楽しいお茶会『罪と罰』


2001/10/28

 椅子に縛られている。それが今の俺を表す状態だ。身動き一つ……というほど拘束されているわけではなく、椅子の脚と俺の右足首が糸で固定されている程度だ。しかしその糸ははち切れんばかりに漲溢した赤い色をしていた。
「さて兄さん、始めましょうか」
 眼鏡フレームの外側に見える世界は檻髪で覆われている。それは俺にしか見えない脅威だ。これを張り巡らせている張本人、俺の眼前に座している妹自身にも視覚化できない。
「おい秋葉、途中退室しても良いんじゃなかったのか?」
「ええ、その通りですが、何か?」
 嘘つき。これがオマエの本心だっつーの。自分でも解って無い分始末が悪いぞ。
「まぁいい。覚悟は出来ているぜ」
「殊勝なことですね。ではまず……」
「はいは〜い。わたし、わたし! わたしにやらせてよ妹〜!」
 俺の左に座っているヤツが一番はじめにブンブンと手を挙げ振る。何がそんなに楽しいのか……いや、こいつは何でも楽しいんだったな。とにかく来るなら来い。相手にとって不足はないぜ!
「だからっ、あなたに妹と言われる筋合いは……コホン」
 何度やってもお約束なやつ。最後まで言わなかったのは少しは成長したためか、それとも別の楽しみを優先したためか。
「ではアルクェイドさん、どうぞ」
「ふふふぅ〜。覚悟はいい志貴?」
 あの時と……衝動でこいつを分割した次の日、路上で再開した時と同じ目をしている。自分に噛みついてきたネズミを捕まえ、どうしてやろうかとほくそ笑んでいる猫の目だ。
 白色をした無邪気の塊は、すぅ、と軽く息を吸い込み勢いよく指を突きつけてきた。
「いつになったらわたしを殺した責任取ってくれるのよ!」
「……」
「……」
「……ケッ」
 吐き捨てるように言ってやった。
「ああ〜! あんなことしたのに全然反省してない〜っ!」
「馬ー鹿。いつまでも殺されたこと根に持ってんじゃねーよ」
「むうっ、志貴ったら良心の呵責が軽すぎるんじゃないの!?」
 そういつまでも拘ってられるかっての。第一、ああいうのは取り戻せないから苛まれるんだよ。ピンピンして憎まれ口叩く被害者になんて同情が続かないに決まってるだろうが。
「この前はあれだけ自己嫌悪したのに、なんてやつなの!」
「当たり前だ。二度も同じ手が通用するか」
「部屋にゲ○も吐いたくせに!」
「うっ」
 しまった。まだそれがあったか。僅かに歪む俺の顔を見て取り、アルクのやつはニヤリと笑う。
「もうあの時は大変だったんだから。自分の体を再生するのだけで大変なのに、○ロを撒き散らしたままトンズラしちゃうんだもん。アレを避けながら復元するのにどれだけ力を使ったことか。解ってんの志貴〜!」
「ううっ」
 俺は少したじろいでしまった。それを脈有りと判断したのかアルクはこちらから視線を外し、主催者の方に目を向けて言う。
「妹はどう思う?」
「その嘔吐物は片付けはどなたがされたのですか?」
「もちろんわたしよ。犯人は逃げちゃったし」
「最低ですね、兄さん」
 うううっ〜! 畜生、人の繊細な心を切り刻みやがって。だがやらせはせん。やらせはせんぞぉ〜!
「そ、それがどうしたぁっ!」
「ああっ開き直った。志貴がその気なら次はね〜……」
「次はわたしです」
 むんずと襟首を捕まれて白い吸血鬼は自分の椅子に引きずり戻される。代わりに黒い法衣が闇の多い部屋から浮かび上がった。
「ちょっとデカ尻〜! わたしはまだ終わってないわよ」
 ズドドドド
「わたしは一人一回の原則に従おうとしたまでですが、それ以上軽い口が妙なことを口走るのであれば実力行使もやむを得ません」
「投げてから言うな〜!」
 さすがのアルクも至近距離からの黒鍵投擲は躱すのが精一杯だったようだ。服が椅子に縫いつけられ動けなくなっている。
「さて、わたしでよろしいですよね秋葉さん」
「どうぞご自由に」
 睨み付けるようでちょっと投げやり。まだ秋葉とこの人との溝は埋まっていないようだ。薄い笑みを貼り付けて相変わらず心根の読めない彼女に、俺は一応期待を含めて尋ねてみる。
「シエル先輩もやっぱり……」
「ええ。手加減しません」
 にっこりと、死の尼僧は俺の一縷の望みを引き裂いて処刑開始を宣言する。だが俺は日々鬼妹との神経をすり減らす鬩ぎ合いに耐え、今も過去のしがらみから立ち直った男だ。先輩がどんな攻撃をしてこようが……
「わたし、初めてだったのになんてコトをしてくれたんですか!?」
「うわぁ〜!」
 平気じゃねぇ〜! コトって本来じゃないアソコをナニしたソレですかぁ〜!?
「まさかあんな変態行為の非道いコトをされるとは思ってもみませんでしたよ。あの後、実に切ない思いをしました」
 尻に手をやり、しなっ、と身をよじって俯いてみたりしている。
「ああっ、もうわたしには神様の姿が見えません!」
「ケダモノ〜! 変た〜い!」
「兄さん……信じたかったのに……」
 反論できねぇ〜。アルクのは常識が否定されたが、今度のは人格が否定されかねない。

