にわか雨


2000/07/15


 さらさらと、鈴生りに連なる洗濯物が、風でこすれる音を聞いた。
 心地良い……。
 微睡みが、深い眠りへと滑らかに落ちてゆくのを感じた。

 安息の空気を引き裂く、けたたましい電子音。
 電話の音。
 重くなった頭をテーブルから引き起こす。僅かに頭痛を感じた。
 枕代わりに組み合わせていた腕が痺れ始めている。しかし、重さの主原因が取り除かれ、
血が巡り感覚が回復していく。同時に、熱を取り戻していった。
 覚めきらない頭を降ると、のそのそと椅子から立ち上がり電子音の発信元へと歩を進めた。

 まだ玄関に電話を置いてるのって、うちぐらいじゃないの?
 別に余所宛てにかかってきた電話を、家に上げずに取らせてあげるって訳でもないのに。
 って、いつの時代の話だか。
 今度電話の置き場所、変えてみようかしら。
 でも、そうしたらモジュラーの位置も変えなくちゃいけないし、NTTの人を呼んだらお
金もかかるしだったら電話の位置だけ変えてながーい電話線を引くってのもいいけどあれど
こで売ってていくらぐらいかかるのかしらそれに長いって言っても何mぐらいあるのかなぁ
……なんてことを薄ぼんやりと考えていると、玄関に着いたので、受話器を取った。

「ふぁい、もしもし? 藤田ですけど」
「あ、藤田さんですか? 帰ってらしたんですね。私です。神ぎ――」
「ひかりちゃん? 久しぶりー。元気してた? ねえ、お茶飲みに来ない? とっておきの
ガトー――」
「いえ! あの、それどころじゃなくて、藤田さん、今日洗濯物、干されてますか?」
「うん、浩之のたまってたし。今日は快晴で絶好の洗濯日和だもんねー」
「それが、その、今はそうじゃなくて……」

 ?
 何が言いたいんだろ?
 玄関ドアに目を向ける。横に施された飾りガラスを注視した。
 ……なんか、外、異様に暗いんですけど……。
 ドアを少し開ける。
 ノブを引くのと同時に、むっとした空気が家の中に流れ込む。サラサラと、どこか聞き慣
れた擦れるような音。上を向くと……

 カッ

 と厚くたれ込めた雲をバックに、閃光が瞬く。途端にサラサラとした音は、ボタボタへと
変わっていく。
 目が覚めた、と言うより、血の気が引いた。

「その、降り始めたので取り込んだ方がいいかと」
「あ、ありがと、ひかりちゃんっ。今度お礼するからっ」

 がちゃんっと音を立てるほど乱暴に電話を切ると、庭へと駆け込んだ。

 ちょっと!
 なんなのよいったいいったいなんなのよ!
 にわか雨なんて聞いてないわよ!
 詐欺よ詐欺!
 家裁に提訴して、損害賠償請求するわよ!
 なんだったら刑事事件に発展してってもいいのよ!
 アレ? だったら地裁だったっけ?
 そ、そんなことどうでもいいわ。
 今日はことさら、量が多かったのに〜。

 半ば引きちぎるように洗濯物を取り込む。ハンガーや洗濯バサミなんていちいち外してら
れない。取り敢えず今は濡らさないことを優先しなければ。無事に家の中へ放り込まれる洗
濯物とは対照的に、体は雨でずぶ濡れになっていった。

「タオルと靴下と……これでラスト!」

 掻き込んだ最後の洗濯物と一緒に、体を部屋の中へ投げ出した。先に入れていた洗濯物の
山に濡れた体が突っ込まないよう外してダイブ。直後、再び閃光が辺りを包み、雨足がより
強くなって嵐を思わせた。

「ふぅ……助かったぁ」

 もうちょっとで今日一日の仕事が無駄になるとこだった。
 とりあえずずぶ濡れになった服を着替えようと立ち上がった。直後、その仕事の一番の大
物が忘れて去られていたことを思い出した。浩之が家を出るときに言った言葉を思い出す。

