残す者、残される者


2001/07/11






 それは、あたしがまだ小学生だったときの話だ。





「梓、ちょっと来なさい」
 いつものように山に遊びに出ようとしたあたしを、母さんが引き止めてきた。
 なんだろうか。
 正直、緊張した。それも、あまり良くない意味で。
 だけど、一生懸命頭を捻っても、心当たりは思いつかなかった。
 テストが帰ってきてるわけじゃないし、最近男の子を泣かせた覚えも無い。い 
や、そういうときはいつも相手が悪いんだから、それについては謝るつもりはな い。
 あたしはそんな、なんだかよくわからない決意を秘めて、母さんのいる台所へ 
向かったんだったと思う。
 子供が親に呼び出されるとくれば、だいたいこんな感じで、ひとつ覚悟を決め 
て行くものだ。

 台所へいくと、意外なことに母さんは怒ってはいなかった。いつもどおりの、 
吊り目気味ではあるけれど穏やかな顔に、あたしはほっとした。
「梓ちゃん、これ」
 そういって母さんが手渡してきたものに、あたしは見覚えがあった。別に珍し 
いものじゃない。よくある、プラスチックのお米の計量カップだ。
「これ一杯で、お茶碗で軽く二杯くらいなのよ」
「え……うん」
 あたしは、わけもわからないままに、手渡されたカップを見詰める。
「うちは6人だから、大体カップで4杯くらいよね?」
「……うん」
 どうやら、このカップでお米を量ってお釜に入れろということらしかった。
 遊びに出るつもりだったあたしは、少し不満に思いながらもそれに従った。
 まだまだこの頃は、あたしは山の林のクワガタやカブトムシ、川のザリガニや 
沢蟹、山女や鮎で頭がいっぱいの頃だったから、仕方が無い。
「指を入れてみて、そう。ここの関節のところまで、水を入れるの」
 だけど、母さんの声は優しくて、そしてとても一生懸命だったから、あたしは 
言い出せなかった。
 遊びにいきたいから、そんなのあとで──とは、言えなかった。
 それでも、あたしはやっぱり子供だったから、むっつりと唇を尖らせたまま、 
母さんの言う通りに手を動かし続けた。母さんの言葉に、頷きもせずに。
 それでも、あたしの手を導く母さんの手は、優しかった。



 次の日も、母さんはあたしに料理を教えようとした。
 遊びに行きたいんだけど、というと、母さんは
「ね、お願い。ちょっとだけだから」
と言って、手を合わせてきた。あたしの顔は母さん似だ、ってよく言われるけど 
、母さんの例えばこういう仕種は、千鶴姉の方によく似ている。もちろん、母さ 
んが千鶴姉に似たわけじゃなく、千鶴姉が母さんに似たってことなんだろうけど 。
 どっちにしても、少しずるい、と思った。そうされれば、あたしが断り辛くな 
ることを知っている。
「まあ……いいけどさ」
 諦めて、母さんの横に立つ。
 母さんは、あたしよりも子供みたいに喜んで、はしゃいだ声で教えだす。
 包丁の握り方。
 味噌汁の作り方。
 ちょっとだけだったはずなんだけど、ちょっとだけじゃなくなった。
 その日とてもたくさんのことを、わたしは教わった。
 楽しそうな母さんの横で、あたしもちょっとだけだけど、楽しかった。



「今日は、約束があるから」
 母さんの誘いに、あたしはそう言って断った。
 嘘じゃなかった。
 いつもは一人で遊んでることの多いあたしだけど、別に友達が少なかったわけ 
でもなかった。ただ、遊びの趣味が合わなかっただけだ。
 だから、いつものように好きな遊びができるわけではなかったけど、少しは楽 
しみだった。
「でも……」
 母さんは、少し寂しそうな顔をしてそう言い、それから慌てて首を振る。
「そうね。それなら仕方ないわね。いってらっしゃい」
 何もなかったかのような笑顔。
 母さんはそうやって、無邪気にあたしのこころにしこりを残す。