 それはそよ風が頬に心地よい秋の夕暮れ。豆腐屋のラッパとカラスの鳴き声がよく通る空の下、のり弁の袋を下げて俺は誰も待つ人のいない寂れたマンションの一室へと独りで帰っていく。黄昏に染まる公園には買い物帰りと思しき奥様方が数人雑談している。側を過ぎる時、近所つき合いや礼儀もあるからちょっと会釈をする。すると女性達はさっと臀部を手でガードし、そそくさと退散していく。残された俺にまとわるのは枯れ落ちた木の葉と長く伸びる影法師だけ……。

 ……脳裏に過ぎるそんな未来像に思わず目頭が緩……
「はっ!」
 顔を上げるとそこには勝利を確信した先輩の邪面があった。ダマサレルナ、オレ。考えろ。考えるんだ。
「ひらめいたっ!」
 きゅぴーん。ありがとうルチ将軍。
「それはインド料理メシアンでのことですね!」
「はぁ?」
 攻撃は最大の防御なり。予想外からの切り込みと思考を乱す刺激語で判断力が戻らない内に一気に殲滅するのが肝要だ。
「いやーすいませんでした先輩。メシアン初めてだったのに途中で逃げ出しちゃったりして」
「え? あの……」
「でも財布ごとお金を渡したんですから、それだけ食べてもまだ空腹で切ないなんて言われても困りますよ。あ、神様がなんとかって、もしかしてお金が足りなくて食い逃げでもしたんでしょ? もう先輩ったらしょうがないなぁ」
 そしてさりげなく加害・被害の立場入れ替え。うむ、完璧。七夜流殺人術の一つに弁術殺法があったなど、さすがの埋葬機関も知るまいて。俺も知らないけど。
「ち、違います! 第一、食い逃げなんて鯛焼きじゃあるまいし! わたしは、志貴くんが後ろの方をしたコトをですね……」
「先輩、カレーの話題をしている時にすごいコト言いますね」
「なっ!」
 それは究極の選択などで『カレー味のなにやら』と使われたりする。普通の人が冗談で言うのであれば許されるが、カレーの狂信者がすれば自己の否定と同一だ。神父が悪魔を語るのにも似ている。思った通り、先輩は自らの失言に混乱していた。
 勝機を逃すは愚あるのみ。
「裁判長、もう議論の余地はありませんので次の審議に進んでください」
「そうですね兄さん。では次に……」
「ちょ、ちょっと待ってください! わたしの発言はまだ……」
「一人一回って言ったのは貴方でしょ、シエル〜!」
 ふっ、司法官や陪審員との感情関係も計算に入れている俺ってかなりナイス。敗れた検察官が憎々しげにこちらを見ているので、Vサインして場を和ませてやろう。あ、にっこりと微笑み返してくれた。
「志貴くん、次の夜のパトロールもご一緒してくれませんか?」
「え? はあ、いいですけど」
「戦闘中にアクシデントは付き物ですよね。例えば同行者が巻き込まれるとか」
「何故だぁっ!」
 手加減しないって切り出したのは先輩の方じゃないですか〜っ! そんな眼だけぎろりって睨んだ莞爾をしないでくださいってば。マジに背後が燻るんですから〜。
「それに先輩、全然初めてじゃなかったでしょうに!」
「方便です」
 あっさりと。それに今のは詭弁と言います。やっぱこの人、人気投票で弓塚に後一歩で、ってのはあながち間違いではないと思う。親切心で汚点を忠告しても埋葬されるだけだから黙っているけど。

