その日は春なのに、まるで冬の寒さがぶり返したように凍てついた空気が満ちていた。
「ん…」
人の気配がした様な気がした。
目を開ける。でも、そこは暗闇があるだけで。
秋葉は時計を見た。いつもよりも一時間も早い。
鈍い思考でもう一度思考する。
そんなはずがないから。
目覚ましより早く起きるのはいつものことだが、いつも五分前ぐらいにしか目覚めない。
――寒いわね
顔に触れている空気が、昨日より冷えているのを知って、もう一度目を閉じる。
空気に乱れはない、先程の気配も気のせいだろう。
突然冷え込んだからだ、彼女はそのままもう一度眠りに落ちていった。
――え
同時刻、琥珀の部屋。
朝の食事の準備のために目を覚ました琥珀は、割烹着を手にしたまま振り返る。
「気のせい、ですよね」
呟いてみる。
いつもよりもより澄んだ空気が震えて、彼女の目の前で白い霞みになって散る。
温度が低いせいでぴりぴりとした感覚がするのだろうか。
肌に触れる空気の流れに彼女は僅かに顔をしかめる。
「さあさ、早く翡翠ちゃんも起こさないと」
何となく過ぎる嫌な予感に彼女は頭を振って、逆に明るく呟いて着替えを続けた。
同時刻翡翠の部屋。
彼女もいつもの時刻に、ベッドで半身を起こしたまま硬直していた。
いつもよりも寒い空気より、彼女は驚いた貌で身体を震わせている。
時計を確認するより早く、彼女は飛び出すように自分の着替えにとりついて着替えを始める。
かさかさという衣擦れの音だけが、部屋の中を満たしていく。
――志貴さま
慌てていてもいつものように間違いなくヘッドドレスまで身につける。
いつの間にか彼女の顔から表情が消えて、落ち着きを取り戻していたが、いつもより無遠慮に部屋を飛び出していく。
行き先は――
朝の空気がどれだけ冷たくても、差し込む日差しがどれだけ暖かろうとも、物が一つもない無機質な部屋の気配は変わらない。
志貴はそんな中で、白い貌をして死人のように横たわる。
翡翠が部屋の掃除をしていようとも、着替えの準備をしていようとも、それはいつもと同じ光景。
違うのはいつもよりいくばくか時間が早いと言うこと。
彼が起きてくる時間にはまだ早いが――翡翠はいつもの通りに着替えを準備して、そして動きを止めた。
もう用事はない。
確かにいつもより早い。
このまま待っているよりもやることがある。
でもそれが言い訳のような気がして動けずにいる。
その時。
ばたん、と勢いよく扉が開き、普段ならそんな素振りすら見せない秋葉が、相好を崩していた。
「兄さん!」
叫びながらベッドに駆け寄る秋葉。
ぱたぱたと近づいてくる足音と共に、琥珀が姿を現す。
「あら。…秋葉さま?」
秋葉はベッドの上の兄にしがみつくようにして、押し殺すことなく泣き声を上げる。
それでも志貴は目を覚まさない。
彼の顔に血の気が通わない。
「志貴……さま」
翡翠は主の名を呼んで、予感に戦慄して――
「そこで目が覚めました」
「翡翠ちゃん。正月早々縁起の悪い」
そこは遠野家一階にあるロビー。
おせちとお雑煮の朝食を終えた志貴達は、そこでテーブルを囲んでの初夢披露を行っていた。
「そもそも兄さんが悪いんです。もっと生き生きと眠ってください」
「秋葉、悪いがその注文をどう答えろと言うんだい」
今の翡翠の話は確かに彼も気持ちいいものではなかったが、文句を言われる筋合いではない。
「何を言うんですか。翡翠の夢は兄さんの寝顔に問題があるんでしょう」
ぎろり。
何故か彼女の目が鋭い。妙に痛い。
志貴は出来る限り素知らぬ振りで日本茶をすする。
