」 押さえつけられている男が咆える。 押さえつけているチンピラ二人が困ったように悪司を見るが、悪司は放っておけというように手を軽く横に振って見せた。 「でも貴方は何もしてないじゃないですか!」 「何だと!」 「人を憎むだけで! 罵るだけで何もしようとはしてないじゃないですか!」 その男の目を反らさず、寧ろ挑むように側にしゃがみこむ。 「それに今の貴方がしていることは那古神様の理念でもなんでもない! 自分の恨みとしてその名前を唱えているだけじゃないですか!」 叩きつけるように、叫ぶ。 「那古神様が嫌った人を傷つけること。世を乱すことしかしてないじゃないですか!」 「ヤクザの走狗の貴様が!」 その男の認識も遙はおどおどとしているものしかなかったのか気圧されて、咆えることしか出来ないでいた。 「ヤクザの走狗だからってどこが悪いんですか! ヤクザかも知れない! 悪人かも知れない! ろくでなしかも知れない! でも、でもっ」 「うわー。すげー、言われよう」 背後で悪司が茶化した声を上げるが、必死な遙達には聞こえなかったようだ。 「それで人々が救われるなら、安らげる世の中が来るのだったら、私は……」 「ふざけるな! 那古神様をウィミィに引き渡したコイツラが平和だなんて!」 「だったら今の貴方は何だって言うんですっ! ヤクザ以下じゃないですか! そんな貴方が、皆が安らげる世の中を目指した那古神様の理念をわかろうともしないで!」 「今の自分を正当化するだけの詭弁を弄するな!」 「私は那古神様の理念を継ぐ為に、悪司さん達の手伝いをしています! 那古神様は自分が祀られる世を目指した訳じゃない! 崇められる生き神として存在したかった訳じゃない! あの方だって一人の……この戦後の混乱に苦しむただ一人の女の子だったのに……無理をして頑張って先頭に立ったのは……ただ誰もが安らげる未来を求める為に……だから、だから私はもうどうなってもいい! それでも、それだから私は!」 「はいはい。もーいいだろ」 応援部隊が到着したのを見て、悪司は遙の肩を掴んで起き上がらせる。 「あっ……」 「貴様、まだ話は……!」 「うるせえ」 遠慮仮借なく、悪司は男の顔面を蹴りつける。 鼻がひしゃげて、口から折れた歯が飛んだ。 「っ!」 咄嗟に顔を反らす遙。 「ま、俺はヤクザだからな。説法なんて必要ねえの」 嘯くことで、気を取り直して抗議しかける遙を押さえ込む。 「あ……」 遙は悪司を見て、そして気絶した男を見て、もう一度悪司を見たが、悪司は既に駆けつけた面子の前で指示を送っていた。 「じゃあ後は任せた。片付いたらそのまま見回りも引き継いでおいてくれ」 「ああ、心得た」 応援に駆けつけたのは元相撲取りである巨漢野比ひかりだった。 特に事後処理に適している訳ではないが、書類作業が不得手な彼としては常に出回っていたいのだろう。周りの者にたどたどしく指示を下していく。慣れてきてはいるようだった。 悪司はもう気絶した男も、現場からも意識を外して自分が引き連れていたチンピラを纏めて帰路に着く。 「ん、どうした?」 さっきの場所に立ち尽くしていた遙に気付いて、近づく。 「気に病んでるのか?」 「え? いえ……ええ……」 声をかけられたことで顔を上げるも、すぐにまた俯いてしまう。 「こんな時、那古神様だったらどうしたかなって考えると……」 「いねーやつのこと考えたってしょーがねーだろーが」 「そうなんですけどね、私、結局あの人に何も……力で押さえ込むしかできなくて……そんなのじゃ……」 「はあ」 悪司は大袈裟にため息をついて見せた。 そして待っているチンピラに先に帰っているように言って追い払うと、「あっ……」 彼女の手を引いて、ミドリガオカとは逆方向に連れて歩く。 「あ、あの、その……」 「いーからいーから。