『悪いけど、俺の布団干しといてくれよ。いい天気だしさ』

「やっばーい!」

 半ばよろめきながら階段を駆け上がって浩之の部屋に入り、窓際に駆け寄る。あった。窓
の外、ちょうど真下に広げられ、屋根のひさしの下にかかっていたおかげか被害はまだひど
くはなかったが、そのまま放っておけば見るも無惨な濡れネズミならぬ濡れ布団となる運命
だ。取り込もうと窓を開け、屋根に足を乗せる。

「ひゃっ!」

 完全に体重を屋根側に移した瞬間、足下が滑った。慌てて窓の縁に手をかけて落下を直前
で防ぐ。こんな雨の日に屋根の上から地面へ真っ逆さまなんて、まるでコントのような不幸。
想像して背筋がぞっとしたけど、同時にどこかおかしい感じも受けた。慎重に立て直し、さ
らに慎重に足腰を踏ん張って布団を持ち上げる。重い。天日に干された布団はびっくりする
ほど軽いときがあるのに、この濡れ布団は憎らしいほど重くなっていた。

「よいしょっと」

 窓にめがけて布団を投げ込む。部屋の中も、窓の下がちょうどベッドだから、余計に動か
さずに後は広げて室内干しをするだけ。ま、乾くかどうかは保証できないけど。
 窓の縁に手と足をかけて、自分もまた部屋へと戻る。そのまま、ベッドの上にどうっとへ
たりこんだ。上と下でばたばたして、疲れがいっぺんにたまった気分だった。

「うぅ、気持ち悪ぅーい」

 ずぶ濡れになったブラウスを脱いで、床の上に投げ捨てた。布団がこれ以上濡れたら困る
けど、床だったら別にいいよね。そのまま、ろくに布団を広げないベッドの上に倒れ込む。

「ふぅ、づがれだー……」

 覚醒していた私の意識を、微睡の名残が足を引っ張った。本来暖かく乾いていたはずの布
団に雨水が染みこんだせいか、私の周りにむせるほどの蒸気が漂っていた。同時に立ちのぼ
る匂いに、突如、郷愁の念が押し寄せる。

「これ……浩之のにおい?」

 むせかえる男の匂いは、確かに誕生から今に至る成長をこの目で見守ってきた男のものだ
った。同時に、それはもう一人の男のものと共通していた。

「おとうさんのと、おんなじ……」

 甘い香りに身を委ねたまま、意識が遠のき、過去の自分へと旅立っていった。

・
・
・

 雨のグラウンド。赤と青のジャージ。表情は対を成す。
 歓喜に満ちあふれ、抱き合い飛び跳ねる赤。うなだれ、散りぢりになりグラウンドにへた
りこむ青。片側のゴールマウスに、ボールは雨に濡れて何事もなかったように佇んでいた。
 私もボールと同じ、雨に濡れ、サイドラインの側で立ち竦んでいた。
 延長終了のホイッスルが、いつまでもいつまでも耳にこびりついて離れなかった。
 悪夢だったら覚めて欲しいのに、目の前の光景は現実としてそびえ立ち揺るぎなかった。
 うなじを伝って、背中へと流れる雨粒が冷たかった。
 青のジャージが一人、立ち上がって私に近づく。
 足取りは力無く、フラフラと、今にも崩れ落ちそうだった。
 でもその顔は笑っていた。

 ははは。負けっちまったよ。ざまあねえな。
 これがオレたちの実力だったって訳だ……。

 薄く開いて、震える唇から漏れ出たアイツの軽口。
 私の中に、熱い芯が貫いた。あんたは唇だけ震わせてるけど、私は全身が震えてるのよ。

 バカ!
 なによそれ。他に言うことないの?
 ねえ、悔しくないの? 哀しくないの? 腹立たないの?
 これが最後のチャンスだったのに、あと一つで全国に行けたのに。
 何とも思わないわけ?

 固く握りしめる拳が熱かった。雨によって体温と感情の温度差が開き、怒りを大きく振り
かざした。私の本当の気持ちを置き去りにして。

 あんたなんか最低よ。
 元々、サッカーなんてやる資格なかったのよ。
 最初っから、ピッチになんか立たなかったらよかったのよ!