「ああ、忘れてました。おいしい羊羹があるんですよ」
琥珀はぽんと掌を合わせて立ち上がると、さっさと台所へ向かう。
「うん、日本茶には羊羹がお茶請けにはいいよね」
「私は紅茶です、兄さん」
秋葉は淡々としかし抉るように突っ込む。
しばらくの沈黙。
何とはなしに緊張感の漂うロビーで、翡翠ひとり顔色を変えずに紅茶を一口。
「……あっはっは、秋葉、正月から妙に険しいぞ、顔が」
笑って誤魔化そうとしても、逆効果だった。
眉をぴくりと震わせて、静かに、且つ怒りを抑えてカップを卓に置く。
「それでは兄さん?あなたの初夢はどうでしたか?」
取りあえず、今の彼女に逆らってはいけない。
「ああ、うん、話すよ」
なだめる方法も思いつかず、取りあえず初夢の話を続ける事にした。
その時、彼は何かに追われていた。
真っ暗な、どこか。硬い足場を持つ場所を、彼はひた走る。
そしてごとんと言う音を立てて転がり、地面に投げ出された。
「くっ」
彼は受け身をとって、懐からナイフを取り出すと瞬時に立ち上がる。
そして、振り返ったところに立っていたのは。
「また凄い夢をみていたんですねー」
はい、と言いながら小さな皿に切り分けた羊羹を卓の上に置いていく。
小さな竹のフォークが添えられている。
「ありがとう。いや、初夢だってのに、なんだかとんでもない夢だよね」
「それで兄さん?立っていたのはだれだったんですか?」
ああ、と答えそうになって慌てて一口お茶を飲む。
――危ない危ない、まさか秋葉だって言うわけにはいかない
追いかけていたのは、いつぞや髪の毛を赤くしたあの秋葉だった。
よく考えると追いかけてくるはずはないし、追わなくても彼女の『目』は攻撃する事が出来る。
――多分ネロか何かと混じってるんだろうなぁ、この記憶
「兄さん?」
訝しげに首を傾げる秋葉に、慌てて笑いながら答える。
「いや、よく判らないけど見たことのない男だったと思う。正夢じゃなきゃいいよね」
「そうですね、ねえ志貴さん?夢合わせってご存じですか?」
言いながら、くるりと他の二人にも視線を向ける。
表情を変えず紅茶を飲む秋葉。これは間違いなく知らないんだろう。
聞き慣れない言葉に眉を顰めるのが翡翠。
「ううん、知らないな。初めて聞いたよ」
ではではーと言ってちらりと翡翠の方を見て、彼女はお茶を両手で持って、一口すする。
「そうですか。夢合わせって言うのは、夢見っていう夢を見た後で、その夢を解釈する方法なんですよ」
過去、夢というのは神のお告げだった時代があるという。
それが近代になるまでに、誰もが見る夢に変わり、やがて神聖化されなくなったのが現在らしい。
そして、古代日本では夢解きに合わせて現実が動いたというのだ。
「『宇治拾遺物語』や『大鏡』っていう古い書物は知ってますよね?これにも夢を解釈するお話があるんですよ」
両方とも夢解き損なって失敗する話だとか。
「ふぅん。ちゃんと解釈しないと痛い目に合うんだ」
「そーですよー。先刻の翡翠ちゃんの夢だって、『夢』そのままの形で受け取っちゃダメなんですよー」
何故か志貴には、にこにこと笑う琥珀の笑みが妙に邪悪に映る。
「そうなの?」
志貴は僅かに冷や汗を垂らしながら、ちらりと翡翠と秋葉に視線を向ける。
秋葉は相変わらず顔色一つ変えていないが、逆に威圧的な気がする。
翡翠はちらちら秋葉の様子をうかがっている。
「夢合わせって言うのは、良い方良い方に合わせていく物なんです。たとえばさっきの翡翠ちゃんの初夢を解釈してみましょうか?」
夢解きは決して占いとは違う。似て非なる物だ。