ウチの主戦力の一人がそんな調子じゃ今後に差し支えるからな」 他勢力へ侵略する突撃隊には長崎旗男、森田愛、甲子園熱子らが悪司自身や加賀元子の指揮で向かい、攻め寄せた敵を返り討つ迎撃隊には野比ひかり、木村弾白、野山めぐるらが岳画殺や大杉剛の指揮で立ち向かう現在の悪司組の陣営において、土岐遙は山沢麻美らと並び攻撃にも守備にも有用な貴重な駒であったのでその説明は間違っていない。 だが遙はこれを悪司の気遣いだと思ったようで、狼狽する。 「え、ええと、その、わ、私は……」 「おめーが頑張ってるのは知ってるから、そんな気張るなって。疲れるぞ」 「そんな私は……私はただ那古神様の理想、那古神様が目指したもの、教団のみんなが目指した未来を継ぎたいだけです。いえ継がなくちゃいけないんです!」 「おめー、臆病なんだか勇敢なんだかわからねえな」 「臆病者なんですよ」 冷やかす悪司の言葉に遙は苦笑いを浮かべる。 「でも、那古神様やみんなのことを想っている時は、その目標に向かっている時だけは頑張れるんです」 ずっと堪えていたのだろう。 握りつづけていた拳からは爪で傷つけたらしく血が流れていた。 「だからせめて私が……生き残った私が那古神様を……私が……継ぐんだからっ!」 「かー、わかったわかった」 「ごめ……さい…でも、わた、私……」 「そー、力むなって」 遙が泣き止むのを待ってから、悪司は再び歩き出す。 内心やっかいだなと思いつつも、口には出さなかった。 この自分に自信なしの遙をどうしたらいいか頭を巡らす。考えることは苦手だが、放っておくと今後にも差し支えるので仕方なかった。 「……」 「そんなおどおど歩かずもっと胸を張れって。護衛だろ?」 「そ、それは大丈夫です。私、反応は早いですから」 「そーいやそうだな」 自信無げに歩く答えにはなっていなかったが、悪司はさっきの遙の反応を思い出して納得してしまう。 「私は剣を奮うことぐらいしか取り柄がないですから……」 少し気分が紛れたのか、自嘲になりながらも遙の方から口を開いた。 「ですけど、そんな私だからこそ自分のできることを精一杯頑張りたいんです」 「おー立派立派」 パチパチパチと拍手をする。 「でも、そんなこたーねえぞ。おめーが無能なら、ウチの連中の殆どが立場ねーよ」 戦闘時の働きは勿論、平時でも他人の三倍は仕事量をこなしている遙に、呆れた顔で悪司は言う。 「そんなことは……」 「だったら一つ教えてやる。おめーは俺にとって非常に役立ってる。それで十分だろ」 「え……そ、そのっ、それは……」 「だから心配すんなって。誰もおめーの頑張りを疑うものはいねーし、俺が言わせねーよ」 「………」 「どうした? 俺の保証じゃ不安か?」 「い…いえっ、そ、そんなこと……」 「おめー、なんか拘りすぎて自分を追い詰め過ぎてねーか」 「私、弱い人間ですから」 そう言って遙は足を止める。 そしてやや遅れて立ち止まった悪司の服の裾を掴んだ。 「……今も、あなたに縋らずには立っていられませんから」 握り締める指先に力が籠もる。 震えているようだった。 「結局、自分じゃ何もできないんです。悪司さん達がやっていることを自分の中で折り合いをつけて、妥協して……」 「んー」 この調子だとまた繰り返されるのかと悪司はややうんざりした顔になる。 くどいのも苦手だった。 「今も慰めてもらっている優しい言葉に、縋っているんです」 ズルイですよねと結ぶ遙の頭をコツンとやや強めに拳を乗せる。 「あいたっ な、何するんですか!」 「辛気臭え話はもういーだろ?」 「え? あ、あ、す、すみま……あいたっ!」 気がついてまた謝ろうとする遙の頭を再び小突く。 「今度のはちょっとそのかなり痛かっ……あ、ああぅ……」 ぐわしぐわしと遙の頭を掴むようにして掌で包みこむ。 「お説教の時間はこれくらいにして」 「あ、はい。では見回りを……あれ?」 