 辛辣な叫びは、雨音にかすれていつもの勢いがなかった。今までで、一番大きな声をだし
たのに。

 はは……そう言うなよなぁ。
 こんなときはさぁ――

 アイツの体がゆらりと揺れ、私の方へともたれかかった。受け止めて、初めて喉の奥で嗚
咽を堪えてることが判った。

 選手を慰めるのが、マネージャーの役目だろ……?

 肩に掛かる雫の束が、僅かに熱を帯びていた。意地を張った笑い顔と雨で、止めどなく溢
れるはずの本当の感情を抑えていた。
 受け止めた胸の感触が、自分が女であるという強い自覚を促した。

 バカッ。なに言ってんのよ。本当にバカ……。

 同じフレーズを壊れたレコードのように何度も繰り返しながら、アイツの脇から腕を通し
て背中を何回も叩いた。私もまた、自棄を装った怒りと雨で、止めどもなく溢れる本当の感
情を隠していた。
 ねえ、気づいてた? あなたの肩を流れる僅かな雫が、とても熱かったこと。
 陶酔に溺れそうなほどの、雨によって立ち上る甘い香りに包まれながら私は知った。
 ただの幼なじみだったアイツが、自分の中で確固たる男へと脱皮したことを。

・
・
・

「おい」
「……んん?」
「そこで何をしてる?」
「……思い出してたの」
「なにを」
「……ずぅっと昔のこと……」
「ほぉ……」
「………」
「じゃあ一つ訊くが」
「……どーぞぉ」
「今を生きるオレは、この状況をどう説明すればいい?」
「……誰にぃ?」
「あかりに」

 はい、目が覚めました。
 そりゃあもお、頭から氷水かけられたぐらいにはっきりと。
 突っ伏していたベッドからバッ! と顔を上げる。バッ! と。
 視界には、あきれた表情で苦笑し見下ろす浩之と、オロオロしながら、なぜか申し訳なさ
そうな表情で、浩之の右後方でもじもじしているあかりちゃんがいた。
 来てたのね。一緒に。日も高いうちから連れ込みだなんて、さすが我が息子!
 なんて言えるわけがない、今の状況。

「あ……あはは……お、お帰りぃ〜」
「ただいま」
「お、お邪魔してます……」

 3人の乾いた言葉がふわふわと漂った後、風に流される。せっかく取り込んだ布団は、私
が寝ていた形をくりぬいてずぶ濡れになってしまっていた。
 そう、窓、開けっ放し。
 もちろん、私の体もずぶ濡れ。なんとなく、気まずい空気が漂った。

「そ、その、大変だったのよー、いきなり雨降ってきたから、取り込むのに、すっごく苦労
したんだから、落ちそうになるし、水吸って重いし、あんたも一度、取り込んでみる?」
「んな支離滅裂なこと慌てて言わなくてもいいから」

 言って浩之は、あたふたとする私に人差し指を向け、

「さっさとその格好、なんとかしてくれよ」

 と続けた。
 おそるおそる、視線を自分の胸元に向ける。そこには……。

「………」

 無言で側にあるブラウスを持ち上げ、浩之の部屋を出た。
 つまり、私は、浩之の部屋で、上半身を、シュミーズ、一枚きりのまま……。
 あああああ〜。
 挙げ句の果てにはあかりちゃんにまで見られちゃうし……。
 なんなのよいったいいったいなんなのよもぉ〜。
 雨のバカァ〜。

 濡れた体を拭いて着替えたあと、二人分のお茶を用意してトレイにのせ、階段を上がった。
 ココアの香りを僅かに立ち上らせるガトーショコラが、もう自分の口に運ばれないんだと
思うとやるせなかった。本当はひかりちゃんと一緒に食べようと思ってたのに。自業自得。
肩がうなだれたときにトレイが傾いて、ティーカップが少し暴れて慌てた。
 浩之の部屋のドアを開ける。
 二人は話を止めると私の方を見て、あかりちゃんは軽く会釈して、浩之は開口一番、