「梓ちゃん、どうしたの?」
 友達に声をかけられて、はじめて自分が考え事をしていることに気付いた。
「あ、こんな時間。あたし、もう帰るね」
「え?御飯食べていけばいいのに」
「ううん、ありがと。ごめんね」
 残念そうにする友達に謝って、あたしは家に帰った。
 夕焼けの橙色の光の中を、走って帰った。
 なんでこんなに急いでいるのかなんて、考えもしなかった。
 お夕飯の支度に、間に合いたかった。



「おかえりなさい、お姉ちゃん」
 末の妹の初音が迎えてくれたとき、もうテーブルにはお夕飯の用意があった。
「……どうしたの?」
「あ、いや、なんでも……ただいま」
 初音は、小さい顔を少し傾がせて、それでも笑顔を作って応えてくれた。
 千鶴姉、楓、初音。そしてあたしと、母さん。
 5人が囲む食卓で、母さんはいつもどおりの顔をしていた。
 いつもどおりじゃなかったのはあたしの方で、お茶碗ごしにあたしは、滑稽な 
ほどちらちらと母さんの様子を窺っていた。
「お父さんは?」
 千鶴姉が、お煮しめを箸でつまみながら母さんに尋ねる。
 父さんは、最近身体の調子が良くないらしくて、時々薬をのんでいるのを見る 
。それでも、仕事が忙しいのか、帰りはいつも遅いし休みの日もいないことが多 い。
「うん……具合悪いらしくて、もう寝ちゃったわ」
 苦笑するような顔で、母さんが答える。
「そう……最近具合悪いみたいだけど?」
「大丈夫よ」
「うん──でも、お酒は控えたほうがいいわ」
 千鶴姉の言う通り、普段はあまりお酒など飲まないはずの父さんが、最近は良 
く飲むようになった。
 薬をビールで飲みこもうとして、千鶴姉に慌てて止められたこともある。
「そうね、言っておくわ」
 にこりと笑う母さんの視線と、その顔を覗き見ていたあたしの視線が、不意に 
ぶつかった。
「どうしたの?」
「あ!ううん、なんでも……」
 視線を逸らすあたしに、母さんは優しく笑いかけた。
「ねえ、梓。このあと、お夕食の片付け、手伝ってくれる?」
「え」
 あたしは、びっくりして箸を落としそうになった。
 母さんは、にこにことそんなあたしの顔を見ている。

 要するに。
 母さんには、全部お見通しだったということだったのかもしれない。

「しょうがないな……わかったよ」
 あたしは、照れ隠しみたいに乱暴に、そう応えていた。
「お母さん、はつねも」
 すぐに、初音がそう言ってくる。なんでも真似したがる年頃だ。
「ふふ……そうね、じゃあ初音にも出来ることをね」
「うん」
「それじゃあわたしも」
 千鶴姉が言い出すのに、母さんとあたしとがすぐに応えていた。
「千鶴ちゃんは、いいわ」
「千鶴姉は、邪魔だから」
「……」
 千鶴姉はなんとも複雑な顔をしていたが、仕方が無い。
 一体幾つのお皿やお茶碗を燃えないゴミにしてしまったと思っているのだろう 
、この姉は。
 ご先祖からの古いお皿を木っ端微塵にしたときには、父さんを、怒るより先に 
しょげさせてしまったこともそんなに昔の話ではないだろうに。



 母さんとの二人きりの料理教室が始まって、二週間も経ったころだろうか。
 もともと不器用なほうではなかったから、あたしは母さんの教えてくれたこと 
をすいすいと覚えた。
 母さんも、嬉しそうだった。
 そしてある日、母さんは
「がんばったわね、梓。お母さんのお料理教室は、今日で卒業よ」
 そういって、用意してくれていたものらしい新しいエプロンを、あたしにかけ 
てくれた。
 あたしは、嬉しかったけれど、少し不思議だった。
 どうして、もう卒業なのだろう。
 これからだってずっと、時間はあるのに。いくらだって、一緒に料理したり出 
来るのに。