そこで漸く、自分たちが二人で歩いていることに気づいて動揺する。 「ここ、どこですか?」 「おいおい」 慌てて周囲を見回す遙。 悪司の方も特に行き先を決めて歩いていたわけじゃないので、はっきりとどことはわからなかったが別に遙とは違って困っていない。 「ええと、ここは……」 人気の無い路地に紛れ込んでいることがわかって、悪司に早く大通りに戻ろうと言いかけると、 「ほんじゃ、ま」 「きゃっ! な、何を?」 躰を引き寄せられる。 「俺なしではいられないんだろ。だったら……」 そう言って、服の隙間に手を差し込む。 「こ、こんなところで……や、止めてください!」 いきなり悪司に抱きしめられ、遙は身を捩って抵抗するが叶わず唇を奪われる。 「んっ! んぁっ…ぁっ!」 服の上から胸を揉まれ、もう片手で服の隙間から股間を擦られる。 「駄目っ だ、だだ……! あ、悪司さ……やぁっ! やめ……」 服の中に潜り込んだ手は既に秘裂を探り当て、なぞるように指を動かす。 「こ、こんなところ……やめっ やっ!」 「こんなところじゃなきゃいいのか」 「それは……そ、そそ……ああっ!」 「気にするな」 「気、気にしますっ!」 抗議するも、徐々に声が弱々しいものになっていく。 「立ってられなくなったら、そこの手をついとけ」 秘裂を悪司の指先でかき回されつつ、もう片手で乳房をこね回される遙は性感が次第に昂揚していき、我慢の限界へと近づきつつあった。 「んう……っ! ……んっ……」 弄られることで下肢を指で押さえつけられ、力が抜けそうになる下半身を自分では支えきれずに、言われた通り薄い木の板を並べただけの粗末な塀に両手をついて体重を支える。 「……ぁぅ……ぁ……ぅ……」 遙が身悶えするたびに、塀が軋む。 「あ、悪司さっ……」 悶える遙を余所に、悪司の舌が遙の首筋を這わせる。 「あっ……あぁ……駄目! 駄目です!」 「ここはそう言ってないみたいだけどな」 そう言って秘裂を弄り続けていた指を抜き、遙の目の前に突きつける。 「あ、ぅぅ……」 真っ赤になった顔を突き出された指先から背けるが、「ん!? んむっ……」 悪司は構わずにそのぐっしょりと濡れた指先で、遙の唇を塗りたくり、半開きになった口の中に突っ込む。 「ぅ……んぁっ、んんっ……」 「そうだ。いーぞ、いーぞ」 舌先に自分から押し付けることで遙に舐め取らせる。 「んっ、ふぁっ……はぁ……」 観念したように自ら舌を絡めて舐め取った遙の口から指を抜き、「さーてと」 そう言って、遙の着衣を脱がしにかかる。 「え、あ、や……」 別に脱がすこともなかったのだが、羞恥心の強い遙を更に追い込む為にとわざと手間をかけて服を剥いでいった。 「んぁぁ、や、ぁぁ……」 弱々しく抗議するも、聞こえないふりをして鼻歌交じりに脱がせ終わる。 遙の薄い胸とぷっくりとしたお腹が、人目の無い路地裏とはいえ野外で晒される。 「見事なまでに幼児体型だな」 「あ、ああぅぅぅぅ……」 簡潔な悪司の感想に、泣きそうな顔で抗議する遙。 「まー、幼児にゃこんなことはできねーけどな」 ジッパーを下ろすと、屹立した一物を出す。 「っ……」 そして遙の太腿に手を添え、肩に担ぎ上げる。 「あ、ああっ……」 それを見つめる遙の瞳は期待で潤んでいた。 翌朝起きだした悪司がふらふらと事務所に顔を出すと、遙が中腰でよろよろと歩いてやって来るのが目に入った。 「お、今日は随分早いな遙……て、どうした?」 「こ、腰が……」 「ん?」 「腰がその……痛くて……」 「だったら休んだらどうだ?」 「そ、そんな訳にはいかないじゃないです…あ、ああぅ……」 背中を曲げる角度に気を使いながら、こわごわと事務所の椅子に腰を下ろす遙。 「おいおい、本気で大変そうだな」 「だ、誰のせいだと……あ、ああぅ……」 「でも最後はアンタが脚絡ませて離さなかったんだし、自業自得だろ」 「で、でもあんな格好で……」 そう拗ねた目で悪司を見ながらも、遙は筆を取り先日彼女が処理をした事柄への報告書類の記入を始める。 