「さて、いよいよ私の番ですね」
 平静を繕ってはいるが声に歓喜の震えが混じっている。黒に染めているつもりの長髪が時折赤く発光していた。
「……楽しそうだな秋葉」
「ええ。率直な会話をしていると家族だなって感じますもの。特に兄さんが感極まって動揺する姿を見たりすると幸せな気になりますね」
 くくくっ、などと含み笑いまで洩らしていやがる。さあ狩りの始まりですよって感じだ。
「ふん、返り討ちにしてやる」
 有彦に押しつけられたベッドの下の秘蔵モノも処分済み、この前のテストも上々で、付け入られる隙は無いはずだ。俺は自信を持って攻撃者の目を睨み付けた。
 この態度に加虐心をそそられたのか、さらに嬉々として秋葉の手がゆらりと上がり指が鉤をつくる。
「では行きます。ふふ……『兄さんの保護者は私です』!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……で?」
 それが何か?
「“で?”って……兄さん、自分が情けなくなってこないのですか!?」
 勝ちを確信していた秋葉の顔が反転して驚きに変わる。そんなに意外だったのだろうか。
「そんなコト今更言われてもな」
「で、でも自分の妹が保護者なんですよ? 年長者としてこう、許せないモノがあるでしょう?」
「別に」
「に、兄さんは遠野家の者としてプライドは無いのですか!?」
 怒られてもなぁ。俺、七夜だし。そりゃあ秋葉の高すぎる面子からして『選挙戦の結果、圧倒的多数で瀬尾晶さんが会長に決まりました。遠野秋葉さんは書記です』とかなったらその場で浅上女学院を壊滅させかねないが。
「とにかく俺は別にいいもーん」
「信じられない……。やはり兄さんには一度遠野家の一人として再教育を施して差し上げねば……」
 そっちの方がコワイぞ、おい。思わず背筋に走ったじゃないか。第一、妹が保証人だからって別に不都合なんて……

 大学に進学し、遠野の家から離れてアパートを借りることになった。今日は大家に賃貸契約を結びに来たのだ。書いてきた契約書を渡すと、大家さんは一通り読んでちょっと眉を曇らせた。
「ええと保証人ですが……妹さん?」
「はい。そうですが」
「この方は未成年のようですが」
「でも遠野家の当主ですから」
「あなた、長男ですよね」
「ええ」
「……暫くお待ちください」
 奥に入って何やらゴソゴソしている。誰かと話す声がして、再び戻ってきた。
「申し訳有りません。この物件はもう埋まってしまいました」
「え? だってさっきまで……」
「すみませんねぇ。一足違いでして」
「そんな馬鹿な!」
「さあさあお帰りください。私もまだ仕事が残ってますので」