統計的な数字を当てにすることなく、意味を良い方へと解くことで現実に幸福を呼ぶ方法だ。
「最初に私達二人が出てくるのは、完全に第三者の視点ですから、これは登場人物との人間関係の現れでしょう。
秋葉さまが眠っていて、私が裸ですから、秋葉さまは『大切な人』、私は『親密な人』と解釈できます。
次に、自分が何かの予感で驚いて起きてるという『事件が起こる』現れであり、志貴さんの元に向かうのは『事件の原因』か『事件の中心』か。
うーん、最後に『大切な人が亡くなる夢』ですから、大きな転機の前触れと言うことです」
志貴はうん?と唸って首を捻る。
「つまり…僕が原因か、事件に巻き込まれて、それがきっかけで翡翠の身に何かが起きるんだね」
「ええ。たとえば志貴さんが翡翠ちゃんを孕ませちゃってそのまま結婚とか」
ぴしり
異様なまではっきりと、陶器のカップにひびが走る音が響いた。
いや、陶器ではここまで甲高く鳴かないだろう、これは磁器だ。
「あら、高いカップでしたのに」
声が裏返ってます、秋葉さん。
「待ってくださいよ、琥珀さん、それは譬えがあんまり露骨じゃないですか」
ちなみに翡翠は顔を真っ赤にして俯いている。
「兄さん?」
否定しない翡翠に、秋葉の冷たい声が志貴に浴びせられる。
志貴、だいぴんち。
「志貴さんの夢も解釈しましょうか」
琥珀の笑みは、段々悪魔のような笑みに思えてくる。
周囲の状況を殆ど楽しんでるのか無視しているのか、のんびりと続ける。
「追われてる夢というのは、現実でかなり切羽詰まった状況にあるってことです。
そして、取り出すナイフはそれを切り開く意志の現れです。
最後に出てきた男の人って言うのは、困難の原因だったりするんですよ」
――あってる、あってるよ琥珀さん!
今まさに切羽詰まって困難の原因は秋葉。
「だから、志貴さんはもう結婚する事を決心していて、最後に出てくる人って言うのは、きっと秋葉さまのことですねー」
あははーと笑いながら、彼女は右手の人差し指を立ててそんなことをのたまう。
「…………そうですか、兄さん」
まるで地獄の底から聞こえてくる怨嗟のような、秋葉の声。
ゆらーりと立ち上がる彼女の髪は、既にまるで生き物のようにうねり、風もないのにひとりでにはためく。
「まて、待て秋葉っ、翡翠も否定してくれ!琥珀さんっ!」
念のために、志貴の名誉のために否定しておこう。
彼はアルクェイド一筋だった。
――でも、だからといってそれで秋葉の心が静まるはずがないから、言えない。
下手すれば油どころか火薬を注ぐことになる。
「弁解は、あの世で聞きます。先に逝ってください兄さん」
ざあっと音を立てるように、彼女の髪の毛が一気に朱に。
目が赤い光を湛え、彼女の周囲に空気の揺らぎが現れる。
「頼むから話を聞いてくれっ、翡翠、頼むから否定してくれっ」
翡翠は真っ赤な顔で俯いたまま、もう既に自閉症モードに入ってしまっている。
外からの言葉は届かなかった。
「ひと思いに殺して差し上げます」
「いやだあっ」
生ゴミはあしたでしたねーとか物騒な物言いの琥珀に続けて、秋葉の力が走った。
「ぎゃーっ」
その日、遠野家の庭の半分が瞬時にして消失したと言われている。
豊かだった庭の緑も、夏になっても葉を茂らせる事のない状況になり『死の森』と呼ばれるようになったとか、ならなかったとか。
なお志貴はかろうじて秋葉の追撃を逃れ、今のところ健在であるが。
「遠野君、どうぞ」
「シエル先輩、正月早々からカレー三昧ってのはどうかと」
謎のカレーおせちに舌鼓を無理矢理打たされていた。