「躰柔らかかったからなー」 「………っ」 筆が勢い余って、書類を飛び出して机の隅まで線を引いていた。 「や、止めて下さい!」 「はいはい。可愛いこって」 からからと笑いながら、両手をポケットに入れたまま事務所の奥に引っ込んでいく悪司の背中を遙は見つめていた。 『もうこの躰はあなたなしにはいられない……躰だけじゃない、心もあなたを求めている』 街が平穏になって、人々が安らげるようになる未来を築く。 悪司の元でそれを成し遂げようと自分に言い聞かせ、かつての悪司の言葉に縋りつくようにして遙はここにいる。 だが、彼女の不安は尽きない。 悪司が本当に街の復興と人々の平和を実現させてくれるのかという不安。 抗争を繰り広げ、敵を数多く作っては自分の支配地域を増やしていく姿は那古神様の願いとは一番かけ離れたものではないのかと思う。それでも今は悪司に頼るしかない。 そしてそれ以上の不安は、全ての争いが止んで無事に平和な世が来た時、自分はどうしたらいいのだろうという恐怖だった。 今までの自分だったら、那古神様の元に仕えていた頃の遙だったらこんなことに恐怖は覚えなかっただろう。 悪司の元には数多くの女がいる。 遙は自分がその中の一人に過ぎないと痛感している。 『どうしよう……』 どうしようもない。 自分は悪司の部下でしかない。 そして恐らくこんな気持ちを抱いているのは自分一人ではない。 悪司に抱かれた女達は殆ど一様に皆、同じ感情を悪司に抱いている。 遙も今の自分のように悪司を見つめる女を幾人も見てきた。 だから、どうしようもなかった。 「あ……ぅ……」 駄目にしてしまった書類が滲んでいた。 涙がポロポロと零れ落ちている。 「ぅ……」 手の中で書類を握り締める。 その甲に止まらない涙が零れる。 幸い、殆ど出払っていて近くに人は居ない。 「…ぅ……」 自分は汚いと遙は自責する。 理想の為に、那古神様の為にこの身を捨てると誓いながら、胸焦がれる情欲でその理想の実現が遠くなればいいとどこかで願っていることに気づいていた。 「ぅ……ぅ……」 「ん〜ぁ、遙じゃない」 「ひゃぅ!」 悪司の引っ込んだ奥の出入り口から、口元に手を当てて欠伸をしながら寧々が出てくる。誰も見ていないと思っていたからこその欠伸だったらしく、一瞬だけばつの悪い表情を見せるが、すぐに何事もなかったようにいつもの微笑を口元に浮かべる。どうであれ、動揺していた遙はそんな寧々の様子に感づくだけの余裕はなかった。 「今日は随分と早いわね」 日課の早朝訓練はと尋ねる寧々に、体調が優れなかったのでと曖昧に答える遙。 腰を痛めたことで朝のトレーニングができず、かといって躰は日常の生活リズム通りに目覚めてしまっていたので、他にすることもなく早めに事務所に来ていた遙だったが、奥から出てきた寧々はどうやら泊り込んだらしい。化粧に隠れた顔が若干疲れているように見えた。 「ね、寧々さんこそ……」 「ええ、少し込み入った話が長引いて、気がついたら夜が明けていたわ」 そうそう夜更かしはしたくないものよねと笑う寧々。 島本の部屋で二人が何を話し合い、何をしていたのかは遙の知るところではなく、それ以前に島本と寧々の関係にすら気づいていなかった。 「お茶でも貰えるかしら」 「あ、はい」 「ええと、ほうじ茶をお願い」 一方堂のがある筈だからと寧々の指示する通りに、お茶を淹れる遙。 「これ、悪司が好きなのよね」 「そうなんですか」 「ええ」 元々は殺ちゃんが見つけた銘柄らしいわよと言ってから、遙から手渡されたほうじ茶を一口啜る。 「ふぅ……それで遙」 「は、はい! あ、痛たたた……」 思わず背筋を伸ばし、直後に襲う痛みに崩折れる遙。 