 ……うっ……なかなかにリアリスティックなヴィジョンが浮かんできてしまった。常識・人格に続いて社会的に廃棄されたような気分になってきた。鬱っぽい重圧が両肩から足裏へと均等に掛かる。
「兄さん、今ちょっと涙を……」
「泣いてない! 泣いてなんか無いぞ俺は!!」
 不随意に漏れそうになっていた雫をぐっと引っ込め、なんとか余裕の表情を見せつけた。秋葉はちっ、と舌を鳴らす。
「まぁいいでしょう。それでは次、翡翠」
 皆の視線が壁際の一点に集まる。俺の斜め後ろ、見えてはいるが最も目立たない位置に彼女は控えていた。
「え……あの……」
「この場にいるのですから貴方も参加しなさい」
「でもわたしは……」
 志貴さまの使用人でから、と言おうとして秋葉に止められる。
「では遠野家当主として命じます。この集会の趣旨に添った発言をなさい。それとも兄さんの使用人を解雇されてからの方がいい?」
 一瞬、助けを請う翡翠の視線がこちらを向く。だが結局彼女は雇い主の意志に従う他無いのである。仕方なく口を開き始めた。
「いーぞーメイド妹ー! 暴露、バクロー!」
「志貴くんのどんな痴態が語られるか楽しみです」
 あんたら後で思い知らす。
 小さく“ごめんなさい”と呟いた後、翡翠は目を伏せがちに話し出した。
「あの日、いつも通り志貴さまを起こしに伺いました。お目覚め前の志貴さまは彫像のように静かな寝息を立ててらっしゃるのですが……」
 翡翠の顔がゆっくり下を向いていく。比例して頬の赤みは増すばかりだ。
「その朝に限ってとても呼吸を乱しておられました。それでその……わたし、びっくりして側に寄り、声を掛けました……」
「そこで兄さんは突然貴方をベッドに引っ張り込んだのですね!」
「志貴淫欲〜! ヒトデナシー!」
「主人の立場を利用し、毒牙に掛けるとは見損ないました」
「やってねぇーっ!」
 そうだ。確かに寝覚めの悪い朝はあったが、人道に外れた行いは絶対していないと万物に誓えるぞ。翡翠も慌てて皆の誤解を訂正する。
「い、いえ、志貴さまはわたしには指一本触れていませんし、わたしも……その……」
 まだあの時の翡翠は男に対しての抵抗感が強かった。使用人の義務として果たすべきはしていたが、自発的に俺に近付くことすら無かったはずだ。
「それでどんどん息は乱れていきました。途中で自ら掛け布団を剥がされ、ベッドの上で何度も寝返りをうって……でも突然、何かを呟くと急に呼吸は治まり、またいつもの静かな寝顔に戻られました」
「……それで?」
「え……あの……それだけ……です」
 ただの発作じゃないか。有間の家でもたまにあったことだ。それに秋葉にだって頻繁に起こっていたことなんだから、彼女にとって特別驚くコトじゃない。
 それなのに何故か翡翠はさらに赤面し、ついには前に向けていられなくなって俯いてしまう。
 秋葉も、それがどうかしたの? と言いたげな表情できょとんとしている。
「翡翠、それで終わりでいいの?」
「は、はい秋葉さま」
「まぁ女性に乱れた寝顔を見られたってことは痴態と言えば痴態だけど……」
 期待外れに消沈し溜息をついている。俺としても安堵のそれが出ていた。翡翠が終わってこれでほとんどクリア完了だ。残るは一人。