「かあさん、オレ今日床で寝るからな、こんなベッドで寝られるわけねえだろ」

 と、言い放った。
 トレイを二人の前に置くとあかりちゃんが、ありがとうございますおばさん、と言って微
笑んだ。私も笑顔で返した。

「来客用の布団、出しててくれよ、取りに行くから。まったく、息子に風引かせようとする
親なんざ……」
「そ、そこまで言わなくていいじゃない。ちょっとばっかし濡れただけなんだから」
「こ・れ・の・ど・こ・が・ちょ・っ・と・だっ」

 バンバンと浩之がベッドを叩くと、その度にぶちゅっぶちゅっと聴くに耐えない音を立て
た。完全に水が染みこんでる音だった。元通りにするには、専門の業者を呼ばなくてはいけ
ない。はふぅ、また出費が……。

「ちょっと浩之ちゃん。言い過ぎだよ。おばさんも浩之ちゃんのことを思って頑張って取り
込んでくれたんだから」

 あかりちゃんがすかさずフォローを入れてくれる。
 もう、これだからあかりちゃんは好き! 抱かれてもいいわ!

「いや、オレも取り込んでくれたことは認めている。問題なのは、なぜその後、窓を開けっ
放しにして、半裸同然でオレのベッドで寝ていたかってことだ」
「あ……」

 と、一息漏らすと、途端にあかりちゃんの頬に朱が差す。俯いてカップを手に取り、紅茶を飲んだ。
 ……いや。思い出さないで。そんなあかりちゃん、きらい。

「なあ、なんでだよ、奇行の理由、教えろよ」
「え……」

 まさか、あんたの男の匂いに絆されて、なんて言えない。

「な・ん・で・だ・よ」
「……布団、用意してくる」

 おい、ちょっと待てよ、話し終わってねえだろ、と浩之の声が聞こえたが、かまわず部屋
を後にした。階段を下りる途中で、あかりちゃんが浩之を宥めるように話すのが聞こえた。
二人は会話を再開した。
 ダイニングに戻り、いすに座ってテーブルに突っ伏す。なんか今日一日でとっても疲れた。
横に目をやると、取り込まれたままの洗濯物が畳まれないまま山となって待ちぼうけをくら
っていた。
 ごめんね。ばたばたしてたのにそのままで。もう少ししたら畳むから、今はちょっと落ち
着かせて。
 庭に視線を向けると、既に雨は上がっていた。空は、星の瞬きをよりはっきりとさせるた
めに紺を強めていった。
 全然日なんて高くないじゃない。なんだか間抜け……。
 ぐったりとして体に力が入らない。そういえばお昼ご飯食べてなかった。途端にガトーの
甘い香りを思い出して自己嫌悪になった。くー、とおなかが自己主張した。
 でも、じっとはしてられない。洗濯物畳んで、晩ご飯の用意もしなきゃいけないし、まだ
お風呂も沸かしてない、掃除機もかけなきゃ。浩之の布団も出さないといけない。本能的な
主婦の性(さが)にため息が出た。
 久しぶりの、本当に久しぶりだったはずの休日が、ちょっとしたボタンの掛け違いで、重
く私にのしかかった。さらさらとした、風の音が再び鼓膜を震わせた時、肩も震えた。

 だから、雨はきらい。
 増やされた仕事と、奪われた楽しみと。

 鋭利なまでに想起される、遠き日の記憶と。




 ども、ピナレロです。  本当は某企画用に考えていたSSだったんですけど久々野さんにサルベージをお願いしま した(笑)。久々野さん、ありがとうございました。  ちょっとずるいかなとも思うのですが……いかがなものでしょうか。  それでは、失礼します。


 可愛いです! 可愛いですよ、浩之母!! 名前は無いですが、浩之母!!
 私は浩之母はPC版のTHの葵シナリオでしかその存在を知らないのですが、雰囲気が出ていたように感じました。


 13531Hit記念でピナレロ様より拝領致しました。
 浩之の母親SSで、梅雨の変わり易い季節に相応しいSSです。
 ピナレロ様、本当にありがとうございました。


ピナレロ様への感想はこちらへ



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