「まあ、座りなさいな」 「すみません……」 「それで、何か悩み事?」 「え……ええっ!?」 「別にいいのよ、言いたくなければ」 「ど、どうしてそんな……いえ、何で……」 わたわたと慌てる遙を可笑しそうに見る寧々。 まるで教師と生徒のような二人になっていた。 「あなた不器用だから、少し心配になってね」 「寧々さん……」 寧々がほら私たち元仲間だしねと付け加えると、遙は表情を曇らせる。 「悩みはやっぱりそこにあるみたいね」 「え……あ……」 咄嗟に顔を上げるが何も言えずにまた俯く。 寧々はこの責任感の塊みたいな遙を前にして、軽くため息をついた。 そしてその責任感が今の彼女の悩みの原因だともわかっていた。 寧々自身は由女が捕まり、那古教が解体された時点で全てを諦めていた。 元々この世の不条理と理不尽を味わい、欲少なく諦め早いことでつかの間の自分を保持し続けて生きてきた寧々にとって、遙の由女の意思を継ぎ悪司の組織の元で理想を実現するという考え方は、自分を誤魔化し現状から目を背けているだけでしかないと思う。それでもそうでもしないと遙は生きていけないとも理解していた。 そして寧々にとってそんな遙は嫌いじゃなかった。 那古教で聖女に任命した頃はただその忠誠心と責任感、そして能力だけを買っていただけだったが、今の寧々はその純粋でしか生きられない遙に憐憫だけじゃないものを覚えている。 寧々はそう思う自分がらしくないと思う。 けれども、今は思い出すことも少なくなってきた陽子や由女の事を、遙を見るたびに思い出す。彼女達も寧々よりも遙に近い存在だった。 「結局、彼女達に憧れていたのかもしれないわね」 無いものねだりというわけでもないのだろうが、そんな気持ちが口に出ていた。 「え?」 「あら、ごめんなさい、話の腰を折っちゃって」 「い、いえ……」 何か遙が話しかけていたのだが、寧々は全く聞いていなかった。 まだ時間は早く、事務所に現れる者もいなかった。 今頃、奥では悪司達が朝食を採っている頃だろう。 組織がこれだけの規模になりながらも、悪司達はこの元青年奉仕団の粗末な建物を本拠とし暮らしていた。悪司にとって生まれ育った元わかめ組の事務所の建物が健在であるのにも関わらずだ。そのお陰で、増えていった組員は窮屈な思いをしているのだが、今のところ移転の予定はないらしいと寧々は島本より聞いている。 「遙」 「で……は、はい!」 話の途中だったが、寧々は構わず呼びかけた。遙の方も話しながらもその話が実のないものだったことを証明するようにすぐに返事をする。 「そろそろ時間もないことだし」 「あ、はい。それじゃあ」 寧々の言い方で話を終わらせると思ったらしい遙を無視して、 「あなたの悩みのことだけど――」 棚上げになっていた話を切り出す。 「え、あ……」 「こう気楽に言うのも悪いけど、あなたの言う由女の目指した皆が安らげる世界というのには、あなた自身も含まれていると思うわよ」 「え……」 「いなくなった人間を引き合いに出すのも卑怯だけど……由女も、あなたを含めて幸せになってもらいたいって思ってたんじゃないかしら」 「……」 寧々の知る由女は、自分の目の前のことで精一杯だった。 自分の目の前で苦しむ人がいれば助けてあげたいと必死になった。 だから大層な理念や理想があったわけではない。大義を掲げたのは寧々自身の策であって由女自身の元からの願いじゃない。元々寧々と陽子が観世那古真燈教なる代物を作り上げたのも、由女の異常な能力を隠す目的が大きくあった。そして陽子と寧々自身の欲と打算も多分に含まれていて、表向き唱える人々の救済に関しては二の次三の次であった。そのことは無論、一般信者だった遙は知る由もないし、由女もあまり気づいていなかった。 「で、でも私は……」 「意思を継ぐということは、あなた自身もそれによって平和と幸せを享受するぐらいの気概も必要じゃないかしら」 下手な詭弁だと寧々は思いながらも、遙にはこの程度の話が良いと思っていた。 