「では秋葉さま、わたしも参加させて貰っていいですか?」
「ええ、もう貴方に期待するしかないし」
 出た。前回の勝利者、今回最大の要注意人物だ。俺の体も本能的に緊張を漲らせる。いやこれは前回に刻み込まれた恐怖心のフラッシュバックか。気付かないうちに膝がガクガクと震えている。もしかしてPTSD?
「行けーメイド姉ー!」
「モルモットに“ちゅ〜”って鳴かせてあげてくださいね」
 皆のエールを浴びて、期待を一身に背負った琥珀さんがやおら進み出た。甦れ、アイアンシェフ!って感じに。崩れないニコニコ顔の裏に策謀の粋が渦巻いているのだろう。
「こ、こ、こ、今回は負けませんよ。こ、琥珀さん」
「あらあら、そんな緊張しないでください。気を抜いていた方が楽に終われますよ」
 サキュバスの無邪気さとはこういうのかもしれない。全く警戒させない雰囲気で絞首台を登らせる。そんな語り口調だ。
「では、翡翠ちゃんの続きから始めますね」
「ね、姉さん……それは……」
「いいじゃない。貴方もまだ聞きたいことが残っているんでしょう?」
 止めようとした翡翠を琥珀さんは言葉で制した。まだ聞きたいコト? 翡翠の話はあれで全部じゃなかったのか。
「あの後、翡翠ちゃんは慌ててわたしの所に来たんです。丁度秋葉さまの朝食の後片付けが終わったところでしたから、わたしはそのまま真っ直ぐ志貴さんの部屋に向かいました」
「ちょっと待ちなさい琥珀」
 そこで仕切役から中断が入った。わずかに怪訝そうにしている。
「兄さんの体調が悪かったなんて私に報告が無かったわよ」
「ええ。出来ませんでしたから」
「は?」
 俺も秋葉と同時に声を発していた。“しなかった”なら解るが、“出来なかった”ってのはどういうことだろう。それに俺は朝、琥珀さんに看病された覚えは無いんだけど。
「もうあの時の翡翠ちゃんの顔ったら、すごかったんですよ。赤くなったり青くなったりして、どうして紫にならないのかなーって思わず突っ込みたくなったくらいです」
「−−っ!」
 また翡翠は顔を伏せた。もう全然解らない。
「わたしが部屋に入った時にはまだ志貴さんは寝てらっしゃいました。なるべくそおっと作業をしたので気付かなかったのでしょう」
 そこで琥珀さんは両手の指を組み合わせ、頬に寄せて明るく言った。

「パンツ代えておきましたからね志貴さん」

 言葉が浮いた。ふわりと、微風に煽られる羽毛のように。

「……」
「……」
「……」
「……あはっ」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜っ!!!!!!!」
 俺は椅子から落ちて床を、
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
転がった。
さらに転がった。
 流れゆく風景には、顔を両手で隠し背を向ける翡翠、意味が分からないようできょとんとしている秋葉、今にも吹き出しかねないでいるアルクェイド、なんだか瞳をキラキラ輝かせているシエル先輩が、順に、何度も映し出される。
「あははは〜っ! 志貴、青〜い!!」
若さ故の過ちですね〜」
「え? え? 兄さん、おねしょ?」
「いえ〜、志貴さんはちょっと大人だからなったんですよ」
 もうそれはプスプスとかじゃない。ズブリズブリと無数の杭が鋼鉄で守られていたはずの羞恥心に捻り込まれてくる。ここが高層ビルの最上階だったりしたら、そのまま窓を破って自決しかねないほど逼迫した心情だ。
 眼球の奥底から何かがあふれ出してくる。だが、まだだ! まだ俺は戦える。そのためここまで来たんじゃないか。邪悪なものと戦える最後の武器は命だって心に刻んだじゃないか!
「あれ? 志貴さん、まだやる気ですね〜」
 回転を止めて血の滲むほど拳を握りしめた俺を見て、琥珀さんはおもむろに翡翠の肩に手を掛けた。そして力ずくでこちらに振り向かせると、自らの妹の耳元で囁く。
「ほら翡翠ちゃん、前から疑問に思ってたって言ってたじゃない」
「でも姉さん……」
「いいからいいから」
 姉から言い訊かされて、というか強要されて翡翠がぼそりと言葉を出す。
「志貴さま……あの時呟いたレン』ってどなたですか?」
「……」
「……」
「……」
 終わる世界。ガラガラと、景色を構成するパーツが割れたガラスのように崩れていく。それはきっと自分自身の心の表象。十数年間築き上げてきた黄金の城が無数の屑となって足元に散らばる。
「志貴、ロリ? ケモノ道?」
DSN−IV 302.2 Pedophilia
 A.少なくとも6ヶ月間にわたり、思春期前の一人または複数の小児(通常13歳またはそれ以下)との性行為に関する、強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。
 B.その空想、性的衝動または行動が臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
 C.患者は少なくとも16歳で、基準Aにあげた子どもより少なくとも5歳は年長である。

