幸せな猫たち
その日、駅前で、綾香を見た。 男と、一緒だった。 笑っていた。 楽しそうに。 『幸せな猫たち』 綾香の笑った顔を、見たことがない。 私がこんなことを言えば、人は皆、私を嘘つきと呼ぶかもしれない。 だが、本当のことだ。 私は、綾香の本当の笑顔がどういう物なのか、知らなかった。 その日、綾香を見るまでは。 綾香は、よく、微笑む。 そう、「微笑み」だ。 綾香がいつも見せていたのは。 初めて会ったときから、何か、しっくりとこない物を、感じていた。 道場に来た綾香は、誰に対しても、如才なく振る舞っていたが、私には、それがとても、鼻につく物に感じた。 そんな風に感じたのは、私だけだったのか。 それは、わからない。 確かめるつもりも、ない。 今では、それは、どうでもいいことだ。 そんな風だから、親しく話せるようになるまでは、時間がかかった。 そして、親しく話せるようになっても、綾香は笑わなかった。 綾香は、微笑むのだ。 機械仕掛けのように、微笑むための『型』に従い。 どこか、感情を露出させることを、無理やり止めているような、そんな微笑み。 どこかで、自分自身を頭の後ろ、高みから見ているような、そんな微笑み。 どこかしら、冷たい何かが、透けて見えているような、そんな微笑み。 泣いた顔も、笑った顔も、知らない。 微笑みだけを、知っていた。 綾香の家の事情は、かなり早くから聞いていた。 人によっては、それを理由に、親しくなろうとするものもいた。 それを理由に、親しくなろうとしないものもいた。 私はといえば、どちらでもなかった。 だから、長続きしたのかも、しているのかも、しれない。 ただ、こうして意識して考えていること自体が、どこかに影響を落としているのかもしれないが。 それは、どうにもならない。 どうにもできない。 ただ、道場で最後まで組手を付き合ったのは、私だけだ。 そしてそのことは、今でも、私の自信の一部になっている。 綾香は、強かった。 最後まで。 誰にも、借りを、作らなかった。 その綾香が、笑っていた。 片腕を、隣の男に絡ませて。 笑っていた。 無防備に。 そんな、無防備な綾香を、初めて見た。 相手の男のことは、よく、覚えていない。 注意して見ていたはずなのに、なぜか、全体のはっきりとした記憶がない。 綾香の視線の先にあった、優しげな目。 少し、くすぐったげに上がる眉。 どこか茫洋とした足の運び。 口元。 手。 だが、今、記憶の底に残っている全てを集めても、全体にはならない。 ただ一つ、わかっていた。 綾香を、無防備にさせる男だった。 そして、私はただ、二人が歩いていく姿を、目で追っていた。 綾香は、最後まで、私に気付かなかった。 二人の姿が見えなくなったとき、不意に、笑いたいような、泣きたいような、そんな気持ちになったのを、覚えている。 とにかく、どこかに座りたくなったのも、覚えている。 だが、その後、家まで帰った道筋が、なぜか思い出せない。 あれから二人がどこに行ったのかは、想像してみた。 馬鹿馬鹿しくなって、止めた。 きっと、楽しく過ごしたのだ。 仲の良い二匹の猫のように。 次に綾香と話す機会があった時のことを考えた。 少し、笑った。 その日は、なかなか、寝付けなかった。