難しいことよりも、明確な道筋を与えた方が良い。 意思を継ぐという言葉に縋って今を生きる彼女にとって、その道を続けることを肯定させた上で、抱えている問題をも正しいのだと言い含める。 今の遙に欲しいのは真理ではなく、単純な正邪だと思っていた。 遙は自分の正しいと思えることには迷いなく進める。 寧々にとって以前は微笑ましい反面、お目出度い部分でもあったその遙の性格は今の彼女には、いじましく写っていた。 唯一こんな自分が大事に想っていた陽子や由女に対して護りきれず、向けきれなかった分の慈しみを、残った遙に向けてようとしている自分を自覚しながらも、寧々はその代償行為を止める気にはなれなかった。由女に対した愛でも、陽子に対した友情でもなく、ただ自分の中に残る翳りを晴らす為だけの行為だと自嘲しながら、純情な遙を前にその反応を楽しむように悪戯っぽく囁く。 「それに悪司には多少、強引なぐらいでないと目に留まらないわよ」 「え? え? ええっ――!?」 「どうしました、土岐さん」 「あ、いえ!? その……あ、おはようございます!」 「え? あ、はい……おはようございます」 ちらほらと事務所にやってきていた智子らが、叫び声を聞いて近寄ってくる。 寧々は自分に目を合わせた智子に軽く会釈を返しながら、他の組員達にぺこぺこと丁寧に挨拶をして周る遙を慈愛の眼差しで見つめる。 また暫くしたら落ち込むだろうから、その時にはもう少し突っ込んで構ってあげよう、そんな優しい気持ちになりながら寧々はさっきとはまた違った遙の慌てぶりを思い出しつつ腰を上げた。彼女が手にしているお茶の飲み残しはとっくに冷え切っていてもう口をつける気にはならなかった。 「あの、寧々さ――あ、あ、悪司さん!」 「うぃー、食った食った――って、何だよ、大声出して」 茶碗を持ったまま奥に戻ろうとした寧々の方を遙が向いた時、逆に出てきた悪司の姿を見て驚く。 「あ、いえ、その……」 「ふふ、ごきげんよう」 「おう。月瀬もいたのか。どうだ? 島本とは?」 「ぼちぼち、というところかしら」 「ほう」 「あ、悪司さん! 見回りですか!」 「……あ、ああ」 「だったら私も……」 「いや、腰痛いんだろ? 休んでろって」 「で、ですけど!」 向かってくる遙とそれにやや引く悪司を見ながら、 「ふふふ……」 寧々はわざと意味ありげに笑って、その場を後にした。 「お、おい月瀬……」 「あ、あのそれでしたら私も……」 「智子?」 「3Pにゃりか? だったら未来ちゃんも混ぜて欲しいにゃり」 「違う!」 「わ、私はそれでも……」 「あの、ですから私は警護を……」 「あー、もう、何なんだ一体!」 悪司の声が狭い事務所に響き渡るなか、遙はふと周囲を見回した。 ムキになってはり合おうとする智子。 能天気そうな顔で混ざろうとする未来。 少し離れた場所で自業自得ですよと言わんばかりの苦笑を向ける曜子。 入り口付近で場の空気に引いて入れないでいる大谷。 冷ややかに見つめる殺と楽しげに見守る夕子。 腕組みをして目を閉じている大杉。 ここの空気を好む自分がいる、そう遙は想う。 楽観的かも知れないが、こんな空気を持つ人達こそがきっと人々を安らげる道を示してくれるのではないかと期待してしまう。例えそれぞれに裏の顔があっても、今のこの空気は作り物じゃないと確信できるから。 その手伝いをこの自分ができるなら、少しでも役立てるならば……そう遙は誓い直す。 そしてこの空気の中心にいるのは――― 「行きましょう。悪司さん!」 「お、おいっ!? なんだ急に強引な……」 悪司の腕を取って、遙は新たな一歩を踏み出していた。 |
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