 おめでとう志貴くん、見事です
お父さまの悪いところが兄さんにまで……」
「わたし、それでも志貴さまには生きていてほしいです」
 押し寄せてくる何か。すんでの事に留めていた堤防へ一気に雪崩れ込んでくる。ピシリと入っていた亀裂にカタストロフ的に強烈な一撃が加わった。後は全ての、肉体も精神も含めた抵抗は虚しく……。
「あはっ、出しちゃえ」
「う、うわーーーん! うわーーーん! うわぁぁぁーーーーん!!」
 背後で妹がせせら笑いながら「お待ちなさい!」と言ったような気がする。今にも覆いつくさんとする圧倒的な量の紅い捕縛糸をコンマ一秒以内で全て裁ち切り、真祖の姫と埋葬機関の弓を凌駕するスピードで廊下へと身を躍らせた。今のテンションなら喩え炎天下の砂漠であっても紅赤朱の秋葉に完勝できるなと心の隅で思った。
 だが俺の自我・イド・超自我のすべてはそんな思考をかき消し、この場から逃げ出すコトと止めどなく流れ出す熱い何かが顔中を濡らすコトだけを許可していた。
「いやだぁぁぁぁー! もぉいやだぁぁぁぁぁぁーー!!」



「あーあ、また負けちゃった。今度こそ志貴の隣の部屋をゲット出来ると思ったのになー」
「貴方はまだ余裕があるからいいじゃないですか。わたしなんて埋葬機関からの仕送りが大幅に削減されて切迫してるんですよ? ナルバレック イツカハコロシマス」
「で、前回と同じく琥珀が勝ったのだけど、今度は何がほしいの?」
「いいえ、今回決定的なトドメを刺したのは翡翠ちゃんですから、この子にあげてください」
「そんな……姉さん、わたしは……」
「じゃあ兄さんが今回も懇願していた小遣い分を、お給金に上乗せすることでいい?」
「え……あの……はい。ありがとうございます」
「ねーねー妹、次はいつ?」
「そうですわね。時南医院の朱鷺恵さんに都合が付いたら、にしましょう。兄さんの中学時代の楽しいお話が聞けそうですから」


終わり


あとがき

 こんにちは。
 月姫SS最初の作品となったこれはかなり安産でした。通常私はテーマ→ラスト→最初→中盤の順に考えていくのですが、この作品は全部いっぺんにポンと浮かびました。
 SSはときメモ出身なこともあり主人公の影が薄いことが多いです。というか出番無くても良い展開ばかり考えつきます。主人公がかっこよく活躍する話が好きな人は申し訳ございません。


 いつになく反抗的な志貴がとても良く、この手の「ヒロインキャラに虐められる主人公」の立場からの反撃はとても読んでいて痛快でした。
 そのくせ想像シーンなどからの思考は実にリアルで、彼の境遇をはっきりと自覚している様が涙を誘います。
 そんな志貴の思考の上げ下げが一人称によって確りとこちら読み手にも感じさせてもらえるので、本当に読んでいて楽しいです。
 最初やさぐれている志貴がとうとうというか、精一杯無駄な抵抗の果てにやっぱりというか琥珀さんの無情な一撃で木っ端微塵になっていくのが実に可笑しかったです。やっぱり彼女は月姫における最終兵器ですね。強すぎです(爆)。
 ギャグSSで、しかもキャラを幾分壊してあるのに、秋葉の時の「……で?」など妙に本来の志貴らしい表情が思い浮かんだりと実に雰囲気でていました(爆)。
 全体的には最初に事態を詳しく説明しないのが良い効果でした。人目を忍んでバイトでもした方がよっぽど救われます。精神衛生上(笑)。
 初心者A様、本当にありがとうございました。




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