 それから三日もしないうちに、あたしはその答えを知ることになる。
 黒いリボンの飾られた、母さんと父さんの写真を前にして。




 それからだいぶたって、叔父さんがここに来て、生活も落ちついてから。
 あたしは、叔父さんに苦笑気味に言ったことがある。
「母さんは結局、自分のあとであたしにみんなの面倒みさせるために、あたしに 
料理教えてたんだな」
 すると叔父さんは、煙草を咥えた口を綻ばせて、首を振った。
「そりゃちがう、梓」
 確かめるようにもう一度、そりゃちがうよ、と付け加える。
「あの人はさ、残したかったんだよ。何でもいいからお前たちに、自分がいたん 
だってことを、残しておきたかったんだよ」
「……」
 よくわからずにいたあたしの頭を、叔父さんは片手で撫でて、もう片方で煙草 
をもみ消した。
「俺も……あいつに何か残してやれるのかな、いつか」








──そして今。
 あたしは、耕一の腕の中にいる。
 耕一に背中を預けて、その膝の上に腰掛けるような恰好で、二人してアルバム 
を見ている。
「親父が、そんなこと言ってたか」
「うん……だから、叔父さん残念だったと思う。最後まで会えなくて、結局耕一 
に何も残せなくて」
「そんなことないさ。お前や千鶴さん達を守ってくれた。あのクソ親父にしちゃ 
、上出来だ」
「口悪いなあ。そんなところは、そっくりだ」
 苦笑いしながら、あたしは新しい一枚を、アルバムの隙間に収める。
 その写真を目に留めたのか、耕一はあたしの肩越しにそれを覗きこんできた。
「……会えたのか」
「うん……耕一のおかげだね」
 それは、ついこの前に、久しぶりに逢うことの出来た後輩との記念写真だった 。
 後輩は、逢えなくなる前と何ら変わらぬ笑顔で、あたしの首にすがりつき白い 
歯をむき出して笑っている。飛びつかれているあたしの表情がびっくりしたよう 
な、怒鳴っているような顔になってしまっているのは、まあ、仕方が無い。
「俺もちょっとは、役に立ったってことかな」
「ああ。……ありがと」
「そうか……それなら、俺もお前に、何かを残せたってことになるのかな」
 そんなことを言う耕一の襟首を、あたしは肩越しに手を伸ばしてひっつかみ、 
捻り上げてやった。
「う、げほっ!何すんだ、梓」
「不吉な事、言うな」
 腹が立っているのを隠しきれない声で、あたしは言った。
 みんなあたしに何かを残したあと、死んでいった。母さんも、叔父さんも。
「まだまだだよ。あんたには、貸しの方が何倍も多いんだからね。こんなの、せ 
いぜい利息分くらいさ」
 振り向いて耕一に見せてやった笑顔は、多分上手くいったと思う。
「何だよそれ……じゃあ、あとどのくらいで返済できるんだ?」
 呆れた顔をする耕一に、あたしは意地悪い顔で答えてやった。
「そうだね。あんたの甲斐性じゃ、一生分くらいかかるよ。多分ね」
「一生か……」
 優しい声で耕一は言って、それからあたしの首に腕をまわす。
「んじゃ、せいぜいゆっくり返してやるとするか。一生かけてな」
「ああ、せいぜいがんばんなよ」

 憎まれ口を裏切るように、あたしは、耕一の腕に両手でしっかりとすがりつい 
た。

 それがどこかに、離れていってしまわぬように。






                            <終>


 DEEPBLUE様より拝領致しました。
 久々のGIFT更新がSSというのはSSサイトとしても嬉しい限りです。
 クリスマスSSであった梓SSの三次小説とのことですが……「そう言われれば」 ぐらいに単体で勝負できるSSのような気が致します。
 思い返せば、簡易チャットで梓の子供の頃の一人称を聞かれたりしたのはこのSS のことだったのですねと一人納得したりしました。
 茶化すと、千鶴を選ばなかったお母さんを誉めてあげたいです(爆)。致命的だった のでしょうけれども(笑)。
 DEEPBLUE様、本当にありがとうございました。


DEEPBLUE様のHP 
DEEPBLUE様への感想はこちらへ



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